Text - 短編 - あの夏空へ(中編)

 腹の中が痛くて痛くて堪らなかった。咳き込む度に血泡が迫り上がって来て、口の中が鉄錆臭い。喉が渇いて水が飲みたいと思った。
 そうだ…水が飲みたい。一口で良いんだ。水が飲みたい。飲むのがダメなら唇を濡らす程度でいい。ほんの少しの水があれば、それだけでオレは安心出来るのに…。
 そう思った時、頭上から一粒の水滴が落ちて来た。それはオレの唇に落ちて、薄く開いた口の端から口内へと入り込んで来る。ほんのちょっとだけ塩辛いその水を飲んで、オレは至極安心した。

 良かった…。もうこれで大丈夫だ…。

 口の中が潤った感触に安心した途端、オレの身体は急に軽くなった。



 気が付いたらオレは自分の身体を上空から見下ろしていた。アスファルトの上に大の字になって寝転がっているオレの身体。側には子犬を抱き締めたまま泣いている男の子と、その子を抱き締めている母親らしき人物。大勢の見物人が遠巻きに様子を見守り、煩いサイレンの音と共に救急車とパトカーがやって来て、当たりは騒然としていた。
 これって…オレは死んでしまったって事なのかな?
 そう思ったら先程まで感じていた腹の痛みがぶり返してきたように思えた。思わず片手で腹を庇い、もう片方の手で口元に手を当てる。痛みと同時に、噎せ返る血の臭いと喉の渇きも思い出したのだ。

 腹…すげぇ痛ぇ…。水が…飲みたい。

 思わずその場で屈み込んで「うぅっ…!」と唸っていたら、自分の背後に誰かが立つのが分かった。その人物はじっとオレの事を見詰め、やがてシュルリという衣擦れの音を立てながら緩やかに動く。そして手を伸ばしてオレの頭をそっと撫でてきた。
 頭皮に触れたその手は、背筋がゾッとする程冷たかった。全く血の通っていない、まるで氷で作られた手に触れられているのかと思うくらいに冷たい。それなのに何故か…その冷たさが不快では無かった。それどころか不思議と優しく感じる。
 思わず後ろを振り返ったら、黒く長いローブを羽織った男が目に入って来た。手には漫画やゲームの中でしか見た事が無いような大鎌を持っている。逆光で顔はよく見えなかったけど、被っているフードの影の中で光る青い目が物凄く印象的だった。

「もう苦しく無い筈だ」
「………え?」
「だからもう苦しくも何とも無い筈だ。貴様は死んだのだからな、城之内」

 黒いローブの男の言葉に、オレは心底驚いた。彼の放った『オレが死んだ』という言葉では無い。オレの耳に入ってきた、余りにも懐かしいその声に驚いたのだ。
 深く澄んだその声は、確かにオレが知っている声。オレが大好きだったあの声に間違い無い。だけどこの声は…十三年前に途切れてしまっている筈なのに…何故…?

「海…馬…?」
「………」
「お前…海馬…なのか?」
「………。そうだな…。生きていた頃は、確かにそういう名前だった」

 震える声で絞り出したオレの質問に、ローブの男はそう答えて被っていたフードを取り去った。目の前に現れた顔に息を飲む。そこにいたのは…間違い無く十三年前に死んだあの…海馬瀬人だった。
 全く予想していなかった海馬との再会。目の前に愛しい人が存在するその事実に心底感動し、そしてそれと同時に首を捻った。
 何でコイツ…こんなところにいるんだろう。だって死んでからもう、十三年経ってるんだぜ? それってつまり…。

「お前まさか…成仏出来無かったのか?」

 頭に思い浮かんだ疑問をそのまま口に出すと、途端に眉根を寄せられて「馬鹿者が!」と窘められてしまった。
 あ…何かこの感じ、凄く懐かしい。まだお互いに童実野高校に通っていた頃の、仲良く成り立ての頃の海馬の雰囲気そのままだ。

「オレをそこいらの浮遊霊や地縛霊と一緒にするな! この世に未練など微塵も無いわ! 成仏出来るのならとっくにしている!」
「だ…だってさ…。今もまだ成仏してねーって事は、結局そういう事なんだろう!?」
「違う。生きていた時の業が若干深くて、仕事をしなければならなかっただけだ」
「へ? 仕事?」
「そう。死にゆく者の魂を回収する…つまり『死神』の仕事だな」
「………はい? し、死神ってお前…」

 海馬の口から放たれた意外な単語に、オレは言葉を無くした。
 海馬が生きていた頃、コイツは『非科学的』な事に対して非常に否定的だった。ちょっとでも摩訶不思議な現象の話をしたりすると「オレはそんな非ィ科学的な事には興味が無い!」と言って、過剰なまでに拒否していたのだ。その否定具合は今考えても、かなりヒステリーちっくだったと思う。
 そんな海馬の口から出た『死神』という単語に、オレが呆気に取られるのも仕方無いと思うんだ。

「死神って…。お前マジでそんな事言ってるのか?」
「当たり前だ。事実オレは今、死神だろう?」

 確かに見た目は死神のイメージそのまんまだ。
 長ったらしい黒いローブにでっかい鎌。そしてまるで体温を感じさせない…冷たい手。試しにそっと手を伸ばして触れた頬も、ヒヤリとして氷のようだった。その冷たさにオレが微妙な顔をしたのを見て、海馬がクスリと微笑んだ。
 あ…この笑顔には覚えがある。コイツがオレに優しくする時の笑顔だ。

「冷たいだろう?」
「うん…」
「もう死んでいるからだ」
「うん」
「お前はまだ死んだばかりだからな。まだ温かいが、その内オレと同じくらい冷たくなる」

 頬に当てられていたオレの手を取って、海馬は氷のような冷たい手でオレの掌を握り締めた。まるで去りゆくその熱を惜しむかのように。

「オレはやっぱり…死ぬんだな」
「あぁ、そうだ。お前の魂の紐は、オレがこの鎌で切ってしまったからな。もう蘇生するのは無理だ」
「お前…本当に死神になっちまったのか…」
「そうだ」
「でも何でだよ…。お前はさっき生きていた時の業がどうとかこうとか言ってたけど、何か悪い事でもしたのか? オレにはお前がそんな罪を背負っていたとは考えられないんだけどな」
「何だ…忘れてしまっているのか。あの冥界に去った遊戯に精神を砕かれる前のオレの所行を、お前も知っているだろう?」
「だ…だってアレは…! お前の所為じゃないだろう!?」
「そうだな。確かにオレがあんな風に壊れた原因は、オレ自身には無いのかもしれないし、仕方の無い事だったのかもしれない。だがな、罪を犯した事には変わり無いのだ」

 未だに温かい熱を持っているオレの手を愛おしそうに撫でながら、海馬は言葉を紡ぎ出した。

「せっかくだから、貴様に死神の理を教えてやろう」
「………理?」
「死神というのはな、元は死んだ人間の魂だ。人間というのは少なからず生きている間に罪を犯す。それは万人共通だ。だがその罪がある一定の値を超えると、死んでもすぐには輪廻の輪に戻して貰えないのだ。余りに酷い場合は地獄と呼ばれるような場所に落とされるが、多くはそこまでの罪を犯している訳では無い。だからといって無罪放免に出来る訳でも無いので、そういう魂が死神に選ばれるのだ」

 海馬の話に、オレは思わずゴクリと生唾を飲んだ。
 漫画とかゲームとか小説とか、そういう物でしか知らなかった死後の世界が、あの海馬の口から淡々と語られている。これって実は凄い事なんじゃないかと思ったら、耳を傾けずにいられなかった。

「オレはその規定にほんの少し引っ掛かってしまった。だから死んでから十三年間だけ、死神をする事になったのだ」
「十三年も…? 引っ掛かったのはほんのちょっとなのにか?」
「最短期間が十三年なのだ。それは仕方なかろう」

 そう言って海馬は、死神の事を色々教えてくれた。
 罪を犯して死神に選ばれた魂は、死んでから十三年を一区切りとして死神としての仕事をするんだそうだ。最高は一六九年。それ以上は絶対に無い。何故ならば、一六九年の死神業でも支払いきれない罪を持っている場合は地獄に落とされるからだ。そう考えると最短の十三年で済んだ海馬は、ある意味ラッキーだったんだって事が分かる。

「最初に決められた期間を死神として真面目に勤め上げた者は、褒美として最後に狩る魂を選ぶ事が出来る」
「普段は選べねーの?」
「選べない。ランダムだからな」
「ふぅん。でも選ぶってどうやって?」
「リストがあるのだ。今後数日の間に死を迎える者のリストが。そのリストの中から自分で自由に選ぶ事が出来る」
「そっか。リストがあるのかって…え? ちょっと待ってくれよ」
「………」
「海馬…。お前確か死んでから、今年で丁度十三年だよな。そうだ。だって今日はお前の十三回目の命日だしな…」
「………」
「それでお前は死神になって、期間は最短の十三年で…。という事は…お前…」
「………」
「わざわざオレを選んで…迎えに来てくれたって事か…」
「………そうだ」

 苦しげな溜息と共に吐き出された海馬の言葉に、オレは全身から力が抜けていくのを感じた。

「ヤベー…。何かちょっと…嬉しい…」
「嬉しいものか!! この大馬鹿者が!!」

 気の抜けたまま口に出したオレの言葉に、海馬はキッと瞳を吊上げて大声で怒鳴った。綺麗な青い瞳が怒りで揺らめいている。いや、怒りだけじゃない…。浮かんでいるのは怒りと、そして哀しみだった。

「オレが最後の仕事の為にとリストを渡されたのは、今から丁度十日前の事だった。その中に城之内…お前の名が記されているのを見て、オレがどれだけ絶望したか…お前には分かるまい」
「………海馬…」

 手をギュッと強く握り締め、怒りと哀しみでブルブル震えている海馬に、オレは何も言う事が出来無かった。

「何とかならないのかと、上層部に掛け合ってみたりもした。だが返って来る答えは全部NOだった。リストに名が載った時点で、お前の死は確定だったのだ…」
「………」
「それならば…せめてお前の魂は…オレが狩ろうと…。そう…思って…」

 最後の方はもう言葉になってなかった。澄んだ青い瞳からボロボロと涙を零し、海馬は悔しそうに下唇を噛む。
 そうだ…悔しかったんだ。死ぬ瞬間に流した涙は、哀しみの涙じゃ無かった。アレは志半ばで愛しい人を置いていかなければならないという、悔しさの涙だったんだ。
 海馬が死んだ時、ほんの一粒流れ落ちた涙をオレは哀しみの涙だと思っていた。だけどそれは間違いだったという事に漸く気付いた。よりにもよって、自分の死でそれを思い知ったのだ。
 死は悔しい。置いていく方も、置いて行かれる方も。そして…迎えに来なければならなかった者も…。

「ゴメンな…海馬。本当に…ゴメン」

 俯いて静かに泣き続ける海馬を、オレはギュッと抱き締めた。厚いローブの布越しにも、冷たい氷のような体温が伝わってくる。今は体温に差があるようだけど、その内オレもこうなるんだと思うと…何だかやるせなかった。

「死んじまって…ゴメン。こんなに簡単に死んでしまって…本当にゴメン。オレは本当は…もっと長生きしたかった。たった一八歳で死んでしまったお前の分まで、もっとずっと長生きするつもりだった。七十になっても八十になっても九十になっても…それこそ百歳まで生きるつもりだった」
「………っ! 城之内…っ!」
「それでずっとモクバを支えるつもりだった。二番目の兄貴として…あの弟を守るつもりだった。それが出来無くて…約束を守る事が出来無くて…本当に済まなかった。ゴメンな…海馬」
「城之内…っ!!」

 二人で強く抱き締め合って、ただただ泣き続ける。
 十三年前のあの時、海馬もこんな気持ちで泣いていたのかと思うと、本当に心が痛んだ。その時の海馬は今のオレとは違って、たった一人でこの苦難を乗り越えなければならなかった筈だ。それがどんなにか辛かっただろうと思うと、可哀想で堪らなくなる。
 そしてオレは唐突に思い出した。意識を失う直前にオレの唇を濡らしたあの水滴が、涙の味だった事を。きっとあの涙は…死にゆくオレに対して海馬が流してくれた涙だったんだ。


 やがて…散々泣いた後に海馬はゆっくりとオレから身体を離した。そして胸元から手鏡を取り出してオレに手渡してくる。

「何…?」
「顔を…見てみろ」

 手鏡の意味が分からなくて首を捻ると、海馬がそう言って鏡に顔を映す事を促して来る。理解不能のまま渡された鏡で顔を映し込んでみて…オレは心底驚いた。
 そこにいたのは三一歳のオレでは無かった。海馬が死んだあの時の…一八歳の頃のオレの姿だったのだ。
 その姿を見て、オレは悟った。自分が今、完全に死んでしまったという事を。

 手鏡を手渡す時に触れた海馬の手は…もう冷たくも何とも無かった。