*光と闇の狭間でシリーズ - 仄かな光の中へ… - Episode3

 入院していた病院を一時退院してから半年。オレは今、駅近くのマッサージ医院でアルバイトをしつつ、マッサージ師としての勉強を日々こなしていた。
 幸運にも海馬のツテですぐに優良な医院に出会えたオレは、それからずっとそこにお世話になっている。ツテと言っても海馬の直接の知り合いでは無く、海馬コーポレーションと取引のある会社の専務さんからの紹介だった。
 その人が一年くらい前に酷いギックリ腰をやってしまった時、知り合いに評判の良いマッサージ医院を紹介され、そこで治療をして貰ったら見事に回復したんだそうだ。そんな話がたまたま海馬の耳に入って、オレにまで話が回ってきたという訳だ。
 マッサージ医院の院長さんは、随分と体格の良い壮年のおじさんだった。奥さんと息子さんの三人でこの医院を切り盛りしているベテランで、何にも分からなかった若輩者のオレに対してもいつも厳しく、そして優しく接してくれていた。必要とあらば診療時間外だというのにオレの勉強にとことん付き合ってくれて、丁寧にマッサージのノウハウを教えてくれる院長に、オレは心から感謝していた。
 オレの身分はバイトだったけど、今までしてきた肉体労働以上のバイト代が貰えて、家庭の方も助かっていた。親父の借金はまだ残っていたけど、このままここで真面目に働けば何とかなりそうだし、無理もしなくて良さそうだ。

 それに、仕事の方も慣れてくるととても楽しかった。

 最初は人の筋肉や筋の事なんて何も分からなかったけど、慣れて来ると掌や指先でそれを感じる事が出来るようになった。筋肉の動き、貼り、筋が凝っている様が手に取るように分かる。今はまだ簡単なマッサージしかやらせて貰えないけど、真面目に勉強を続けてその内ちゃんとした免許を取ろうと心に決めていた。
 勿論その為の資金も、コツコツと貯めていた。毎月きちんと支払われる給料の中から、自分用に通帳を作ってしっかりと貯金をする。それはマッサージ師の免許の為でもあり、これからの治療費の為でもあった。
 オレを跳ねたトラックの運転手さんからの治療費や保険の代金もあるけど、こういうお金は貯めておくに越した事は無い。ましてやこの先何が起るか分からないのだ。万が一にも視力回復の手術が失敗した時には、オレは今度は完全に失明してしまう。それでもオレは、その後も自力で生きて行かなくちゃいけないんだ。
 幸い、視覚障害者としての認定はして貰えた。今後手術が上手くいって視力が回復しても、逆に失敗して失明しても、これは大きな助けとなる。以前と比べれば大分生きていくのが大変になってしまったが、それでもオレはずっと前向きでいられた。
 それは、手術をすれば今後視力が回復するであろうという希望と、そしてこんなオレを支えてくれる恋人の…海馬の存在が大きかったからなんだと思っている。



 こうしてオレは、比較的穏やかで、そして充実した日々を送っていた。だけど事件ってのは、突然起きてしまうものなんだよな。
 ある日、仕事から疲れて帰って来たオレは、家の中の違和感に気付いた。視力が効かなくなってからというものの、以前は全く分からなかった些細な変化や空気の違いなどにも気付けるようになっていたが、その日のそれはあからさまだった。
 何しろ…家に入った途端に強い酒の匂いが、ムッと鼻を刺したからだった。

 親父が帰って来ている…。

 玄関の鍵を閉めながら、オレは密かに溜息を吐いた。
 親父は、オレが目を悪くしてからというものの、余り家に寄りつかなくなった。視力が効かなくなった息子とどう接すれば良いのかが分からなかったらしい。その代わり酒を飲んで暴れる事も無くなり、比較的真面目に働いていた筈だった。この半年の間は借金も増やさなかったし、働き先でも特に問題行動は取らなかったと聞いている。
 それを聞いて、オレは少し安心していたんだ。自分の目はこんな事になってしまったけど、それで親父が酒をやめて真面目になってくれればそれでいいと思っていた。オレが完全に視力を回復するにはまだ大分時間が掛かりそうだけど、それでもちゃんと目を治したら、親父と仲良く暮らしていこうと…そう思っていたのに。
 家中にプンプン漂う酒の匂いは、そんなオレの幻想を一撃で粉々に打ち砕いてくれた。結局親父は…酒をやめる事が出来無かったんだ。

「親父…? 帰ってるのか?」

 白状を玄関の傘立てに立てかけて(本当はいけないんだろうけど、オレは分かり易いからついそうしてしまっている)、壁に手を当てながらゆっくりと台所へと進んで行く。そのまま灯りの付いている台所を覗き込むと、一掃酒の匂いが強まって、オレはその匂いについ眉を顰めてしまった。しまったと思った時はもう既に遅く、台所の椅子に座って酒を飲んでいた親父の空気が変わったのを、肌でピリピリと感じていた。

「何だぁー…その顔は」

 声がヤバイ。妙に低くてドスが効いているのに、語尾が細かく震えている。泥酔している証拠だ。

「別に。たまに帰って来たと思ったら、また酒かよって思って。暫くやめてたじゃん」
「うるせーよ馬鹿。オレが何をしようが、てめぇにゃ関係無ぇ!」
「関係ならあるぜ。一体誰が、アンタがこさえた借金を返してやってると思ってるんだ」
「何だとぉーてめぇ!」
「何だよ」
「親にそんな口叩くなんざ、百年早いってんだよ!!」

 親父はグビグビとコップに入った酒を飲みながら、こっちに向かって怒鳴ってくる。何かを言う度に、酒臭い息がオレの方にむわっと襲って来て、その余りに強い酒の匂いに息が出来なくなりそうだった。
 思わず掌で鼻と口を覆いながら、それでもオレは静かに対応していた。目が見えなくなってからは、昔みたいに大声で怒鳴ったりする事は無くなった。相手の表情が全く見えなくなってしまった為に無闇に大声を張り上げる事が怖くなったって事もあるし、何より一番の理由は、相手の感情の動きが手に取るように分かるようになったからだった。
 以前はそれが分からなかった。相手が何を考えているのかが分からなくて、だからつい大声を張り上げて喧嘩をしていた。でも今は違う。今は相手が何を伝えようとしているのかが分かるし、出方もある程度なら予測出来る。だから怒鳴る必要なんて無くなってしまったんだ。
 だから、今もオレは自分の全神経を集中させて親父の出方を探っている。だけど素面の人間と違って、酒に酔った人間の予測はし辛い。以前と全く変わってしまった状況に酷く苛ついている事だけは分かるけど、それ以上の事は読めなかった。

「………」

 相手の出方が分からないと、オレの方も動けない。色々考えながらそれでも黙ってそこに立っていると、コップの中身を全部飲み干したのか、親父がダンッ!と空のコップを乱暴にテーブルの上に置いて言葉を放った。

「クソつまんねぇ事故になんか遭いやがって…。お陰で金も無くなって酒も自由に飲めやしねぇ…!」

 親父の言葉に、オレはなるほどな…と小さく嘆息しながら納得した。
 オレが事故に遭ったばかりの頃、親父はこれでも随分と心配してくれていたのだ。視力が全く効かなくなってしまった息子の将来を心配し、そして借金を何とかすべく自分も真面目に働こうという気持ちの変化が見えた。だからオレは安心していたんだけど、その状況に慣れてしまった今、どうやらまた悪い癖が出て来てしまったらしい。
 酒の魔力が、親父を元に戻してしまっていた。

「金が無くなった訳じゃ無い。オレもマッサージ医院で働いているし、前と収入は殆ど変わらない」

 そう答えると、ガタガタと椅子が震える音がした。どうやら親父が苛ついて貧乏揺すりをしているらしい。

「じゃあ今すぐ金くれよ」
「それは出来無い」
「何でだよ!」
「手取りで貰っていた時と違って、今のところは振り込みなんだ。金が必要なら、いくら必要なのか言ってくれよ。それが本当に必要なんだったら、明日銀行に行って下ろしてくるから…」
「オレは今欲しいんだよ!!」
「だから無いんだってば!」
「しかもおめぇ…オレに黙って貯金なんざしやがって…! 一体何に使うつもりだ!」
「なっ…! 親父…オレの通常見たのかよ!!」
「親が息子の通帳見て、何が悪いってんだ!!」

 親父から返ってきた言葉に愕然とする。
 オレが自分用に貯めていた貯金の通帳は、自室の机の引き出しの中に仕舞ってあった。最近親父が全く帰って来なかった為に、気が緩んでいた事を後悔する。多分親父はオレの部屋に勝手に入って、隠してる金が無いか必死で探し回ったに違い無い。

「どうしてそんな事したんだ!!」

 流石のオレも、ここまで来たら落ち着いてなんていられなかった。怒りで身体がブルブル震えて、必然的に声も大きくなる。そんなオレに親父は特に反応せず、手元に何かメモ帳みたいなのを持って、パラリと開いてみせた。

「六万五千円…? こんなに隠し持っていやがって…」

 酔っ払った親父のその言葉に、背筋がゾッとした。
 今親父が手に持っているのはメモ帳なんかじゃない。オレの…通帳だ。

「なっ…! 何でそれ…持ってるんだよ…!! 返せよ!!」
「うるせぇ!!」

 頭に来て、一歩踏み出してそう怒鳴ったら、もっと大きな声で怒鳴り返される。

「この金使ってやるから、判子と暗証番号教えやがれ!」
「何言ってやがるんだ! ふざけんな!! 嫌に決まってるだろ!?」
「ガキが生意気な事言ってんじゃねーっ!! 早く教えろってんだ!!」
「嫌だって言ったら絶対嫌だ! それはオレのマッサージ師の免許の為と、これからの治療費の為に貯めてるんだ! 親父が好き勝手使っていい金じゃねーんだよ!!」
「うるせぇ!! この…ガキが!!」

 ふいに…ヒュッと。何かがヒュッと音を立てて、こちらに飛んで来るのが分かった。
 空気の動きを感じる事は出来たけど、視界がそれを捉える事は出来無い。何かが飛んで来る…! と思った時には、それはオレの額にガッ!! と思いっきり当たって、そのまま地面に落ちていった。そして次の瞬間、それは足元でカシャーン! という軽い音を立てて、粉々に砕け散る。
 それは…親父が先程まで酒を飲んでいたガラスのコップだった。

「っ………!」
「なっ…お前…」
「………」
「そんくらい避けろよ、馬鹿野郎が!!」

 妙に苛立った親父の声が、耳に突き刺さる。
 オレが何の反応も出来ずにいると、ガタンと椅子を引く音が聞こえて、そしてドタドタと大袈裟な足音と共に親父が近付いて来た。それに思わずビクッと反応すると、親父はオレの目の前で一旦足を止め、そして「…チッ」と小さく舌打ちをして、そのまま通り過ぎて行った。ガチャリと乱暴に鍵が開く音と共にドアが開かれ、冷たい風が部屋内に入り込んでくる。やがてその風も、ドアが締まる音と共に入って来なくなった。
 後に残されたのはオレだけ。シーンとした室内に、オレは親父が家を出て行った事を知った。

「………。あー…どうすんだよ…コレ」

 コップが当たってズキズキする額に手を当てながら、オレは深く溜息を吐く。
 思いっきり割れた音がしてたから、オレの足元は今ガラスの破片で一杯だろう。目が見えていた頃なら、ガラスの破片を踏まないように気を付けながらそれを集めて新聞紙でくるみ、掃除機で細かい破片を吸い上げて掃除していたに違い無い。
 だけど今のオレには…掃除をするどころか、ここから一歩を踏み出す事さえ出来無かった。
 目が見えないから、どこに大きなガラスの破片が落ちているのかが分からない。下手に足を踏み出せば、それを踏んでしまって大怪我をするかもしれない。その恐怖が、オレをそこに縛り付けた。
 さらに運の悪い事に、コップがぶつかった時に額を切って、そこから出血しているらしい。指先にぬるりとした液体が纏わり付いて、それを鼻先に持ってくると強烈な錆びた鉄の匂いが鼻を突いた。
 その場から一歩も動けず、呆然とするばかり。でも全く動かない訳にはいかないし、傷の手当てもしなくちゃいけない。何より一晩中ここに突っ立っている訳にもいかないだろう。

「………。あ…海馬…」

 ふと、オレは自分が着ていたシャツの胸元に、携帯電話が入っている事に気付いた。
 この携帯電話は、海馬がオレの為に調達してくれた物だった。視覚障害者でも問題無く使えるよう点字が付いていたし、音声機能もバッチリ入っている。
 オレは血で汚れた指先を乱暴にシャツで拭き取ると、胸元から携帯電話を取り出してフリップを開けた。そして、点字と音声案内に従って登録していた短縮ダイヤルを押す。恐る恐る携帯を耳に当てると、海馬は僅か三コールで出てくれた。

『城之内? どうした?』

 いつもと全く変わらない海馬の声のトーンに、何故だかとても安心する。

「ゴメン、急に電話掛けたりして…」
『それは別に構わないが…何かあったのか?』

 オレの様子が少しおかしい事に気付いたらしい。電話の向こうの海馬の声が、少し緊張感を帯びだした。

「あぁ、うん。ちょっと…」
『………』
「あの…さ。今…忙しい?」
『いや、今丁度帰ろうとしていたところだ』
「そりゃ良かった。あのさ、ちょっとウチに来て欲しいんだけど…駄目?」
『お前の家に?』
「うん…。ちょっと…助けて欲しい事があるんだよ」
『………』
「ウチに来たらさ、玄関の鍵は開いてるからそのまま入って来て貰えるか? んで、靴のままで上がって来て貰えるかな? …駄目か?」
『いや、それは構わないが…。城之内、何があった?』
「それはこっち来てから話すから。頼むよ」

 海馬はそれ以上電話で話していても、オレが何も話す気が無いと気付いたらしい。数秒後、小さく溜息を吐くと『分かった。今から向かう』と言って電話を切ってしまった。ツーツーと無機質な音声が流れるのを確認して、オレも通話を切ってフリップを閉じ、携帯電話を元通り胸元にしまう。

「ちょっと…情けないとこ見られるけど…。まぁ、仕方無いよな」

 誰もいない部屋の中で、オレは一人で苦笑した。



 十数分後、約束通り海馬はオレの家に来てくれた。
 外に高級なリムジンが駐まった音と、そして団地の階段を上がってくる足音が耳に入ってくる。それが海馬の足音だなんて事は、今のオレにはすぐに分かった。
 海馬は玄関の扉を開け、オレに言われた通り靴のまま上がり込み、そして台所の入り口で佇んでいるオレを発見して盛大な溜息を吐いた。どうやら一発で、何が起こったのか把握したらしい。

「なるほどな…」

 呆れたような声でそう言って、上着を脱いで椅子の背に掛け、そしてすぐにその場にしゃがみ込んだ。カチャカチャとガラスの破片が触れ合う音が聞こえてくる。

「ゴメンな。その…こんなのいつもの事なんだけど、今のオレは目が見えないからさ…。何処に破片が落ちてるのか分からなくて…ちょっと怖かったんだ」
「あぁ、それは分かっている。拾ってやるからその場でじっとしていろ。一歩も動くなよ」
「うん」
「………」
「あ。手、気を付けてくれよ? 切ったりするなよ?」
「大丈夫だ。心配するな」
「…ありがとう」
「礼はいい。それよりも掃除機はどこだ?」
「玄関脇の納戸の中」
「分かった」

 そう言うと、海馬は実に手際よくガラスの破片を集め、冷蔵庫の脇に積んであった新聞紙に包んで捨ててしまった。さらに掃除機を持って来て、細かいガラスの破片も全部綺麗に掃除してしまう。チャリチャリとガラスの細かい破片が、掃除機の管の中を通っていく音が耳に入って来て漸く安心する事が出来た。
 やがて砕けたガラスを全て綺麗に掃除してしまった海馬は、一旦玄関に戻り靴を脱いで、今度は自分の靴で汚れてしまった部分をざっと掃除し始めた。オレがいいって言ったんだから、そんな事気にしなくてもいいのにな。そんな事を思っていたら、今度は腕を引かれて台所の椅子に座らされてしまう。一度綺麗に洗ってきた冷たい手で前髪を掻き上げられて、ちょっとゾワッと背筋に震えが走った。

「な、何…?」
「何では無い。貴様、怪我をしているだろう。血が出ている」
「う、うん…。さっきコップをぶつけられて…」
「もう血が固まっているな。救急箱はどこだ?」
「電話台の下」
「少し待っていろ」

 海馬はそう言って、オレが言った場所から救急箱を取って来た。箱を開けてゴソゴソと何かを取り出している。辺りにツンと漂って来た匂いで、コットンに消毒液を染み込ませている事が分かった。

「少し滲みるぞ」
「大丈夫」

 海馬の言葉に大人しく身を任せると、海馬は至極優しい手付きでオレの傷口を拭い始めた。確かに少し滲みたけど、コレくらいの傷は日常茶飯じだったからどうって事無い。ただ黙って、海馬の治療を受けていた。

「額を切っていたから思ったより出血していたが、大した事は無いな。これなら病院に行かなくても大丈夫だ」
「うん、ありがと。絆創膏貼っておけばいいから」
「そうだな」

 言われた通りにオレの額に絆創膏を貼りながら、海馬は何かを言いたそうにしている。そういやオレ、さっきの電話でこっちに来たら理由を話すって言ったっけか。仕方無く、自分からこうなった訳を話す事にする。

「今日、仕事から帰って来たら、珍しく親父が家にいてな」
「………」

 オレの言葉に海馬は何も応えない。どうやら完全に話を聞く体勢に入ったようだ。
 海馬は、オレと親父がどういう関係なのかという事については、もう知っている。恋人として付き合う事が決まってから、入院中に自分家の現状をちゃんと話していたからだ。その前提があるからこそ、オレも安心して話を進める事が出来た。

「オレが事故に遭ってからというものの、ずっと真面目に働いてたし酒もやめてたんだけど…。やっぱり駄目だったみたいだ。帰ったらもう泥酔状態で、金出せって怒鳴ってさぁ…。オレが拒否したら、コップ投げ付けてきてこのザマだ」
「………」
「オマケに、オレが貯金してた通帳も持っていかれたっぽいし。まぁ、判子は常に持ち歩いてるから持っていかれて無いし、暗証番号も知らないから大丈夫だと思うけどな」
「通帳…?」
「うん。オレが家庭用とは別に貯金してた奴でね。六万ちょっと入ってる奴なんだ」
「それは、これの事か?」

 ふと、オレの言葉に海馬が反応し、テーブルの上から何かを持ち上げてオレの手の上に載せてくれる。顔を近付けてよく見ると、それは間違い無くオレの通帳だった。

「あぁ! そう、これだ! これ、オレの通帳だ!!」
「テーブルの上に置きっ放しになっていたぞ」
「親父…持って行かなかったのか…」

 あんなに金くれと騒いでいたのに…。
 この通帳を置いていったのは判子と暗証番号が分からなかったからなのか、それとも泥酔した頭に残った最後の良心だったのだろうか。どっちが真実かは分からないけど…でもオレは、どうしても後者の方に考えられてならなかった。

「なぁ…海馬」
「何だ?」
「親父も…どうしたらいいのか分からないのかなぁ?」
「オレは貴様の親父では無いから、それは分からん。だが、戸惑っている事は確かだろうな」
「だよな…」
「………」
「海馬…。オレ…な、自分の治療に目処が付くまでは、この家離れようと思ってるんだ。お前は…どう思う?」
「どう思うとは?」
「こんなオレなんかが、目の見えない状態で一人暮らし出来るのかなって事」
「最終的に決めるのはお前自身だが、オレは特に問題無いと思うぞ。大体にして、今までだって一人暮らししていたも同然では無いか」
「あはは。それは確かにそうだ」
「………そうだな。少し父親と離れるのは…必要かもしれないな」
「うん。応援してくれる?」
「当然だ」
「それはどうして?」
「貴様はどう言って欲しいのだ?」

 そんな事、言わなくたって分かってる癖に。
 海馬はそんなオレの気持ちを汲み取ってくれたのか、そっとオレの事を抱き寄せてくれた。そして軽く唇を合わせてくれる。その行為にささくれ立っていたオレの心はすっかり穏やかになって、心から安心する事が出来たんだ。



 親父の事は嫌いじゃ無い。色々困った事はあるけど、自分の親として心配しているし、何よりも…やっぱり好きなんだと思う。それでもどうしても、近くにいたらお互いが駄目になるって事もあるんだろう。そして今がまさにその時なんだろうな…と思った。
 暫くは、親父と離れて暮らす。そしてお互いに自立出来た時に、もう一度一緒に住めればいいなと…そう思ったんだ。



 それから一ヶ月後。オレはマッサージ医院の程近くに運良く単身者用のバリアフリーマンションを見付け、そこに引っ越す事にした。
 後押ししてくれた海馬に感謝しつつ、影ながら支えてくれる恋人への愛を深めていくのだった。