*奇跡の証明(完結) - 番外編『二つの恋の物語』 - その7

 次の日の朝、克也は戦場へと旅立って行った。
 直接式典を見に行く事は出来ないが、報告に来た神官によりその時の状況は伝えられていた。
 黒馬に跨り剣を片手に兵士を鼓舞する姿は、きっと勇猛果敢であったに違いない。
 少しでもいいから見たかった…とバクラは寂しげに微笑んだ。
 こんな時ばかりは地下でしか生きられない自分の身を疎ましく思う。
 発光水晶の光を反射して煌めく誓いの泉を見ながらただ静かにボンヤリと立ち竦んでいると、突然背後から人の気配を感じた。
 慌てて振り返り、そして己の目が捉えたその姿に呆気に取られる。

「バクラ、久しぶりだな」
「え…? 皇后サマ…?」

 考えもしなかった人物の来訪に本気で驚いて、バクラは一瞬頭の中が真っ白になった。
 何故今ここに瀬人がいるのか全く理解出来ない。

「皇后サマ…? 一体何しにここへ来たんですか? 戦勝祈願の儀ならば昨日皇帝陛下が行なって、皇后サマの出られる幕はありませんが…」

 余りの事に多少混乱しながらもそう言うと瀬人はただ「ふん」と鼻で笑って、次の瞬間には自らの服に手を掛け始めた。
 金や銀の糸で刺繍の入った帯をシュルリと解き傍らに跪いていたマナに手渡し、今度は服の合わせ目の紐を解いて豪華な衣装を脱ぎ始める。
 ここまで来ると流石のバクラも、瀬人が何をやろうとしているか大体の検討が着いてきた。
 まさかとは思うがこの皇后は、今から願いの儀をしようとしているのではないだろうか。
 そう考えた瞬間、バクラの脳裏に昨日の克也の台詞が甦ってきた。
『瀬人を…守ってやってくれ。頼むよ…バクラ』
 その声にバクラは慌てて瀬人を止めようとした。

「え…、ちょっと…。何やってるんですか皇后サマ!! っ…! うぷ…っ!」

 だが瀬人に脱ぎ終わった衣装を頭の上から被せられて、次の言葉を紡ぐ事が出来なかった。
 上等な絹の衣装はとても柔らかく、バクラの身体に纏わり付いてなかなか剥がれない。
 水の中で溺れた子供が水面に顔を出すように何とか衣装をどけて瀬人を見ると、彼女はもうすっかり全裸になって真っ直ぐに泉を見詰めていた。
 その姿に背筋がゾワリとざわめいた。
「皇后サマ…。もしや貴女は…」
 戸惑いつつも声をかけると、その声に瀬人が振り返る。
 その青い眼に宿るのは強い意志と決意。
 その瞳の光は、昨日戦勝祈願の儀をしに来た時の克也の瞳とまるで一緒だった。

「もしや貴女は、『願いの儀』をするつもりじゃないでしょうね…?」
「流石守り人。察しがいいな。その通りだが?」
「その通りじゃないですよ!」
「何を怒っているのだ? 皇后として戦争に赴いた皇帝の身の安全を黒水晶に祈ることは、そんなにおかしい事なのか」
「別におかしくは無いですけどね…」

 バクラは深く溜息を吐きつつも、それでも必死に瀬人を止めようと試みる。
 昨日の克也との約束をふいにする訳にはいかなかった。
 守り人である自分にはこの願いの儀がどれだけ大変な儀式であるのか、嫌と言う程分かっていた。
 だからこそ、何が何でも止めなければならないと思ったのだ。
 瀬人にこんな大変な事をさせるのは、克也にとっても本意では無いだろう。
 ただ皇宮で大人しく夫の帰りを待っていればいいだけなのに、どうしてわざわざこんな事をしに来るんだ…とバクラは正直焦っていた。
 だがそんなバクラの気持ちを知ってか知らずか、瀬人は全く自分の意志を変えようとはしない。

「皇后サマ、貴女は知らないんだ。願いの儀は本気で大変な儀式なんだ。一日だって休むことは出来ない。たった一日祈りを途切れさせただけで、その願いは永久に叶わなくなる」
「そんな事は覚悟の上だ。オレは戦争が終わり克也が無事に帰ってくるまで、毎日祈りに来る自信がある」
「だから…っ。今度の戦争はそんな生易しいものじゃないんだって! 相手は冥龍国…この黒龍国以上の軍国だ。とてもじゃないが二~三ヶ月で終わるような戦争じゃない。下手すりゃ一年…いや、それ以上かかる可能性だってある。ただでさえ三百年前の七年戦争並になると言われているんだ! そんな長い時間を、貴女は毎日祈り続けられるってのか!?」

 息を荒げてそう訴えても、瀬人は黙って立っているだけであった。
 そしてバクラから視線を外して、一歩泉に向かって歩き出す。
 思わずその身体を止めようと腕を伸ばすが、バクラは寸でのところで腕を止めた。
 守り人である自分は皇族の身体には指一本触れる事は出来ない。
 止めたいのに止められないもどかしさに唇を噛むと、勝ち誇ったように振り返った瀬人がニヤリと笑った。

「どうした、バクラ。オレを止めるのではないのか」
「出来るわけないだろ…。オレは守り人だ。皇族の身体に触れる事は許されていない」

 悔しげに呟くと、瀬人が「そうだろうな」と答えを返す。

「お前達守り人が皇族の身体に触れられないのは、今回のように皇族の願いの儀を邪魔される事の無いようにする為だ。例え儀式が成功しようと失敗しようと、皇族が自らやると決めたその願いを、たかが臣下が邪魔する事は許される事では無い。その為のしきたりだ。違うか?」

 突然発せられたその言葉に、バクラは驚いた。
 黒龍国で生まれ育った皇族でさえも知り得ない守り人のしきたりの本質を、白龍国から嫁いで来て僅か半年の瀬人が見事に言い当てたのだ。
「その通りです…」
 驚きと悔しさが入り交じった声色で呆然と呟き、そして側に控えていたマナに瀬人を止めるように詰め寄った。
 だがマナは静かに首を横に振り、瀬人を信じると言ったきり黙り込んでしまった。
 そこまで来て、漸く瀬人を止める事は不可能なんだとバクラは悟った。
 願いの儀を止める事は不可能。
 だが瀬人を守ると克也に約束したからには、その約束を破棄する事は出来ない。
 ここまで来たら自分に出来るのは、守り人として儀式を見守り、そして儀式を続ける瀬人を守る事…それだけ。

「はぁ…。分かりましたよ、皇后サマ…。もう好きにして下さい。ただしここから先の責任はオレは持てませんよ? それだけはご理解下さい」
「分かっている。お前が心配するような事は何も無い」

 諦めたようにそう伝えると、瀬人が自信ありげに答え、そして誓いの泉へと向かっていった。
 その後ろ姿を見守りながら、バクラは複雑な気分になっていた。
 願いの儀がどれだけ大変な儀式か分かっているだけに、瀬人がそれをやり遂げられるとは到底思えなかった。
 だがそれと同時に、何故か瀬人なら最後までやり遂げる事が出来るのでは無いだろうか…と妙な自信が湧いてくる。
 何はともあれ守り人である自分には、儀式を黙って見届ける事しか出来ないのだ。


 泉を渡っていった瀬人がやがて小島に辿り着いたのが見える。
 そしてそのまま黒水晶に近付いてその手を触れさせ、そして驚いたように一度手を離した。そしてもう一度黒水晶に手を当てた時、突如異変が起こった。
 まるで陽炎のように黒水晶周辺の景色が歪んで、次の瞬間に目に入って来たのは巨大な黒龍の姿だった。
「………っ!?」
 慌てて身を乗り出して見つめ直すが黒龍の姿は消えず、翼を広げて瀬人と対峙している。

「真紅眼の…黒龍…っ? まさか…そんな…」

 慌てて後ろを振り返って同じように瀬人を見守っているマナを見るが、彼女の様子に異変は無い。
 今までと同様に心配そうに見守っているその姿から、マナには黒龍の姿が見えていない事が分かった。
 瀬人と黒龍は暫く何かを話していたようだったが、やがて黒龍の姿は消えて元の黒水晶に戻っていく。
 その黒水晶に名前を書くと深く礼をして、瀬人はこちらに戻って来た。
 濡れた身体でバクラの前に立ち、フワリと笑ってみせる。

「何て顔で見てるんだ、バクラ」
「あ…い…いえ…」

 未だ驚愕したままのバクラに、瀬人は「儀式は必ずやり通す。安心しろ」と微笑んで伝えた。
 その姿が本当に美しいと感じた。
 克也を守りたいという強い意志を秘め、神聖な空気を纏い、自分のする事に絶対の自信を持っている。
 そして全身から溢れるような克也に対する愛が、バクラには痛い程に感じられたのだ。
 外見の美しさも素晴らしかったが、それ以上に感じられる内面の強さと優しさと真摯な愛が、バクラの心を一気に打ちのめした。
 その白い身体と青い瞳と、強い意志を崩そうともしない横顔を見る度に、心臓が高鳴り顔が紅潮する。
 それはまさしく恋だった。
 克也に対する想いとは全く違う、だが確かに同じ慕情だった。
 最初から叶う筈も無いその想いに気付き、それでもバクラは後悔はしなかった。
 例えその白い身体に触れる事は叶わなくても、自らの想いを告げる事さえ出来なくても、自分には自分の恋愛があると信じている。
 それが普通の人の恋愛とは違っていても、想いの深さは変わらないのだ。
 克也に命を助けられたあの幼き日に誓った愛を、今ここでもこの方に誓おう。
 必ず…一生守ってみせると。
 貴女と…貴女の愛したあの方と、そしてそれを取り巻く人々の幸せを。
 自分は必ず最後まで守り通してみせると、バクラは心の中で強く誓った。

「皇后サマ…」

 マナと共に着替えをしている瀬人に近づき、バクラはその場に跪く。

「こうなったらオレも覚悟を決めます。必ずや願いの儀を…そして貴女自身をお守致します。ですから安心して儀式をお続け下さいませ」

 そのまま深く頭を下げると、頭上から「ありがとう…。これからも頼む」と優しい声が降って来た。
 その声が余りに昨日の克也の言葉と同じ雰囲気で、バクラは俯いたまま思わず一筋の涙を零したのだった。