願いの儀をする為に泉を渡っていく克也を見守りながら、バクラは瀬人と初めて出会った時の事を思い出していた。
奇跡の子についての知識は持っていたものの、実際のその身体を目の当たりにすると、その中途半端な身体の完璧な美しさに目を奪われた。
奇跡の子として生まれた者達は、総じて自分の身体を醜いと言うのだという。
だが、そんな醜さはどこにも感じられなかった。
むしろバクラには神に愛されたかのような神聖ささえ感じていたのだ。
「綺麗…だったよな…」
ふとそう呟くと、突然後ろで「何がだ?」という声が響いて慌てて振り返った。
そこにいたのは瀬人だった。
細身の身体は相変わらずだったが、膨らんだお腹を隠すように今はゆったりとした服を着ている。
そのせいか、今は雰囲気までもが随分と変わっていた。
今までも瀬人には意志の強さや他者に対する優しさ等の女性的な雰囲気を感じてはいたが、それが随分強くなっているような気がする。
それが子供を宿した事によって瀬人が新たに得た母性だと理解するのに、そんなに時間はかからなかった。
「久しぶりだな、バクラ」
にっこりと微笑まれて放たれた言葉に、バクラも笑みを浮かべ深く頭を下げる。
「お久しぶりです、皇后サマ。お身体の方は大丈夫ですか?」
「うむ。全く問題無い。アイシスによれば全て順調らしいし、近々出産する事になりそうだ」
嬉しそうに胸を張ってそう言う瀬人に、バクラは苦笑して軽く溜息を吐いた。
「と言う事はもう臨月なのでしょう? それなのにこんな場所に居ていいのですか? 早く皇宮に戻られて安静になさっていた方が宜しいのでは?」
「お前までそんな事を言うのか…。周りが皆そのように言うのでな。暫くは大人しくしていたのだが、それももう飽きたのだ。たまには散歩くらい構わないではないか」
「そんな事を悠長に言っていられる時期では無いと思いますが…。まぁ、とにかく陛下の願いの儀が終わったら、お二人で早々にお戻り下さいませ。貴女様がお腹に宿しているのは、この黒龍国の大事な跡継ぎになられる方かもしれないのですからね。母体同様お腹の子も、無理は禁物なんですよ。それともこんな地下で大事なお子様をご出産なさるおつもりですか?」
バクラの説教に瀬人は無言で頬を膨らませた。
普段は凛として強い美しさを纏っている癖に、こういう所はまるで子供の様で可愛いと思ってしまう。
出会う前は克也の愛を独占する憎たらしい存在だと思っていた。
奇跡の子でありながら、皇后という公に認められた地位に就ける瀬人の事を本気で妬ましいと感じていた。
だけど、いつの間にかそんな想いはどこかに行ってしまったのだ。
瀬人の美しさを認めてしまったあの日から…。
克也が黒龍国の皇帝に即位して一年後。
彼は無事に成人の儀を迎える事が出来た。
そしてそれと同時に、白龍国に正妃を要望する書が届けられる。
返事は直ぐには来なかったが、それでも期日ギリギリになってから正妃を差し出す事を了承する旨の書が白龍国から届けられた。
あの悲惨な七年戦争から三百年経っていても、白龍国は未だに黒龍国の属国という立場から逃れてはいない。
結局は黒龍国に従うしか道は無いのだ。
ただ相手が白龍国の現法皇である為、法皇の引き継ぎをする為に婚儀は約一ヶ月後に延期された。
それに対して克也は「仕方無いよな」と笑って呟く。
白龍国からの書が届いた時点で、皇帝が望んだ正妃がこちらに来るのは確実だった。
少しでも早く会いたいとバクラに零しながらも、その表情には焦りの色は一切無い。
そんな克也を見ながら、バクラは「大した自信だな…」と苦笑するしか無かったのだ。
そしてそれから一月後。
白龍国では新しい法皇が即位して、黒龍国に元法皇が正妃として嫁いで来た。
守り人として『結婚の儀』を見守るべく誓いの泉で皇帝と皇后の到着を待っていたバクラは、洞窟の入り口から現れたその姿に息を飲んだ。
今まで見たことも無いような清浄な風を纏った、男性とも女性とも言えぬ人物が目の前に佇んでいた。
そしてバクラの目には一瞬だが、その人物の背後に巨大な白龍がまるでその人を包み込んで護るかのように存在しているのが見えたのだ。
見間違いかと思って慌てて何度か瞬きをし、もう一度目を凝らして見ると、龍の姿は既に消えていた。
どうやらこの人物が白龍国の元法皇で、そして克也が選んだ皇后のようだ。
その人物…瀬人は初めて見た光景に見惚れているらしく、誓いの泉の方を向いたままこちらに気付く様子は無かった。
それに苦笑しつつゆっくりと近付くと、先に気付いた克也が声をかけてくる。
「バクラ」
克也に呼ばれてバクラは深々と頭を下げた。
「お待ちしておりました、皇帝陛下。そして皇后サマも」
再び視線を上げて見上げると、瀬人は不思議そうな顔をして自分を見詰めていた。
どうやらこの髪と瞳の色が珍しいらしい。
確かにこんな真っ白な髪と真っ赤な瞳を持った人間なんてそうそういるものじゃない。
むしろ自分達守り人の一族だけだしな…と、バクラは特に何の感情も持たずそう思う。
「彼の名はバクラ。オレの代に新しくこの誓いの泉の守り人となった人間だ」
「守り人…?」
克也が瀬人に自分の説明をしている間、バクラはじっと瀬人を見詰めていた。
確かにとんでもない美人だと思う。
男でも無い女でも無い実に中性的なその美しさは、奇跡の子が持つ不思議な魅力だった。
それに先程感じた龍の気配…。
バクラが見たのはこの国の守護龍である真紅眼の黒龍ではなく、白龍国の守護龍である筈の青眼の白龍だった。
長老や前守り人であった母親から教えられた伝説では、青眼の白龍は初代法皇にその全ての力を与えてこの世から消滅してしまったのだという。
ただし白龍国には時折その白龍の魂を継ぐ者が生まれ、白龍はその者を生涯護っていくと伝えられていた。
なるほど…とバクラは内心で感心する。
どうやらこの元法皇サマは、その白龍の魂を継ぐ者らしい。
克也はおろか本人もその事には気付いていないようだが、生まれてからずっと真紅眼の黒龍の傍らで暮らしてきた守り人にはその気配が感じとれるらしかった。
確かに黒龍国の皇后としては、もってこいの人物かもしれない。
だからと言ってバクラの個人的な感情が納まるかというと、それはまた別の話だった。
バクラは幼い頃克也に恋をした時から、彼との恋愛を諦めていた。
その代わり、克也が大人になって誰かと結婚した際には、彼の子供が見たいと思っていた。
克也の血を受け継いだ子供が成長してこの国の立派な跡取りとなるのをこの目で見届けたいと、そして克也とその子供を守り人として守り続けたいと…そう思っていたのだ。
だが今目の前にいる新たな皇后は、残念ながら奇跡の子だった。
奇跡の子は子供を宿す事が出来ない。
しかも克也は瀬人一人を愛すると心に決め、側室を取る事は無いという。
この時点で、バクラは克也の子供を諦めざるを得なかった。
瀬人が美しいのは認める。
白龍の魂を継ぎし者として神聖な空気を身に纏い、黒龍国の皇后として申し分無い事も認める。
そしてそんな瀬人を克也が心から愛するのも認める。
だけど…自分はどうしても克也の子供が見たかった…。
どうして貴女は奇跡の子なのだ…っ!
奇跡の子でさえ無ければ、自分は克也の子供を見る事が出来たのに…っ!!
子供も産めない癖に、皇后という地位に就き人目も憚らず克也と堂々と愛し合う事が出来るなんて…狡過ぎる…っ!!
瀬人を正妃として選んだのは克也だという事は分かっていた。
だから自分が瀬人に対してこんな感情をぶつけるのも間違いだという事もよく分かっていた。
だが長い間培ってきた克也への思いが、その感情を止める術を失っていた。
自分の考えに嫌気がさしながら意識を戻すと、いつの間にか無意識に瀬人を睨んでいたらしい。
克也の説明を受け改めてこちらを見た瀬人が、一瞬怯えたように顔色を変えた。
それを見てバクラは慌てて臣下の礼を取る。
そしてなるべく己の感情を押し隠すように、冷静に口を開いた。
「初めまして皇后サマ。オレはバクラといいます。まぁ…これから度々お会いする事になると思いますが、どうぞよろしく」
「あ…あぁ…よろしく」
バクラの言葉に瀬人が戸惑いつつも答えを返した。
だが自分でも上手く隠せると思っていた感情は、思ったより素直に口から出てしまっていたらしい。
思った以上に刺々しく耳に届いた自分の声に、バクラは苦笑するしかなかった。