オレと一緒に逃げてくれ。
克美がそう口に出した時、瀬人子は一体自分が何を言われているのかさっぱり分からないようにキョトンとしていた。目を瞠って黙って克美の顔を凝視する。
「逃げるって…お前…」
「いいから! ここに乗れ!!」
自らも自転車に跨がりながら荷台を指差すと、瀬人子は少し悩んだような顔をして、荷台と克美の顔を交互に見ていた。だがやがて諦めたかのように軽く溜息を吐くと、荷台に横向きに腰掛ける。瀬人子が自転車に乗ったのを見て「腰、掴んで」と口に出せば、恐る恐ると言った風に自分の身体に細い腕が回された。腰の辺りで白い手が重なるのを確認すると同時に、足に力を入れてペダルを漕ぎ出す。そのまま授業中で静かな校舎の脇を通り抜け、裏口から外へと飛び出した。
「城之内…っ! 一体どこへ行くつもりだ!?」
ビュウビュウと耳元を吹き抜ける風に片眼を瞑りながら、瀬人子は克美の荒れた金髪を見ながら口を開く。だがその質問にも克美は何も応えない。ただキコキコと金属が軋んだ音を起てる自転車を必死で漕ぎながら、細い路地を物凄いスピードで駆け抜けて行く。
「城之内…っ!」
「………」
「おい! 城之内!!」
「分からない…っ!!」
「え…?」
「どこに逃げればいいかなんて…そんなの分からない!! でもオレは…とにかくここから逃げ出したいんだ…っ!! お前と一緒に逃げたいんだよ…海馬!!」
そう…。どこに逃げればいいのかなんてそんな事…分かる筈が無かった。
ただ逃げ出したかった。ここでは無いどこかへ…瀬人子と一緒に逃げてしまいたかった。
「アメリカになんて行かせない…っ! 結婚なんてさせない…っ!!」
青から赤に変わったばかりの歩行者信号をギリギリで通り抜けて、克美は叫ぶようにそう言い放った。その叫びに応えるかのように自分の身体に回る細い腕に力が籠もるのを感じて、克美はますますペダルを漕ぐ足に力を入れる。
今の克美にとっては、瀬人子の腕の強さと背中から伝わる熱だけが、現実世界の全てだったのだ。
瀬人子の口から「結婚する」という話が出た時、カーッと頭が一気に熱くなって何も考えられなくなった。そして胸がムカムカとして気持ちが悪くなり、同時にとても泣きたくなった。
親友が幸せを掴むというただそれだけの話だったのに、心の底から「嫌だ!」という想いが湧き上がって来て克美の心を蝕む。それだけでも辛かったのに、更に瀬人子の口から漏れ出た言葉に、もう逃げ出したいという衝動を我慢する事が出来無くなったのだ。
『ただの『友達』に…そこまでする権利は無い…』
そうだ。自分はただの友達だ。だから瀬人子の人生に口を出す権利は無い。権利は無いが…どうしても嫌だったのだ。
どうして自分がそこまで瀬人子の結婚を嫌がるのか。そしてどうしてそこまで彼女を独占したいと思ってしまうのか。克美はその理由を嫌って程良く分かっていた。
それは…瀬人子に恋愛感情を持っていたからだった。
自分と同じ女の子に対する恋愛感情。克美はもうずっと以前から、この想いに悩まされている。何度瀬人子の側を離れようとしたか分からない。だがその度に瀬人子には怒られて、そして自分も彼女の側を離れる事なんて出来無いという事を思い知らされるのであった。
留めようとした想いは日に日に大きく膨らんで、今はもう完全に無視出来無い程に克美の心を占めてしまっている。こうなるともう…潔く認めてしまうしか道は残されていなかった。
(オレは…海馬が…。コイツの事が好きなんだ…)
自分の想いを認めた瞬間に、それは失恋と成り果てた。
瀬人子の想いは自分とは同じではない。彼女はあくまで『親友』として自分を見ている。数ある『友達』というカテゴリの中の、たった一人の頂点。それが『親友』。元々瀬人子は『友人』という関係に魅力を見出せない人間だった。そんな瀬人子のたった一人の『親友』になれた時、それが何よりも光栄な事だと克美は心から感謝したのだ。
あの『海馬瀬人子』が認めたたった一人の親友『城之内克美』。それが克美にとっては長い間『自慢』であり、そして『誇り』でもあった。
それだけで良かった。それだけで良かった筈なのに…。
気が付いたら想いはどんどんと変化していき、そしてついに同じ女の子相手に抱いてはいけない気持ちへと変化していってしまったのだ。『親友』は自分。けれど決して『恋人』にはなれない。それは大きくて深い絶望を克美にもたらした。
瀬人子だって女の子だ。いつかは誰か他の男に恋をして、そして結婚をして子供を産むのだろう。だけれども、それはもっとずっと先の話だった筈だ。少なくても今すぐの話では無い…筈だったのに。
それなのにそれは…突然目の前に降って来た。
認められなかった。そんな事、認められる筈が無かった。
瀬人子がアメリカに行き、三十歳の男のプロポーズを受けて婚約して…そしていずれ結婚してしまうなんて、そんな事は許される筈が無かった。
あの一瞬。瀬人子の口から『婚約』という言葉が零れ落ちた時、熱くなった頭の中で思い描いたのは、ベッドの上で男に組み敷かれ淫らに喘ぐ瀬人子の姿だった。
白いシーツがクシャクシャになっていて、その上で全裸の瀬人子が男に組み敷かれ、涙を流しながら真っ赤な顔で甘く喘いでいる。青い瞳が涙で潤み、赤く腫れた唇で知らない誰かの名前を呼んでいる。白く細い腕を男の背中に絡みつかせて、足を大きく開いて男を受け入れていた。
男が動く度に揺れ動く瀬人子の身体。白いシーツに広がる栗色の髪と、動きに合わせて震える小さな胸。目をギュッと強く閉じて、ハァハァと荒い呼吸をしながら、それでも男の名前を呼ぶ事を止めない。
やめてくれ…! やめてくれ…っ!! やめてくれっ!!
瀬人子の身体に触らないでくれ!! 彼女の中に入り込まないでくれ!!
あの白くて細い綺麗な身体に触れていいのは…オレだけなんだ!!
瀬人子と知らない男が抱き合う大きなベッドの脇で、克美は目を閉じ両耳を塞いで蹲る。
ほんの一瞬の間に脳裏に広がった妄想の中で、軋むベッドの音を聞きながら克美は大声で泣いていた。そしてふと現実に立ち返り目の前に視線を向けた時、痛々しげな表情をして俯いている瀬人子の姿を見て、克美は一大決心をしたのである。
瀬人子を連れて逃げよう…っ!!
コイツがアメリカに行けないように! そんな男と二度と出会えないように!
逃げてしまおう…っ!!
…と。
そして克美は瀬人子の腕を掴んで、現実からエスケープする為に歩き出したのだった。
克美と瀬人子を乗せた自転車は童実野町の市街地を走り抜け、今は隣町との境までやって来ていた。目の前に流れる大きな河。その河に掛かる長い橋を渡れば、そこはもう童実野町では無い。
いつの間にか太陽は西に傾き、河面は夕日に照らされてキラキラと美しく輝いている。午後になって海から吹いてくる強風にフラフラしながらも、克美は懸命にペダルを漕いで前に進んでいた。自転車に二人乗りをした長い長い影が道路へと伸びる。橋の上を行き交う車がその影を踏みつけるのを眺めながら、克美はそれでも自転車を止める事はしなかった。
「城之内…」
強い風が耳元で唸る中、背後から聞こえた瀬人子の声に耳を傾ける。息が切れて苦しかったが「何?」と一言だけ問い掛けた。
「お尻が…痛い」
「我慢しろ」
固い荷台に長時間乗せられている為だろう。瀬人子が臀部の痛みを訴えるが、克美はそれを無視した。
「少し休ませてくれ」
「嫌だ」
「喉も…渇いた」
「嫌だ」
「それに…」
「………」
「それに…こんな事しても…無駄だ」
「嫌だって言ってんだろ…っ!!」
瀬人子の言葉に、克美はますますムキになる。疲れ切った足に鞭打って、ペダルを更に早く漕ぎ出した。
橋を渡りきって坂を下り、隣町の市街地をも走り抜ける。日が沈み辺りが薄暗くなっても、克美は自転車を漕ぐのを止めなかった。
遠く…もっともっと遠くまで。アメリカも、瀬人子にプロポーズをしている自分の知らない男も、誰も瀬人子に追い付けないような遠くまで。
だけどそんな遠くまで逃げて、自分は一体瀬人子と『どうしたい』というのだろう…?
そう思った瞬間、突然身体に疲労感が襲ってきた。周りを見渡せば辺りはすっかり暗くなり、街灯がポツポツと灯っている。目の前に丁度小さな公園が現れたので、克美はそこで漸くブレーキを掛けた。ギッと半分錆び付いたような音が響いて自転車が止まる。
住宅街のど真ん中の小さな児童公園。遠くの民家で飼われている犬が吠えている声と、カチャカチャという夕食時の家庭の音があちこちから聞こえるだけで、公園は他に誰もおらずシンとして静かだった。
ブーンという微かな電気音に視線を巡らせると、公園の入り口に自動販売機があるのが見える。思い立ってポケットを探ると五百円玉が一つ入っているのを確認して、克美はホッと安心したように息を吐く。そして背後の瀬人子に「休憩するから一旦降りて」と話しかけた。
その途端、戸惑いがちにスルリと細い腕が解かれて、瀬人子が荷台から足を降ろした。背後の重みが無くなるのを感じて、自分も自転車から降りて振り返る。そして目に入って来た瀬人子の表情に息を飲んだ。
「あ………」
瀬人子は…酷く不安そうな顔をしていた。顔面は蒼白で、悲しそうに眉根を寄せている。
「ゴメン。お尻…痛かったよな?」
そう問い掛ければ瀬人子は黙ってコクリと頷いた。だが別に怒っている訳でも無いらしい。長い間自転車に乗って風に吹かれていた為、瀬人子の栗色の髪の毛はかなり乱れている。それを手で直してやりながら、克美は公園の奥を指差した。
「疲れただろ? 今何か飲み物買ってやるから、あそこのベンチで座って待ってな」
克美が指差した方向を見て頷いた瀬人子は、そのまま公園へと歩いていく。その背後を見送って、克美はポケットから五百円玉を取り出しながら自販機に歩み寄った。暗闇に明るく照らし出される自動販売機の商品を見て、少し悩んでまずは自分の分のスポーツ飲料を買う。ゴトンという音と共に落ちてきたそれを取り出し口から抜いて、今度は瀬人子の為に温かいお茶を購入した。
ずっと自転車を漕いで汗を掻いている自分は冷たいドリンクの方が良かったが、ただ荷台に座って強い風に吹かれていた瀬人子の為には温かい方が良いと思ったのである。現に自分の腰を掴んでいた瀬人子の手は、まるで氷のように冷たくなっていた。
二つのドリンクを自転車の籠に入れて、そのまま自転車を手で押しながら公園へと入っていく。瀬人子は、真っ暗な公園の中のベンチにポツンと座っていた。
藤棚の下の小さなベンチ。街灯が疲れたように俯いている彼女を照らし出している。
「海馬。お茶買って来たぞ」
努めて優しく声を掛ければ、その顔がゆっくりと上がった。相変わらず顔色が悪く、表情も暗いままだ。
「ほら、あったかいの。寒かっただろ?」
お茶を差し出すと、それを受け取る為に瀬人子が手を伸ばしてくる。指先が触れた時に、その手が冷たいままなのが気になって仕方が無かった。
ペットボトルのキャップを開けて瀬人子がお茶を飲むのを見て、克美も自分の分のスポーツドリンクのキャップを外した。そして喉が渇いていた事もあり、一気に半分近くを飲んでしまう。甘くて少し塩気のある液体が、今はとても美味しいと感じた。
「はぁ~…」
喉の渇きが治まって、克美は大きく息を吐き出しながら街灯に寄り掛かった。公園の中心には時計があって、もうすぐ夜の六時半になろうとしている事が分かる。
あぁ…道理でいい匂いがする筈だ…と思い、克美は辺りを見渡した。あちこちの家々からは、夕食を作っている音と共に良い香りが漂って来ている。途端にグーとなったお腹に手を当てつつ、克美は「お腹空いたなぁ…」とボソリと呟いた。
スポーツドリンクは百五十円。瀬人子のお茶は百二十円。手元に残ったお金は二百三十円。これでは御飯は食べられない。どこかのコンビニによって、お握りかパンを買ってこよう…。そして二人で分けて食べようと、そう思った。
「腹減ったなぁ…海馬。少し休んだらどこかのコンビニに寄って何か買おうな」
「………」
「それにしても随分漕いだな…。どのくらい遠くまで来たんだろ」
「………」
「多分もう結構遠くまで来てるよな」
克美の言葉にそれまで黙ってお茶を飲んでいた瀬人子は、制服の胸ポケットから携帯電話を取り出した。フリップを開けて暫く何かを弄ると、ふぅ…と小さく嘆息する。
「城之内…」
「ん?」
「ここは童実野町の隣街の、東の端の住宅街だ」
「へ? 何でそんな事が分かんの?」
「GPSで調べれば一発で分かるだろう」
「ふぅん…そうなんだ。最近の携帯って凄いな。オレそういうの弱いからさー。ちなみにどれくらい遠くまで来た?」
「そうだな…。車で来るなら…約二時間ちょっと。幹線道路を真っ直ぐに来れば一時間半というところだろうか」
「…え? 一時間半?」
「あぁ」
「こんだけ漕いで…まだ車で一時間半の距離なのか…?」
「………そうだ。結構迷走していたからな。そんなに遠くまで来た訳では無い」
瀬人子の台詞に、克美は気が遠くなるのを感じた。
一時間半。たったの一時間半。これだけ懸命に自転車を漕いで、やっとの思いでここまで逃げて来たというのに、それなのにたったの一時間半で追いつかれる距離だなんて…。
余りのショックに、克美は思わず持っていたスポーツドリンクのペットボトルを取り落とした。公園の砂地に甘苦い液体がトクトクと染み込んでいく。
呆然と突っ立ったままの克美を見上げて、瀬人子は少し悲しそうな顔をして言い放った。
「城之内…。逃げるのは…無理だ」
逃げるのは無理。その言葉が克美の頭の中でグルグルと巡る。
あぁ、分かっていたさ。そんな事は充分過ぎるくらい分かっていた。でも、どうしても逃げ出したかったんだ。瀬人子を連れて逃げたかった。例え無理だと分かっていても…あのままあそこにいる事なんて出来無かったんだ。
「っ………ふぅ…っ!!」
突然目の奥が熱くなって、そしてボロボロと涙が零れ落ちてきた。一気に身体が重たくなって、克美はその場にしゃがみ込んでしまう。膝に顔を埋めてヒックヒックと泣く克美に、ベンチから立ち上がった瀬人子が近付いて来て、そして丸まった背中ごとゆっくりと抱き締めて来た。
「城之内………」
「い…やだ…っ! 嫌だよ…海馬ぁ…っ! 結婚するなんて…嫌だぁ…っ!!」
泣きながらいやいやと首を振る克美に、瀬人子はその背を抱き締めたまま優しい声で言葉を発する。
「城之内、逃げるのは無理なんだ。どんなに頑張っても…逃げられない」
「嫌…っ! 嫌だ…っ!!」
「だから…な。逃げるのが無理なら、抗おうと思う」
「え………?」
「プロポーズは断わる。結婚なんてしないから安心しろ、城之内」
「海馬…っ」
「お前が不安がるような事を言って悪かった。ただオレも…少し苛ついていたから…」
「海馬…? どういう事…?」
「あの…な、城之内。実は…お前に対してお願いがあるのだ…」
「な…に…?」
「………っ」
「海馬…?」
「何故だか…何故だかは分からないが、オレはどうしてもお前が他の奴と仲良くしているのが…嫌なんだ。だから…友達として付き合ってもいいが、親友のオレは特別にして欲しいというか…優先して欲しいというか…。あ…その…我が儘な事を言っているとは分かっているのだが…、どうしても…な」
戸惑ったような瀬人子の言葉に顔を上げれば、目に入ってきたその顔は真っ赤に染まっている。どうやら自分が意味不明な事を言っている事に、自分自身で戸惑ってしまっているらしい。
「だから…その…。今度の土日はアイツ等とじゃなくて…オレとお泊まり会をして欲しいというか…何て言うか…」
「うん、分かった…」
「城之内…? いいのか?」
「いいも悪いも、オレはいつだってお前優先なんだよ…。いつだってお前と一緒にいたいんだからさ…海馬」
「城之内…」
「だからお願いだ。結婚なんてしないでくれ。オレの側に…いてくれ」
「城之内…。ふ…ふふっ…」
「海馬?」
「ふふっ…。まるで…プロポーズみたいな言葉だな」
ふわりと優しい笑みを浮かべてそう言う瀬人子に、克美の心臓はドキリと高鳴った。同時に胸の奥がズキリと痛んだけれど、その痛みには気付かないふりをして克美はコクリと頷き、瀬人子の身体をそっと抱き締める。
今はまだ友情の域を出ないその抱擁も、やがてはその意味を変える時が来るのだろうか…?
冷え切った瀬人子の細い身体を優しく抱き締めつつ、克美は疲れ切った脳裏でぼんやりとそんな事を考えていたのだった。