克也が冥龍国と戦う為に戦地に赴いたその日から、瀬人は毎日しっかりと願いの儀の為に誓いの泉へとやって来ていた。
雨の日も風の日も、そして体調が優れない時も祈りは絶えず続けられる。
真紅眼の黒龍の姿は初日のあの時以来見る事は無かったが、それでも克也が戦地で負傷したという知らせが一切入って来ないところを見ると、祈りの力による黒龍の守りは万全であるらしかった。
瀬人が願いの儀を初めて半年後のある日の事。
いつものように地下に降りてきた瀬人の様子がおかしいのにバクラは気付いた。
普段だったら早々に服を脱ぎ誓いの泉へと向かっていくのに、今日に限って彼女はいつまでも服を脱ごうとはしなかったのだ。
「皇后サマ…?」
あまりに様子がおかしいので、バクラは心配になって思わず声をかけた。
「どうなさったのですか? 今日は…様子がおかしいですね」
「バクラ…。その…」
「何でしょう」
「一つ…聞いてもよいか?」
「あぁ、はい。オレに分かる事ならば何なりと」
「あ…その…何だ…。月経の血は…不浄なものなのか…?」
いつもだったら相手を真っ直ぐ見据えて言葉を交わす瀬人が、今は僅かに視線を逸らして顔を俯けている。
そのらしくない態度と瀬人の言葉に、バクラはある一つの仮説が頭に浮かんだ。
それを確かめようと瀬人の後ろに控えていたマナに目を向けると、マナは薄く微笑んでコクリと一つ頷いた。
目の前の瀬人に視線を戻すと、彼女は赤くなって俯き黙りこくっている。
そうか…とバクラは胸を撫で下ろした。
漸くこの御方も…女性として目覚められたのか…。
その想いがどうやら顔に出てしまっていたらしい。
チラリとこちらを見遣った瀬人が「何をそんなにニヤニヤしているのだ」と、少し怒ったように言った。
「申し訳ありません。別に他意はありませんよ」
「………」
「先程のご質問についてですが、誓いの泉にとって月経の血は不浄なものではございません。安心して儀式をなさって下さいませ」
深く頭を下げつつそう言うと瀬人は安心したようにふぅ…と息を漏らし、「そうか。良かった」と呟いた。
その溜息を聞いて、バクラは少なからず驚いた。
どうやらこの皇后の心配事は、月経が来ている自らの身体を見られる事ではなく、むしろ月経によって願いの儀が途切れはしないかという事だったらしい。
瀬人は願いの儀に何の問題も無い事を知ると、いつものように大胆に服を脱ぎ捨てて誓いの泉へと歩いて行く。
その白い内股に一筋の赤い滴が流れ落ちていっても、全く気にする素振りはなかった。
泉を渡っていく瀬人を見守りながら、バクラは心から感心する。
一体この皇后はどこまで真摯に克也の事を愛しているのかと…。
女性にとって(瀬人は奇跡の子であるため半分だが)自分の月経の血を男に見られるというのは、考えられないくらいに恥ずかしい事の筈だ。
いくら瀬人が半分男であるといっても、恥ずかしくない筈は無いのだ。
だが瀬人は自分の恥辱よりも、克也への愛を優先させている。
克也の命を守る為に、瀬人は今全神経を祈りへと向けているのだ。
その事実にバクラは心から瀬人を尊敬した。
「本当に…強い方ですね…。皇后サマ…」
こんなにも強い意志を持った瀬人に出会えた事を、バクラは心から感謝した。
そしてそんな彼女を愛した自分に誇りを感じる。
この想いは間違っていない。
必ず…必ず瀬人とこの儀式を最後まで見守ると、強く強く心に決めたのだった。
克也が戦争に行き、そして瀬人が願いの儀を発動させてから三年後。
戦争は未だ終わる気配を見せないが、黒龍国と東の隣国の白龍国の情勢は混乱することも無く落ち着きを保っている。
これも全て瀬人の手腕のお陰であった。
バクラ自身は政治的な能力はほぼ皆無な為、瀬人がどれだけ凄い事をやっているのかというのは実は詳しくは分からない。
だがたまに外の情報を持ってくる兵士や神官が絶えず瀬人の事を褒め称えているのを聞くと、それがどれだけ素晴らしい能力かという事だけは知る事が出来た。
更に非常に不思議な事に戦争が始まってからというものの、黒龍国も白龍国も数ある幸運に恵まれている。
黒龍国では常に気候が安定し作物に恵まれ、白龍国では次々に新しい鉱脈が発見されていた。
黒龍国で取れた豊富な食物を白龍国に輸出し、代わりに白龍国からは新しい鉱脈で取れた鉄を輸入して武器や防具を精製し戦地へ送る。その武器や防具を使った黒龍国軍は、物資が乏しくなりつつある冥龍国軍に比べて戦いを有利に展開する事が出来た。
更に白龍国軍も常に西の大河沿岸を守り続け、黒龍国に入って来ようとしている間者を捉え、こちら側に有益な情報を吐き出させる等の活躍を見せていた。
この白龍国軍の働きも、ひとえに瀬人が白龍国法皇…つまり彼女の弟に働きかけた結果だという。
バクラはその数々の瀬人の功績に、心から感心していた。
今の黒龍国は、瀬人の手によって支えられていると言っても過言ではない。
「皇后サマ。貴女は本当に素晴らしい方です…」
誓いの泉を渡り、いつものように黒水晶に近付いて行く瀬人に向かってバクラは小さく呟く。
その声を聞き止めたのか、側に控えていたマナが近付いて来た。
「今更瀬人様の素晴らしさに気付かれたのですか?」
「いや、もっと前から気付いてた」
「本当ですか~?」
「何だよ。ウザイな」
「あらあら。皇家を裏で支える『守り人様』がそんな口の利き方をしても良いのでしょうか」
「あのなぁ…。お前はオレの正体なんてとっくに知ってるだろ、マナ」
「知っていますよ。何だかんだいって私達も長い付き合いですからね。陛下や瀬人様に対して人知れず仄かな想いを抱いてらっしゃる事も…知っています」
マナの言葉にバクラはチラリと視線を横に走らせた。
小さい頃に一緒に遊んだりした経験は無いものの、克也の乳兄弟という事で昔から何度か顔は合せていた。
特にマナが皇后付きの専属女官となってからは、実に長い付き合いをしている。
何せ三年間、毎日顔を合せているのだ。
願いの儀をしに来る瀬人に付いてくる為、当たり前と言えば当り前の事なのだが。
そういう長い付き合いの中で、バクラはこの一見どこか抜けて見えるような女官が、実は非常に切れ者だという事に気付いていた。
だからこそ、自分が抱いている想いがマナにバレていても別に驚きはしなかったのだが。
「言うなよ」
「言いませんよ」
口止めするつもりで鋭く睨みつつそう言うと、マナは実にあっけらかんと答えを返した。
「だって貴方が陛下や瀬人様に抱いている感情は、普通の恋愛感情とは違うじゃありませんか。どちらかと言えば、私が陛下や瀬人様に抱いている感情と似ています。何が何でもあの方達を守ってみせるという強い意志が感じられますので」
これには流石のバクラも驚きを隠せなかった。
まさかそんな細かいところまで見透かされているとは思わなかったのだ。
目を丸くしてマジマジとマナを見詰め、感心したように口を開く。
「驚いたな。まさかそこまで読まれているとは思わなかった」
「バレバレですよ。まぁ…瀬人様は全く気付かれていらっしゃらないようですが」
「皇后サマは陛下以外目に入っていないからな」
「ふふっ…。確かにそうですね」
「でもまぁ…厳密に言えばお前の想いとオレの想いは違うぜ」
「分かっています。他の人の恋愛とは違っていても、貴方の想いは確かに恋愛感情のようですしね」
「何度も言うけど、言うなよ」
「何度も答えますけど、言いませんよ」
そんな事を話しながら、二人は誓いの泉の向こうを見詰める。
視線の先では、小島に上がった瀬人がいつもと同じように黒水晶に名前を書き込もうとしていた。
その途端、バクラはふと違和感を感じた。
どこかいつもと違う。だけどその違和感は初めて感じる物では無い。
いつか…今より少し前…。そう、三年前にも同じような感じを受けはしなかっただろうか。
一歩前に踏み出して、身を乗り出すようにして瀬人のいる場所を見詰めた。
案の定その周りの景色がまるで陽炎のように歪んで見える。
「真紅眼の黒龍…っ!!」
そこには、三年前の願いの儀初日以来ずっと姿を見せなかった黒龍が再び姿を現わしていた。