突然の報告から一夜明けた皇宮は騒然とした雰囲気に包まれていた。
克也は夜が明ける前から既に軍関係者との軍務会議に出ており、一度も部屋に戻ってきてはいない。
「瀬人様…」
私室にて椅子に座り込んだまま青冷めた顔をしている瀬人に、マナが気遣うように声をかける。
「瀬人様、暖かいお茶を持って参りました。これを飲めば少し落ち着かれますよ」
「いらん」
マナの優しい心遣いも、今の瀬人の心には何も届かない。
暖かな湯気をたてるお茶のカップに目もくれず、瀬人は膝の上で拳を握りしめ襲い来る不安感と闘っていた。
皇宮の最奥にあるこの部屋には何の音も届かないが、瀬人には皇宮の、そして街中の興奮と悲哀に満ちた声が聞こえていた。
ただ一点を見詰めて己と闘っている瀬人を見て、マナは静かに息を吐く。
「瀬人様…。取りあえずお茶をお飲み下さいませ。そして飲み終われたら…明日の式典の衣装合わせを行いますから」
マナの言葉に漸く瀬人が振り返り視線を寄越した。
「式典…?」
「はい。先程軍務大臣様から、黒龍国軍本隊の出陣は明朝執り行われるとの知らせが参りました。瀬人様は皇后陛下としてその式典に顔を出さねばなりません」
「明日…? 明日の朝に…もう…?」
「はい…。皇帝陛下はもう甲冑の合わせも終えて、今頃は誓いの泉にて『戦勝祈願の儀』を執り行なっておられる筈です」
まるで身体中の力が抜けきってしまったようだった。ガクガクと震える己の身体を抱き締めて、椅子に座っていなければ倒れてしまっていただろうと瀬人は頭の片隅で考える。
青い顔をしてショックを受けてしまっている瀬人を悲しそうに見ながら、マナは自分の役割を果たす為に言葉を続けた。
「黒龍国本隊の出陣式は、明日の午前中に皇宮広場にて行われます。瀬人様は皇后陛下としてその式をバルコニーの上から見守らなければなりません。式が終わって本隊がいざご出陣なさる時は、皇后陛下は手を振ってそれを笑顔で見送られ…」
ガシャーン! と、突然カップが床に落ちて割れる音が辺りに響く。
マナの言葉を聞いていた瀬人が突然立ち上がり、テーブルの上に置いてあったカップを手で払った為であった。
余りに突然の行動にマナも驚き、目の前の瀬人に視線を向ける。
立ち上がった瀬人は怒りの余りに握りしめた拳をブルブルと振るわせていた。
「なん…だと…? マナ…今何と言った…?」
「瀬人…様…」
「手を振って笑顔で見送れだと…? 愛する夫が死地へ赴くというのに、それを笑って見送れと言うのか…っ!? 巫山戯るな!!」
瀬人の怒声にマナは慌てて膝を折り、その場に顔を伏せた。
しかしだからと言って、ここで瀬人にそれをさせない訳にはいかないのだ。
マナは勇気を振り絞って、皇后付き女官としての努めを果たす為に声を張り上げる。
「ですが…、ですが瀬人様…っ! それが皇后陛下としてのお役目でございます!!」
「………っ!!」
マナの跪いているすぐ側に今度はポットが投げ付けられる。大きな音を立ててそれは、その場に陶器の破片と中に入っていた茶葉を散らした。
「うっ………! ふっ…!」
瀬人の怒りが収まるまではじっとしていようとそのままの体勢でいると、次の瞬間には頭上から必死で嗚咽を耐える声が聞こえてくる。
その声が収まるまで、マナは顔を上げることが出来なかった。
その日の夜遅く、約一日ぶりに漸く克也は自室に帰って来る事が出来た。
扉を開け薄暗い部屋に足を踏み入れた瞬間、それはピタリと止まってしまう。
「瀬人…?」
薄暗い部屋の中で俯いたまま立っていた瀬人が、その声にゆっくりと顔を上げる。
泣き腫らした目と青白い顔色が、瀬人の精神状態の悪さを示していた。
「克也…」
部屋の入り口でじっと立っている克也に、瀬人は静かに近付いた。そして克也の大きな手を自分の白い手でそっと包み込む。
「克也…。戦争に…行くのか…?」
その問いにもう一方の手で瀬人の肩を抱き寄せ、その細い身体を力強く抱き締めると、克也は肩口で頷いた。
「それが皇帝としてのオレの役目だ…」
「オレが行くなと言ってもか?」
「オレが行かないと前衛の志気が上がらない。黒龍国の皇帝は代々こうして自らの存在によって軍の志気を高めて、戦争に打ち勝って来たんだ」
「ならばオレを共に連れて行け…っ!! 自分の身を守る体術くらいなら身に付けている!」
「無理だ…。戦場に妻は連れて行けない…」
克也の答えに瀬人はギュッと目の前の身体に抱きついた。
克也は行ってしまう。多分意志は変わらない。それならば…。
「だったら…尚更だ。今夜は…オレを抱いてくれ、克也…っ!」
必死に紡ぎ出した言葉に対しても、克也はゆるりと首を横に振る。
「ダメだ。出来ない」
「何…故…っ、何故なんだ…っ!? やはりオレは形ばかりの妻なのか…っ!?」
「違うっ! お前はオレの…最愛の妻だ! だからこそ…自分の欲望でお前を傷つける事だけは出来ない…っ!!」
腕の中の細い身体をかき抱く。
苦し気に顔を上げた瀬人を見詰め、そしてそのまま唇を重ねた。
柔らかい唇を舐め上げて舌をそろりと口中に押し込むと、まるでそれを待っていたかのように瀬人の舌がそれに絡まった。
お互いに愛しい思いを少しでも相手に伝えようと、必死になって唇を舌を擦りつけ合う。
やがてカクリと力を無くして崩れ落ちる身体を支え、克也が愛おしそうに腕の中の瀬人を見詰めた。
「瀬人、お前に頼みがある」
「なん…だ…?」
「軍国主義の冥龍国との戦争は直ぐには終わらないだろう。戦争が長引けば長引くほど国も人心も荒れていく。戦地での負傷者も増え、戦死者も沢山出てくるだろう」
「………」
「そうやって荒れていくこの国を、お前が支えていて欲しいんだ。負傷した兵士や戦死者の家族には保証をし、高くなる物価を上手く操作し、荒れていく国民の心を導いて欲しい。これは他の誰にも出来ない。白龍国の法皇として長年民を率いてきたお前だからこそ出来る事なんだ」
「克…也…っ」
「信じているよ、瀬人。お前が立派にこの国を支えてくれると。オレはそんなお前を妻に出来たことを、生涯最大の誇りだと思っている」
「克也…っ。頼む…、絶対に生きて帰って来てくれ…っ! このオレの元に…絶対に…っ!!」
「あぁ、約束する。絶対に生きてお前の元に帰って来るよ。だからお前もこの国の事を頼むな」
優しげに微笑む克也に瀬人はもう何も言えず、ただ力強く頷くだけだった。
夜空には細い細い月がかかり、別れの時間は刻々と近づいていた。