*奇跡の証明(完結) - 番外編『二つの恋の物語』 - その10(完結)

 あの辛かった戦争が終わってから、五年という歳月が経っていた。
 克也が黒龍国に戻ってきてからは、皇帝と皇后は実に仲睦まじく毎日を過ごしている。
 その幸せそうな姿は、見ているだけでバクラの心を満たしていった。
 将来は克也の親戚筋から養子を貰う事も決定していて、跡取りについても特に問題は無いようだ。
 そう考えて安心していた矢先、奇跡は唐突起こった。
 本来子供を宿す事は出来ない奇跡の子である瀬人が、何と克也の子を懐妊したのだ。
 バクラはその奇跡が、真紅眼の黒龍があの時の自分の願いを叶えたとは決して思っていない。
 あの時に黒龍がほんの一瞬答えた返事は、願いを聞き届けたというよりは、むしろ奇跡は確実に起こるから安心していろと伝えていたのではないかと思っている。
 ただ、結局バクラはあの日以来、真紅眼の黒龍の姿を見る事はなかった。
 克也が懐妊した瀬人とその胎内に宿っている自分の子の為に願いの儀を始めても、黒龍は一向に現れようとしない。
 例え願いの儀をしたからと言っても黒龍が現れる事自体希有な事なので、むしろそれは自然な事なのだが…。
 どうしてもバクラは黒龍が瀬人の方を贔屓している様な感を受けて苦笑してしまう。
 黒龍自身は特にそんな意志を持ってはいないのだろうが、そう考えると真紅眼の黒龍が途端に人間臭く感じられて面白くなってしまうのだ。
 ニヤニヤしながら黒水晶に名前を書いている克也を見守っていると、横にいた瀬人が訝しげにバクラの顔を覗き込んできた。

「何をそんなに笑っているのだ…」
「いえ、別に何も」
「意味も無く笑うな。気色悪い奴だな」
「酷いですねぇ。ただちょっと…」
「ちょっと?」
「皇后サマのところには現れたのに、陛下のところには一向に黒龍が現れないな…と思いまして」

 ちらりと視線を横に向けると、そこには驚いた表情の瀬人がいた。
 この調子だとやっぱりオレにも黒龍の姿が見えていた事を知らなかったんだな…とバクラは思う。

「知って…いたのか」
「はい。見えていました」
「驚いたな。マナが何も言わなかったから、他の人間には見えていないのかと思っていた」
「確かにマナには見えていなかったようです。でもオレは守り人だから。これでも一応真紅眼の黒龍に祝福された一族なんでね。その関係で見えたんだと思います」
「そうだったのか…」
「ついでに申しますと、貴女の中に眠る白龍の姿も見た事がありますよ。結婚の儀の時に、ほんの一瞬でしたけれど…」
「何だと…っ!?」

 本気で驚いている瀬人を見て、バクラはおかしそうにクスクスと笑い出す。
 いつも気高く取り澄ましている印象の強い瀬人だけに、その反応は余りに意外で面白かった。
 ただ想像していた反応とは少し違った事だけが気になった。
 どうやらこの皇后は、既に自分が青眼の白龍の魂の継承者だという事は知っているらしい。

「それにしても意外ですね。皇后サマは御自分が青眼の白龍の魂を継ぐ者だという事を、既にご存じらしい」
「まぁ…それは…。ちょっと…な」

 途端に口籠もった瀬人を、バクラは慈しむように見詰める。
 きっと自分には理解出来ない何かしらの現象が、彼女の身の上に起こったに違いなかった。
 その事を深く掘り下げて聞こうとは思わない。
 自分はただ、克也と瀬人と、そして生まれて来る子供を生涯守り続けるだけでいい。それだけでいいのだ。
 そう心に決意して泉へ視線を向けた時だった。
 ふいに向こうの景色が陽炎のように揺らいでいる事に気付く。
「あっ…!」
 隣で同じように克也の方を見ていた瀬人も小さく声を上げた。
 次の瞬間、自分達の前に現れたのは紛れも無く真紅眼の黒龍の巨大な姿だった。

「真紅眼の黒龍…。現れやがった…」
「あ、あぁ…」

 驚きを隠せず二人で小島を凝視する。
 その黒龍と直接相対している当の克也は、驚いて腰を抜かしていた。
 柔らかい芝に尻餅をついて、目の前に存在する真紅眼の黒龍をポカーンと見上げている。
 いくら黒龍国皇帝とは言え、初めて間近に見た黒龍に驚くのは仕方が無い事だとは思うが…。
 それにしても…。

「情けない!!」

 その様子を見ていた瀬人が腰に手を当ててきっぱりと言い放つ。
 瀬人の言葉を聞いてそれまで何とか我慢していたバクラはついに耐えきれなくなり、ブーッと盛大に吹き出すとその場で腹を抱えてしゃがみ込み、次の瞬間には爆笑してしまっていた。

「黒龍国の皇帝として情けなさ過ぎる! あれでよく三年間もの長い間戦場で戦って来られたものだ!!」
「まぁまぁ…。抑えて下さい皇后サマ。敵兵に対する勇気と守護龍に対する度胸とでは全然違うものですから」
「そう言いながら貴様も笑っているようだが…?」
「いやいや、オレは我慢してましたよ? でも皇后サマが…プッ! あんな言い方されたらオレだって我慢出来ないというか何というか…ククッ!」

 突然現れた真紅眼の黒龍に驚き腰を抜かしている克也と、そんな夫の不甲斐なさに憤っている瀬人を見てバクラが笑っていると、突然後ろから誰かが走ってくる気配が感じられた。
 振り返ると心から焦った顔をしたマナが急いだ様子で駆け寄ってくる。

「瀬人様…っ!! こんなところにいらっしゃったのですかっ!!」

 マナの叫びに瀬人がピクリと肩を揺らして反応し、恐る恐る振り返る。
 その顔がまるで悪戯が見付かった子供の様に見えて、バクラの笑いに拍車をかけた。

「何をしてらっしゃるんですか!! 瀬人様は今臨月なのですからね!! いつ何が起こるか分からないのにこんな場所まで来られて…っ!! 部屋にいらっしゃらなければダメでしょう!!」
「ぶはっ!! クッ…クハハハ!!」
「い…いや…。身体の調子もいいし…たまには良いかと思って…」
「たまにはじゃありません!! もういつ産まれてもおかしくないんですからね!! 今すぐ部屋にお戻り下さいませ!!」
「ヒーヒー…ッ! ククク…っ!!」
「だ、だが…っ。しかし…っ!」
「だがもしかしもございません!!」
「ギャハハハ!! もうダメだ…っ!! 死ぬ…笑い死ぬ…っ!! ギャハハハハハハッ!!」
「喧しいぞ貴様!! いい加減に笑い止め!!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ瀬人に、バクラはひーひー言いながらヒラヒラと手を振った。

「無理です…っ! 無理ですってば…っ!! 陛下のあの驚きっぷりだけでもおかしかったのに、皇后サマのあんな顔を見てしまったら…もう…っ!!」
「オ…オレの何がおかしかったと言うんだ!!」
「だって…あの顔…っ! ぶはは!! 何でそんなに気不味そうな顔をしているんだか…っ! 立場逆転してるし。ダメだ、ツボ入った…。もう無理です…っ! くひひっ! いやもう、ホントお似合いの夫婦ですよ、貴方達は…っ! くくっ!」

 蹲って腹を抱えて笑い続けるバクラを、瀬人は苛ついた目で、マナは何がそんなにおかしいのか理解出来ない目で見詰めていた。
 笑い過ぎて滲んできた涙を指先で拭いながら誓いの泉を見上げると、そこにはもう真紅眼の黒龍の姿は無く、代わりに必死な形相でこちらに戻って来ている克也の姿が見える。
 その顔色は焦りの色が強く浮き出ていたが、隠しきれない喜びも併せ持っていた。
 あぁ、そうか。そういう事か。
 バクラは一人で納得する。
 多分克也の願いの儀も、今日で終わりだろう。
「皇后サマ」
 笑いを完全に引っ込めて、バクラはゆっくりと立ち上がりながら背後の瀬人に話しかけた。

「陛下がこちらに戻ってきたら、一緒に早々にお戻り下さいませ。多分そんなに時間は無いと思われます」
「………? どういう事だ?」
「多分嫌でもすぐに分かりますよ。今夜遅くか…もしくは明日の朝早くといったところでしょうかね。辛いでしょうが頑張って下さいませ。マナも皇后サマの事を宜しく頼むな」
「何を…言って…」
「バクラ! 服を…っ!!」

 バクラの言っている意味がよく分からず、瀬人が再び問いかけようとした時だった。
 泉から上がって来た克也が急いでこちらに歩いてきて、バクラに向かって強く叫んだ。
 差し出された服を慌てて着替えて、克也は瀬人の白い手を強く掴む。

「急いで戻るぞ、瀬人!!」
「な、何を突然…っ!」
「何をじゃない!! 真紅眼の黒龍が教えてくれたんだ…っ! もうすぐお前が産気付くから急いで戻れとな!」
「は…っ?」
「マナ! 先に戻って他の女官達に出産の準備をさせておいてくれ…! それから今すぐにアイシスに報せを…っ!!」
「か、畏まりました!!」

 駆け出すマナを追うように手を引っ張る克也に、瀬人は慌てた。
 それを見てバクラがやんわりと助け船を出す。

「陛下。焦る気持ちは分かりますが少し落ち着いて下さい。今の皇后サマは走れませんよ」

 バクラの言葉を聞いて克也は「そ、そうか。そうだったな…」と呟き漸く動きを止めた。
 そして次の瞬間、瀬人の身体を抱き上げて地上に繋がる階段へと歩き出す。
「怖いから降ろせ!」とか「自分で歩ける!」とか言っている瀬人を無視して抱き上げたまま、克也は悠々と地上へと戻っていった。
 その後ろ姿を最後まで見送り、バクラは誓いの泉へと戻っていく。そして向こうに見える黒水晶に向かって深々と頭を垂れた。

「真紅眼の黒龍よ…。貴方が現れたという事は、皇后サマのお産は何の問題も無く無事に済むと…。だから安心していいという事ですよね」

 バクラの問いかけに黒水晶は沈黙を携えて、ただそこに聳えるだけだった。
 だがバクラは確信していた。
 きっと瀬人は安産だろう。
 そして生まれてくる子はこの黒龍国の未来の皇帝になるに違いないと。

「聞いてくれ、真紅眼の黒龍よ。オレは今ここに誓う。皇帝と皇后と、そして二人の間に生まれて来る子供の為に一生を尽くす事を。それがオレが恋したあの人達への…愛の形だ。オレだけが感じる事が出来る…これこそがオレの二つの恋の完成形なんだ」

 恋は成就された。
 例え他の人間の恋愛と形は全然違っても。
 克也と、瀬人と、そして今生まれてこようとしている子供を生涯愛し守り続ける。
 自分にとってそれ以上の幸せは無い。
 心からそう思って、バクラは黒水晶に向かって深く感謝した。

 これがオレの…二つの恋の物語。
 他人に何を言われようとも、オレだけがこの幸せの意味を知っていればいい…。

 そう思いながら。