*奇跡の証明(完結) - 番外編『二つの恋の物語』 - その1

 誓いの泉を見詰めるように、一人の青年が佇んでいた。
 無数の水晶の明かりに照らされて煌めく水面を見ながら、バクラはふと洞窟の天井を見上げる。
「そろそろだな」
 何気なく呟くと、地上に繋がっている階段から一人の男が姿を現わす。
 その男はバクラの姿を確認すると、彼らしい明るい笑みを浮かべた。

「よぉ、来たぜ」
「本日もご苦労様です、陛下」

 右手を挙げて挨拶をした克也に笑みを返し、バクラはいつも通りに服を入れる籠を用意し始めた。
 克也が瀬人と、そして瀬人の胎内に宿った子供の為に願いの儀を初めて、早十ヶ月が経とうとしている。
 奇跡の子である瀬人が子供を宿したと聞いた時、バクラの脳裏に浮かんだのは喜びでは無く不安感だった。
 完全な女性体では無い中途半端な身体をしている瀬人が、果たして無事に出産出来るのか…。
 どうしても跡継ぎが生まれるという喜びよりも、その心配ばかりが先だってしまったのである。
 守り人である為、皇宮で安静にしている瀬人に会いに行く事は出来ない。
 だが度々訪れるマナから、皇后の容態は母子共に順調だと聞かされて、お陰で漸く安心する事が出来た。
「皇后サマは…、お元気でいらっしゃいますか?」
 バクラの質問に、服を脱ぎながら克也は嬉しそうに笑って答えた。

「あぁ。お陰様で何の問題も無いよ。アイシスの診断によれば、近い内に出産だそうだ」
「それは楽しみでいらっしゃいますね」
「まぁな。だけど…オレは出産が一番怖い。半分男である瀬人が無事に子供を産めるのかどうか、オレには自信が無いんだ」
「ですから願いの儀を行なっておられるのでしょう?」
「あぁ、そうだ」
「真紅眼の黒龍は決して陛下を裏切りません。三年もの長い間、戦場で貴方様を守られたように…」

 バクラの言葉に克也は頷いた。
 最後の衣服を取り去って、泉に向かい軽く溜息を吐く。

「こうして願いの儀をしているとつくづく思うよ。瀬人はよく三年間もこの儀式をやり届けたもんだ…とな。オレなんかまだ十ヶ月しかやっていないけれど、そろそろ疲れを感じ始めている位だ」
「皇后サマは…素晴らしい御方です。だからオレも願っていますよ。あの方が無事にご出産出来るように…と」
「ありがとう、バクラ」

 振り返ってバクラに優しく微笑みかけ、克也は誓いの泉へと歩き出した。
 その後ろ姿を見守りながら、バクラは自分がした二つの恋を思い出す。
 最初の恋はまだ八歳の頃。
 相手はこの克也だった。


 この誓いの泉の洞窟の脇には、小さな隠し通路がある。
 人が一人通れるくらいの細い通路を数十分歩いて進むと、やがて大きな空洞に辿り着く。
 発光水晶が明るく照らすその空洞は、誓いの泉がある洞窟より更に何倍も広い。
 そしてその空洞に、守り人の一族の集落があった。
 人数は百人前後。地下での暮らしに特化している為、一族は皆白髪に紅い眼をしている。
 不思議な事にこの地は地下でありながら植物が何の問題も無く育つ為、人々は野菜や穀物などを育てながら細々と暮らしていた。
 代々一族の全てが黒龍国の皇家に庇護されている為、その他の食料や衣類等、生活に必要なものは全て皇家が補う事になっている。
 生活するには何も困ることは無い。
 だが、地下で暮らす彼等の寿命は極端に短かった。
 平均寿命は三十歳前後。
 女性も一生の内子供を一人産むのが精一杯。
 ただ真紅眼の黒龍の加護があるからか、不思議な事に集落の人数が百人前後から減った事は今まで一度も無かった。ただし逆に増えた事も無かったが。
 一つだけ例外があるとすれば、皇帝の守り人となった者は真紅眼の黒龍の祝福を受け、通常の人間と同等の寿命を手に入れることが出来た。
 そういう者は皆から『長老』と呼ばれ、黒龍国や守り人の一族の歴史やしきたりを伝える大事な役目を負っていた。
 バクラも小さい頃から長老に守り人の一族について色々聞いていた。
 長老は事ある毎に「我々守り人の一族は、真紅眼の黒龍に祝福された一族なのだ」と話して聞かせた。
 だがその話を聞く度、バクラは不条理だと苛ついてしまう。
 自分達を地下に閉じ込めておいて、何が祝福なのだ…と。
 何故だかは分からないが、自分を含めた守り人の一族は誰一人として、外に出たいという欲求を感じる事が無かった。
 地下で暮らす事に何の不満も無く、狭い空間に閉じ込められる事に何のストレスも感じない。
 それを疑問に思いこそすれ、バクラ自身も地下での生活を快適に感じていた。


 バクラが八歳の頃。ある日、バクラは自分の母親に呼ばれて誓いの泉まで赴く事になった。
 母親は現皇帝の守り人であった。
 突然の呼び出しにブツブツ文句を言いながらも誓いの泉まで行くと、そこには皇帝と、そして自分と同じ年頃の金髪の子供が一人待っていた。
 バクラがやって来たのを見て、母親が優しそうに微笑んで口を開く。

「バクラ、皇帝陛下と皇太子殿下ですよ。ご挨拶なさい」

 母親のその一言でバクラは一瞬で悟ってしまったのである。
 何年後かは分からないが、今の皇帝が死んで目の前のこの子供が新しい皇帝となる時、自分がこいつの守り人となるんだという事を。
 表情を固めてしまったバクラに気付かず、目の前の少年は明るく笑って手を差し出す。

「オレは克也。よろしくな」

 そのまま手を握ろうとしてきたのを、慌てて側に控えていた女官が押し留めた。
「いけません殿下。皇族が守り人の一族に触れることは禁じられております」
 自分の行動を邪魔されて、克也は不満そうに女官の顔を見上げていた。

「なんで? 仲良くなりたいだけなのに」
「それでもいけません。これはしきたりなのです」
「難しいことはわかんないよ…」
「それでもダメなのです。お聞きわけ下さいませ」
「ちぇ…。つまんないの」

 目の前で女官に言い含められる少年を、バクラは黙って見ていた。
 自分と同じ年頃の癖に何だか妙に幼く感じて、それに苛ついていたのかもしれない。
「バクラ…です」
 それだけをむすっと答えて、それきりバクラは口を噤んでしまう。
 だけどそんなバクラの態度にも懲りずに、克也は明るい声で喋り続けた。

「なぁなぁバクラ! 年はいくつなんだ?」
「八歳ですけど」
「八歳! じゃぁオレと同じだな!」
「はぁ…、そうですか」
「なぁ! オレこれからちょくちょくここに来るからさ。一緒に遊んだりしようぜ!」
「触れもしないのにどうやって一緒に遊ぶんですか…」
「触れなくても一緒に喋ったりは出来るじゃん。なぁ…仲良くしようよ~。オレ同じくらいの男友達いなくてさ、寂しいんだよ。マナもアイシスも大事な友達だけど、あいつら女だからさ-。時々オレを仲間はずれにしたりするんだ」

 バクラはその時、克也の提案に対して明確な返事をしなかった。
 だが克也はそれからというもの、何日も何日も地下へ遊びに来ることになる。
 誓いの泉の周りで色んな事を話したり、棒きれで地面に絵や文字を書いたり言葉遊びをしたりと、それは飽きることなくほぼ毎日続けられた。
 同じ年頃の遊び友達がいなかったのはバクラも同じで、時間が経つにつれて克也と共にいる時間が幸せだと感じ始めた。
 だから僅か八歳の子供達が、純粋に遊ぶ事から大人に悪戯をする事を覚え、やがて禁止されている事に興味を持ち出すのはあっという間の事だったのだ。

「なぁ…殿下。外の世界って綺麗なんだろ…?」

 ある日の午後。守り人である母親に聞こえないように、バクラは克也に小さく尋ねた。

「うん。すっげー綺麗だぜ! 空は青くて雲は白くて、木とか草とかは緑で、花は赤いのとか黄色いのとかピンクのとか…とにかく色々あって! あとここと違って、太陽はポカポカで涼しい風が吹くんだ。それが凄く気持ちいいんだ」
「いいな…。オレも一度でいいからそんな世界を見てみたい」
「じゃあ行ってみりゃいいじゃん」
「ダメだよ。禁止されてるもん」
「オレが父上に頼んでみようか?」
「余計にダメだと思うな」
「じゃ…こっそり出てみる?」
「見つかったらきっと怒られるぜ」
「見つかんなかったらいいんだろ?」
「別に…。そこまでして外に出たい訳じゃないよ」

 それは本音だった。
 別に無理してまでして外の世界を見てみたい訳ではなかった。
 ただちょっと興味があっただけ。
 克也が話している色鮮やかな世界を、一度だけ見てみたかっただけなのだ。
 だが克也はそれで良しとはしなかった。

「バクラ。オレもお前に外の世界を見て欲しいんだ。だから今度こっそり外に出てみようぜ?」
「だけど…」
「大丈夫。見つかんなきゃいいんだから。一度だけならいいだろ?」
「うん…まぁ…そうだけど」
「よっしゃ! んじゃ、そういうことで!」


 子供というのは純粋で、そして時折とてつもなく愚かな生き物だ。
 大人が何故外に出る事を禁止しているのか、その意味を深く考えようとはしない。
 そのしきたりは、子供達にとってはただの意地悪にしか感じられなかったのだ。
 バクラと克也の秘密の約束は、翌日に決行された。
 上の神殿の神官が皇帝との会議に出掛けた隙を見て、克也が地下に降りてくる。
 丁度その頃、守り人であるバクラの母親も食事の為に席を外していた。
「バクラ…ッ!」
 地上に上がる階段の影から手招きで呼んでいる克也を見付けて、バクラが小走りで走り出す。
 そこからは小さな子供の足で、一歩一歩地上に向かって歩き始めた。
「なぁ…。本当に大丈夫か?」
 心臓がドキドキする。
 何故かは分からないが、ここから出てはいけないと本能が告げているのが分かった。
 戻れ! 戻れ! 戻れ! と聞こえない声が警告する。
 思わず足を止めたバクラを、先に行く克也が振り返って見た。
「大丈夫だってば。ちょっと外を見るだけだろ?」
 不安がるバクラを安心させるように微笑む。
 その笑みを見てバクラも決心し、止めていた足を再び動かし出した。

 神殿に繋がる扉を開けて、克也に続いて表に出る。
 地下の水晶による明かりとは全く違う、まるで刺すような陽光が神殿の窓から差し込んでいた。
 克也の言うように、確かに明るいと思う。
 だけどそこに感じた言いようのない違和感にも気付いていた。
「ほら、そこでボーッとしてないで、早くこっちに来いよ!」
 神殿の入り口で克也が手を招いて待っている。
 覚束ない足でゆっくりと歩き、神殿の扉を潜って外に出た。
 途端にバクラの紅い目を刺す陽光に一瞬瞼を閉じ、そして恐る恐る目を開いていく。
 そこにあったのは見たことも無い景色。
 広い中庭、高い塔と立派な宮殿。太陽と空と風と植物達。
 だけど最初に感じた違和感を、バクラははっきりと感じ始めていた。
 克也は言った。
 空は青くて雲は白くて木や植物は緑で、花は色とりどりだと。
 だがその色の何一つさえ分からない。
 見上げた空は確かに広くどこまでも続いていたが、その色が青いという事が理解出来なかった。
 空に何かもやもやした物が浮いている。
 それが雲だということが分かったが、空との色の違いが分からない。
 植物は…? 花は…?
 濃淡の違いは分かれど、何が緑で赤なのか、どれが黄色でピンク色なのか、違いを見つけ出すことが出来ない。
「バクラ…?」
 ただ呆然と突っ立っているだけのバクラを、克也も流石に心配になって声をかける。

「どうした、バクラ?」
「わから…ない…」
「バクラ?」
「色が…わからない…」
「え…? それってどういうこと?」
「空の青さってこういう色…? オレには誓いの泉と同じ色に見える。緑は…? 赤は…? 黄色やピンクは…? どれも違う色には見えない。どれも同じに見える…」

 よろよろと中庭の中央まで足を進めた。
 と、突然自分の腕に痛みを感じて立ち止まる。
「………?」
 慌てて剥き出しの自分の腕を見ると、腕が腫れて水ぶくれが出来ているのが確認出来た。
 腕だけではない。
 頬や額や首筋等、布から出て太陽の光に当っている部分が熱くて痛くて仕方が無い。
「な…なんだ…? これ…なんだよ…?」
 心臓がドクンと大きく音を立てて鳴った。
 胸が痛い。視界が霞む。空気が熱くて息が出来ない。
 中庭に流れる風は涼しいなんてものじゃなく、バクラの肌には太陽の熱を吹き付ける熱風に思えた。
 途端に全身の力が抜けて、その場に倒れ込んでしまう。
「バクラッ!?」
 克也が慌てて自分に近寄って来るのが見えた。
「はや…く…、ち…か…」
 早く地下へ戻らないといけない! それだけは本能で理解出来た。
 だがそれを伝える事が出来ない。
 体内に籠もった熱はバクラの意識を朦朧とさせ、荒く呼吸をするのが精一杯だった。
「バクラッ! バクラッ!!」
 克也が泣きそうな声で自分の名前を呼び、そして温かな腕で自分の身体を支えるのを感じる。

 馬鹿だな…お前…。
 オレに触るなよ…。
 禁じられてるのに…。
 あとで怒られても知らねーからな…。

 最後にうっすらとそう思って、バクラは意識を手放した。