*奇跡の証明(完結) - 番外編『二つの恋の物語』 - その6

 克也が瀬人と結婚して半年が経っていた。
 その半年の間、地下で暮らす自分には特に何も変化は無かったが、地上では殊の外重大な変化が起きているという情報を耳にして、バクラはそっと溜息をつく。
 西の隣国である冥龍国が、この黒龍国に対して戦争の準備をしているというのだ。
 直接外に行く事が出来ない身ゆえ冥龍国がどんな国かは想像するしか無いが、話を聞くにかなりの武力国家だという事だ。
 外の情報を持って来てくれる兵士や神官、そしてたまに相談に来る克也自身の話から、猶予は確実に無くなりつつあると嫌でも感じさせられる。
 国の内外からピリピリとした緊張感が漂ってきて、それを敏感に感じ取っているバクラも苛々する日々が続いていた。
 黒龍国の決まりとして、もし外国と戦争が起こるような事があれば、真っ先に皇帝が戦陣を切って戦場に赴く事は知っている。
 今現在、この黒龍国の皇帝は克也だ。
 だからこのまま冥龍国と戦争が勃発したとしたら、克也が戦場に行ってしまうのは明白だった。
 彼の身の事を思うと、苛々とした緊張感が消える事は無い。
 そしてもう一つ、それ以上にバクラを苛つかせている事実があった。
 それは半年前に黒龍国に嫁いで来た瀬人の事だった。
 たまに皇帝と皇后の近況を告げに来る女官の話によると、あの二人は未だ結ばれていないらしい。
 瀬人の女性のとして身体が未熟なせいであるらしいが、バクラはそれに対してチッと舌打ちをした。
 瀬人が奇跡の子であるからには、子供を宿せないのは仕方が無い。
 それはもう諦めてしまった。
 だが夜伽となると話は違う。
 未熟だろうが何だろうが、男を受け入れる為の身体は持っているのだ。
 子供を作る事が出来ないのなら、せめて皇帝の夜の相手くらいはしっかりしろよと思ってしまう。
 数週間程前に、いつものように地下にやって来た克也にもバクラはそう提言したが、克也は黙って首を横に振って拒否を示した。

「無理矢理抱けば抱けない事は無いと思う。だが…オレ自身がそれを嫌だと思っているんだ。瀬人には無理をさせたく無いし、どうせ結ばれるならお互いに幸せを感じられる形がいいと思っている。瀬人が女性としてオレを受け入れられるようになるまで、オレはいつまでもアイツを待つ自信があるんだよ」

 そう言って笑う克也の顔に嘘は見当たらなかった。
 瀬人を心から愛し微笑む克也を見る度に、バクラは結婚の儀の時に見た瀬人の姿を思い出す。
 儀式をする為に全裸になった瀬人の身体は、とても美しく、そしてどことなく奇妙で、それでいて不思議な魅力を持っていた。
 細いだけの身体はどこか頼りなく、確かにあの身体では克也を受け入れる事は出来ないだろうと思う。
 だが克也に恋をしている自分は、どうしても瀬人より克也の事を優先的に考えてしまう。
 もしこのまま冥龍国との戦争が起きれば、克也は瀬人の身体を知らないまま戦場に行く事になってしまう。
 克也の武人としての実力は知ってはいるが、武力国家である冥龍国との戦争で無事でいられるとはとてもじゃないが考えられなかった。
 下手をすれば戦場で命を落としてもおかしくないだろう。
 そうなれば、克也は心から愛した人間を真に知る事無く一生を終えなければならないのだ。

「何とか…ならねぇのかよ…」

 誓いの泉の中心に聳える黒水晶を見詰めながら、バクラは一人小さく呟いた。


 そしてその夜。事態は突然動き出した。
 誓いの泉の脇にひっそりと目立たぬように立てられている居住小屋の中で、バクラが休んでいた時だった。
 突然地上に繋がる洞窟から一人の兵士が走って降りてきて、小屋の扉を拳で激しく叩き付けて来た。
「守り人様!! 守り人様!! 起きていらっしゃいますか!?」
 いくら眠っていてもそんなに激しく扉を叩かれれば嫌でも起きると、バクラは少々立腹しながら寝台から起き上がり扉に近付いた。
 鍵を開け扉を開くと、向こうには必死の形相をした兵士が一人立っていた。

「こんな夜中に何事だ?」
「お休みのところを申し訳ございません…。ですが…っ!」
「何だよ? いいから早く言えって」
「戦争です…っ! ついに冥龍国と戦争になりました…っ!!」
「な…んだと…?」
「陛下は今軍関係者と軍務会議を行なっておりますが、戦争になる事はもうほぼ決定事項です。決定が下り次第、陛下は戦勝祈願の儀をする為にこちらにいらっしゃるでしょう。守り人様もどうかそのおつもりで準備をなさってて下さいませ」

 用件だけを伝えると兵士は一礼し、再び地上へと戻っていった。
 後に残されたバクラは呆然とその場に立ち尽くした。
 ついに…戦争が始まった…。
 克也は自国を守る為に戦場へ行き、戦わなければならない…。
 バクラは自分の不甲斐なさに苛立って、扉を拳で思いっきり殴りつけた。
 黒龍国が、そして皇帝である克也がどんなに大変な状況に置かれても、自分はただこの場にいて誓いの泉を守る事しか出来ないのだ。
 やがてやって来るであろう克也を迎える為に守り人としての正式な衣装に着替えながら、勝手に溢れてくる悔し涙を何度も掌で拭った。

 何が守り人だ。
 何が祝福された一族だ
 何が皇帝を裏で支える大事な役目だ。
 肝心なところで何一つ役に立たないではないか。
 大事な人の命を守るどころか、その命の行く末を見守る事さえ出来やしない。

 全ての準備をし終える頃には、既に朝になっていた。
 地下では太陽を見る事は出来ぬが、日が昇るとそれに呼応するように発光水晶の煌めきが増すのでそれを知る事が出来る。
 どんなに悲しんでも悔しがっても、時間は流れ朝は来るのだ。
 その無情さに一旦止まった涙が再び流れ出して、バクラは慌てて袖で涙を拭う。
 拭っても拭っても流れる涙を無理矢理袖で擦って誓いの泉まで行くと、そこには既に克也が一人立ってこちらを見ていた。
 寂しげな…だが一つの大きな意志と決意を込めた瞳をして、笑ってバクラを見詰めている。

「陛下…」
「バクラ、ゴメンな。戦争…止められなかった」
「そんな…。それは陛下のせいではありません」
「いや、オレの責任だよ。オレがまだ若いからさ…。潰すんなら今だって思ったんじゃないかな」

 そんな事を言いながらどうしてそんな明るい顔をして笑えるのか。
 微笑む克也の顔には、一点の曇りも無かった。


 戦勝祈願の儀を終え、服を着ている克也の側にバクラはただ黙って跪いていた。
 多分明日には戦場へと出発するのだろう。
 ローブを羽織り帯を締めているその身に縋り付いて、何とかして彼を止めたいとバクラは思った。
 だがそれは守り人である自分には許されぬ事だし、何よりそれをするのは自分の役目では無い。
 それをする事が許されているのは…皇后である瀬人だけだ。
 ただ…彼女が止めてもどうせ克也は戦場へ向かうのだろうが…。
 克也が衣服を全て身に纏ったのを見て、バクラは彼を見送る為に立ち上がる。
 ところが克也は直ぐには地上に戻ろうとせず、立ち上がったバクラの顔を真正面から真摯に見詰めていた。
 そして何かを考え込んでいたと思ったら、すぐに意を決して静かな声を発する。

「バクラ…。お前に一つ頼みがある」
「何でしょうか、陛下」
「瀬人の事を…頼みたい」
「皇后サマの…?」
「瀬人は地上の皇宮、お前は地下にいるから接触が無いかもしれない。だがもし瀬人がお前を頼るような事があったならば…、どうかアイツの力になってやってくれ。瀬人を…守ってやってくれ。頼むよ…バクラ」

 克也の言葉を聞きながら、バクラは心の中で「何だ、そんな事か」と呟く。
 克也をずっと守る事を誓ったあの幼き日から、バクラには克也の為に生きる覚悟が出来ていた。
 それは守り人として皇帝を守る事だけではない。
 克也が幸せな人生を謳歌出来るように、彼と彼を含めた彼の愛する存在全てを守る事にも繋がっているのだ。
 そんな事だったら、もうとっくに心に決めているんだぜ…陛下。
 バクラは顔を上げ自信に満ちた笑顔を浮かべながら、はっきりとした声で目の前の克也に言い放った。

「勿論です、陛下。お任せ下さい。皇后サマにもし何かあるようならば、オレが必ず全力でお守致します…っ!! ですからご安心下さいませ」

 バクラの台詞に克也は一瞬驚いたような顔をし、だが次に瞬間には破顔した。
 そして「ありがとう…。頼むよ」と言って、バクラに向かって頭を下げた。


 この時のバクラはまだ何も知らなかった。
 バクラは戦場に行く克也を安心させたい為に彼にそう誓ったが、まさか本当に瀬人が自分を頼って来るなど思いもしなかったのである。
 瀬人は結婚の儀以来、一度もこの地下に降りてきてはいなかった。
 むしろそれが普通なのだ。
 大概の儀式は皇帝一人で出来るし、基本的に皇后が参加しなければならない儀式は、結婚する時にする結婚の儀だけである。
 普通の皇后ならば、夫が戦場から戻るまで皇宮で大人しく待っていれば良いだけの話なのだ。
 だがバクラは忘れていた。
 瀬人が…普通の皇后では無い事を。