*光と闇の狭間でシリーズ - 仄かな光の中へ… - Episode4

 オレが交通事故に遭って視力を失ってしまってから、一年以上が経っていた。
 実家を離れて一人暮らしするようになってから暫くが経ち、オレは充実した日々を過ごしていた。
 引っ越したマンションがバリアフリーだった為か新しい部屋にもすぐに慣れ、仕事場も近かった為に全く苦労する事無く暮らす事が出来ていた。何か困った事があれば恋人である海馬も協力してくれたし、オレは自分が一時退院こそしているものの、まだ治療途中の身だという事を完全に忘れてしまっていたのかもしれない。だから月に一度の病院の検診でその決定事項が告げられた時、余りに突然の事と予想外な事実に、思わず呆気に取られて何の反応も出来ずにいたんだ。

「え…? それ…本当ですか?」

 恐る恐る尋ねるオレに対し、主治医は穏やかな声で「そうだね。もうそろそろいい頃だろうと思ってね」とハッキリと答えたのだった。



 その日の検診前、オレは三ヶ月ぶりのMRI検査を受けていた。検査中、まるで道路工事の現場のように耳元でガンガンと煩く鳴り響く音に最初は辟易したものだけど、それも慣れてくればどうって事無い。今では約十数分の検査中に居眠りも出来る程になってしまった。
 慣れた感じで検査を終え、結果が出るのを待って診察室に入っていく。そこにはいつものように主治医がにこやかにオレを待っていたのだけど、椅子に腰掛けるのも早々、その医者の口から驚くべき言葉が発せられたのだ。

「MRI検査お疲れ様。調子はどう?」
「あぁ、はい。全然大丈夫です」
「そっか。でね、城之内君。近い内に二回目の手術をしてみようか」
「はい?」
「最初の手術の痕も落ち着いて来たし、もうそろそろ再手術してみてもいいと思うんだよね」

 その医者の言葉に対してオレが反応したのが、最初の言葉だったって訳。
 いや、別にオレは驚いていた訳じゃ無い。何度か手術をして視力を戻していくってのは最初に説明されてたし、正直そろそろ再手術するんじゃないかなぁーという予想もしてた。手術に対する覚悟なんてとっくの昔にしてたし、その手術をする事によって視力を取り戻せる事も説明を受けていたし、でも百%安全という訳では勿論無く、一旦失敗すれば今度は完全に失明してしまうというリスクも把握済みだ。
 一年前のオレは、こんなリスクに対しては何の恐怖も感じていなかった。失敗を恐れて暗闇の中にいるより勇気を持って手術を受けて、光を取り戻したら海馬の姿をこの目でちゃんと見たいと、そう思っていたんだ。
 だからオレは、手術なんて怖く無かった。やれるもんなら、続けて手術を受けてもいいとすら思っていたんだ。
 それなのに今のオレは、何故か医者の言葉にかなり動揺させられてしまった。それは視力が効かないという今の状態に、以前程不自由さを感じなくなっている所為かもしれない。現にオレは実際にこの一年間、視力が不自由な状態でずっと一人で暮らして来た。仕事も日常生活もほぼ問題無く過ごせるようになってきて、むしろそれが普通だという感覚すら持ってしまっていたのだ。
 一年ぶりに聞いた『手術』という言葉は、まさに突然降って湧いたようなものだった。

「手術…やっぱり怖いかな」

 オレの動揺が完全に顔に出てしまっていたのだろう。主治医が物凄く心配そうな声で、オレに話しかけてくる。その声にオレは慌てて首を横に振って否定した。

「一年間落ち着いて過ごして来て、また手術するとなったら動揺するのは当然だ。どうする? 少し時間を置くかい?」
「い、いえ…大丈夫です! 手術…出来ます! やりましょう!」
「最初の手術も無事に乗り越えているんだ。君なら乗り越えられるから大丈夫だよ、城之内君」
「はい」

 オレの返事に主治医は「うん、分かった」と言って、カルテに何かをサラサラと書き出した。そして淡々とした声で話を続けていく。

「城之内君は今、どこかに勤めているんだったかな?」
「あ、はい。マッサージ医院で勉強しながら働いています」
「そうだったね。その勤め先に長期休暇の申し出は出来るかい? すぐには無理でも近い内には手術をしたいんだけど…」
「それは大丈夫です。院長先生にはオレの症状の事をしっかり伝えてありますんで…」
「そうか、良かった。それじゃあ色々準備しなくちゃいけないだろうから、入院は来週末にしようかな。手術は再来週の半ばって事で。それでいい?」
「はい、いいです。分かりました」

 主治医の言葉に素直に頷きながらも、オレの心は不安で一杯だった。



 事故に遭ったばかりの一年前のオレは、こんな不安なんて何一つ持っていなかった。どんなに難しい手術も怖く無かったし、それで視力を取り戻せれるなら何度でも挑戦してやるって、ずっとそう思っていた。
 だけどそんなオレの心に不安という影を落としたのは、思いの外穏やかに過ごせた一年という月日と、そして…恋人である海馬の存在なんだという事に、オレは気付き始めていた。
 最初の手術で光を取り戻したオレは、ぼんやりとだけど海馬の姿をこの目で確認する事が出来るようになった。鼻と鼻がくっつくくらいの至近距離ならば、アイツの顔もちゃんと認識出来る。白い肌、栗色のサラサラの髪、そして青空を映し込んだ海のような真っ青で綺麗な瞳…。キスをしようとして顔を近付けると、白い頬に朱が差して、青い目が少し潤むことも知っている。

 愛しい海馬。大事な海馬。視力が効かなくなったオレを見捨てるどころか、その状態から丸々受け入れてくれた優しい海馬。

 手術に成功すれば、その愛しい海馬の姿をもっとハッキリ見る事が出来るようになる。でも、もし失敗してしまったら…? あの美しい姿を、もう二度と見られなくなってしまう。
 オレが一番不安に思って怖いのは、きっとその事なんだろうな…という事に、オレはもう完全に気付いていた。
 愛しい存在がオレを不安に駆り立てる。でも、勇気を与えてくれるのもまた海馬という存在なのも確かだった。アイツの姿が見たい。遠くからでも海馬の姿を確認出来て、あの栗色の髪が風に靡いているところとか、オレがいるという事に気付いた時の表情とか、日常生活における何気ない仕草の一つ一つとか、アイツの全てをちゃんとこの目で見てみたいんだ。
 それに…。何よりオレは、海馬の本当の姿をまだ見ていない。オレはアイツの…海馬の白い全身を、余すところ無く全部見てみたいんだ。白い肌がオレに触れられて、ほんのり朱に染まる様をこの目で最初から最後まで見てみたい。海馬の本当の姿を見ないまま、この視界が闇に閉ざされるのだけは絶対嫌だった。
 その為には、逃げてなんていられない。リスクを承知で、勇気を出して立ち向かっていかなくちゃいけないんだ…!



 家に帰り着いて、疲れた身体をソファーに沈めながら、オレは懐から携帯電話を取り出した。そして音声案内に従って海馬の番号を呼び出す。僅か数コールで繋がったそれは、残念な事に留守番サービスに転送された。時間が早かったから、まだ仕事しているんだろう。いつもだったらガッカリするそれに、今回ばかりは感謝した。
 実はまだ少し動揺が残っていて、海馬が出てくれてもまともに話せる自信が無かったんだ。実際携帯を持つ手も、それから自分の声も細かく震えている。ピーッという電子音の後に何度か咳払いをして、オレはメッセージを吹き込んだ。

『仕事中に悪ぃ。ちょっと大事な話があるから、後でウチに寄って欲しいんだ。電話でもいいけど、なるべくなら直接会って話したいから…』

 そう言って通話を切ったオレの指は、まだカタカタと震えていた。



 風呂にも入り、夕飯も済ませてから暫くした後、呼び鈴が部屋に鳴り響いた。少し前に音声案内が出る時計で時間を確認した時は夜の十時四十五分だったから、今は丁度十一時頃なのかもしれない。こんな時間に家に来るのはたった一人しかいないので、オレは特に警戒もしないでインターフォンの受話器を取り上げつつエントランスのオートロックを解除した。案の定、受話器から海馬の怒鳴り声が響いてくる。

『城之内!! 貴様、オレだという事も確認もせずにオートロックを解除するなと言っているだろう!』
「いいじゃん別に。こんな時間にオレん家に来るのなんて、お前しかいないんだからさ…」
『他に怪しい奴がいたらどうするんだ! ったく…何の為のオートロックだ。全く役に立っておらんではないか!』
「話は後で聞くから、取り敢えず中に入れよ。ていうか、そこで騒いでたら迷惑だろ?」
『何だと…っ!? あ………』

 案の定、喧嘩している内に閉まってしまったオートロックの扉をもう一度解除して、オレは苦笑しながら受話器を置いた。
 このオートロックって奴、オレは実は少し苦手なんだ。ずっと団地に住んでたからかもしれないけど、直接玄関まで辿り着けないってのが何かもどかしくてさ…。でも海馬が捜してくれたこのバリアフリーのマンションはほぼ新築状態だったので、オートロック機能が付いているのは仕方無いとも言える。
 数十秒後に怒った様子で家にやって来る海馬を楽しみにしつつ、オレは温かいお茶を煎れる為にお湯を沸かし始めた。



 予想通り、家に入って来るなり怒って説教をする海馬を温かい紅茶を飲ませて落ち着かせて、オレ達は今ソファに並んで座っていた。時間を確認しようとして腕を探り、そこにいつも嵌めている腕時計が無い事に軽く嘆息した。その腕時計は指先で触れて時間が確認出来る物で、弱視の人の為に分厚いレンズも嵌められている。仕方無く音声案内が出来る時計を触りに行こうと立上がりかけて、すぐ隣に海馬がいる事を思い出した。

「今何時?」
「ん…?」

 二杯目の紅茶を飲みながら海馬はオレの言葉に反応し、少ししてから「もうすぐ十二時だ」と返答した。
 オレはこういう大事な事を相手に伝える時、あんまりグズグズと時間を先延ばしにするのは得意じゃ無いんだよな。いつもの思い切りの良い自分を何とか取り戻そうとして、オレは大きく深呼吸をしてみた。そしたら思いの外落ち着けたので、隣に座っている海馬の方に身体を傾けて「なぁ…海馬」と言葉を切り出した。
 真面目に伝えようとする気持ちが流れ出たみたいに、自分でも驚くくらいの真剣な声が部屋に響いてビックリする。オレ以上に驚いたであろう海馬が、一瞬固まるのが分かったくらいだ。
 オレの声のトーンで、これからオレが話そうとしている事が思った以上に深刻で有る事が分かったらしく、部屋が静かなお陰で海馬がコクリ…と生唾を飲む音が聞こえてきた。

「何だ?」

 ややあって返って来た海馬の言葉に、オレはふっ…と笑ってみせる。

「オレな、二回目の手術が決まったんだ」

 なるべく淡々と、何て事無いように簡単に言い切ってみせる。だけどやっぱりというか何て言うか…、海馬の身体がビクリと反応したのがオレの役に立たない視界でも見て取れた。
 視界が利かなくなった所為で、オレの他の感覚は以前よりずっと鋭くなっている。その所為で今オレの耳には、通常よりもずっと早くなった海馬の余裕の無い呼吸音がばっちり聞こえて来ていた。本人は押し隠しているつもりだろうけど、オレの耳は誤魔化す事は出来無い。
 オレの言葉で海馬がショックを受けているのが、まるで手に取るように伝わって来た。
 そうか…。やっぱり海馬も、手術のリスクの高さについては心配してくれてたんだな…。

「来週末に入院して、再来週には手術だってさ」
「………そうか」
「無事に成功すれば、今以上に見えるようになるって」
「あぁ…そうだな」
「でも、失敗するリスクも高いんだ…」
「………」
「オレ…勿論手術は受けるつもりだぜ。ちゃんと視力を取り戻したいからな」
「………」
「だけど、やっぱりちょっと怖いんだよ。今は殆ど見えて無い状態だけど、それでも光と影の区別は出来ている。こうやって近くに寄れば、お前の顔だって見えるしな」

 そう言ってぐいっと顔を近付けてやったら、妙に泣きそうな顔をしている海馬の表情が目に入ってきた。付き合い初めて…っていうか、付き合う前からも、コイツのこんな不安そうな顔は見た事が無い。物凄く意外であったのと同時に、それだけ自分が愛されてるって事を知って嬉しかった。

「そんな心配するなよ」

 そう言って笑って見せたら、海馬の顔はますます歪んでいった。

「手術は必ず成功するから」
「………」
「オレだって怖いぜ? 今見えている物まで失うって考えると、本当は逃げ出したくて堪らないくらいだ」
「………」
「でも、逃げる訳にはいかないだろ? だってもっとハッキリとお前の事見たいもん」
「………城之内…」
「でもな、それでもやっぱり失敗は怖いんだよ…。出来る事ならば…」

 そこまで言いかけて、オレはハッとして口を噤んだ。
 オレは今、何を言おうとした? 出来る事ならば、今の内にお前を抱いておきたいと言おうとしたんじゃないだろうか…。
 海馬を抱きたいのは本当だ。恋人になってから一年以上経ってまだキスしかしていない。勿論そんな事してる精神的余裕なんて無かったってのもあるけどさ…。それに万が一手術に失敗する事を考えたら、やっぱり海馬の白い肌をこの目に焼き付けておきたいと思ってるのも…事実だ。
 でも今それを言うのは、凄く卑怯な事だと思った。多分今ここでそれを願い出れば、海馬は間違い無くその願いを聞き届けてくれるに違い無い。そうだとしても、それはあくまでオレの為に海馬が覚悟してくれる事であって、海馬が自分からそうしたいと思っている訳じゃ無いんだ。
 そんな行為を何も考えずにありがたく受け入れる程、オレは自分に甘く無い。

「どうした? 城之内…?」

 オレが突然黙り込んでしまったのを心配したのか、海馬がオレの顔を覗き込んでくる。そんな海馬に慌てて首を振って、笑顔を向けた。

「あ、いや何でも無いんだ」
「馬鹿が…。何でも無いという顔なんかしていない癖に」
「え………?」
「気付いていないのか? 視力を失ってからの貴様は、考えている事が全部顔に出るようになっているのだぞ? まぁ…元からそうだったが、もっと酷くなった感じだな」
「え? それ…マジで?」
「あぁ」
「それは…ちょっとショックだな…」
「だからな、オレに嘘を吐こうとしたって無駄なんだ。城之内…、今言いかけた事はお前が本当に望んでいる事では無いのか?」
「………そ…れは…」
「この際だ。正直に言ってくれ」
「でも…」
「城之内」

 強く…本当に強く、海馬がオレの名前を呼ぶ。その声に押されるようにして、オレはついに口を開いてしまった。

「本当は…手術に失敗して完全に失明するのが怖いんだ…」
「………あぁ」
「だから…、失明する前にお前の姿を見ておきたいと…そう思って…」
「あぁ」
「それもただ見るんじゃなくて…出来ればその…」
「………」
「だから…その…何て言うか…」
「城之内」
「………? 海馬?」
「付き合って一年だしな。そろそろしてもいい頃だろう」
「え………? お前…何…言って…」
「しよう、城之内」

 ハッキリと…。妙にハッキリと告げられたその言葉に、オレは面喰らってしまった。だけど海馬は飄々とした態度を崩さずに、オレの動揺にクスッと笑ってみせる。そしてゆっくりと顔が近付いてきて、唇に軽くキスをされた。暖かな吐息がオレの唇を擽って離れて行くのを感じて、ドキリと胸が高鳴る。

「海馬…? 本当に…?」

 震える声でそう問い掛ければ、海馬は返事をする代わりに柔らかくオレの身体を抱き締めて来た。その薄い背に両腕を回しながら、オレは恋人の優しい熱に感激して流れ出る涙を止める事が出来ずに、ただただ困惑するばかりだった。