晩秋の午後。風も穏やかだったので、今日も海馬と共に病院の中庭に遊びに来ていた。
オレの手には暖かい缶珈琲。ついこの間まではパックのフルーツジュースを買っていたけど、流石に最近は寒くなって来て、オレも海馬と同じ缶珈琲に切り替えた。温かい珈琲を両手で持って、はぁー…と大きく息を吐き出す。深まってきた秋の冷たい空気が、とても気持ち良かった。
でもこうやって外でお茶をするのも、もう少しで終わりだ。
それは、冬が来れば寒くて表に出られないからとかそういう訳じゃ無い。そうじゃなくて…オレの一時退院が決まったからだ。とりあえず今の症状が落ち着くまでは、家に帰って普通に生活してて良いらしい。勿論通院は続けて、頃合いを見て再手術をするという話になった。
「次に手術をする時は、もう少し見えるようになるからね。それまで頑張って」
優しく、そして強くそう言う主治医の言葉に頷いて、オレは希望を持つ事にした。
希望は持ったが…視力が回復するまでの生活に不安が無い訳じゃ無い。むしろ、病院の外で上手く生きていけるのかって事に対しては、日に日に不安が増していっている。そしてその不安は、どうやら海馬も持っているらしい。なかなか口には出さないけど、オレを心配している海馬の気持ちが真っ直ぐに伝わってくる。
そしてこの日…遂に海馬はその不安を吐露した。
「城之内…。お前、退院したらどうするつもりだ?」
ベンチで隣同士に腰掛けて、海馬は低い声でオレに尋ねて来る。
「どうするって…どういう事?」
「色々あるだろう? 学校とか…仕事の事とか…」
「あぁ、そうだな」
「ずっとアルバイトとかしていたのだろう? だがもうその目では…」
「出来無いな。今までやってたバイトは、全部辞めるしかないなぁ…」
「学校は…?」
「………」
「学校は…どうするのだ…」
海馬の質問にオレは少し動きを止めて、そしてふぅー…と大きく嘆息した。それは、オレもずっと悩んでいた事だった。
学校は好きだ。やさぐれて、全てに対して牙を剥いていたオレに生きる意味を与えてくれた場所。大事な友人と出会えて、オレが自分らしさという物を取り戻した場所でもある。勉強はちょっと面倒臭かったけど、友達と馬鹿騒ぎするのも、一緒に昼飯食べるのも、真剣にお互いの悩みを相談し合ったりした事も、たまにある大きな行事を真剣に楽しんだ事も、全てが本当に楽しかった。楽しくて、何より人を想うという一番大切な事に気付かせてくれた場所でもあった。
そう、あの学校に行っていなかったら、オレは海馬とは出会えなかったんだ。海馬と出会って、嫌って憎んで、許して憧れて…そして恋をした。想いが届くのは無理だと諦めて、それでも黙っている事だけは出来無くて、勇気を出して告白した。
その結果…海馬は今、オレの隣にいてくれている。それは凄く予想外で、そして何よりとても嬉しい事だった。だけれども…オレはその大切な出会いを与えてくれた学校を、こんな不本意な形で失おうとしている。それが何よりも悲しくて…悔しかった。
「今は…一応休学してる」
「………」
「でもそれも…中退しといた方がいいかなって思い始めてる」
「………」
オレの言葉に、海馬は何も返答しなかった。その代わりに隣からカシュッ…と、缶珈琲のプルタブが開けられる音が響いたのに気付いた。秋の冷たい風に乗って流れてくるその香りは、昨日までの珈琲の香りとは少し違う。それを意外に思って、クスリと笑って口を開いた。
「海馬…それ、メーカー変えたのか?」
「えっ…?」
「香りが少し違う。缶の色が似てたから気付かなかったけど」
「………」
「あれ? 間違ってた?」
「………。あ…いや、間違ってはいない。いつものが売り切れていて無かったのだ。だから、別のメーカーのを買ったのだが…」
海馬は顔を完全にこっちに向けて、辿々しく言葉を放った。オレの目には相変わらずのっぺらぼう状態にしか映らないから、今海馬が一体どんな表情をしているのかは分からない。ただ、纏っている空気を感じ取るに、オレの一言に随分と驚いているらしいという事は分かった。
事故で視力を無くした所為で、オレが失った物はとても多い。その代わり、得た物も多かった。
まず匂いに敏感になった。元々嗅覚は犬並みに優れていると自他共に自覚してたんだけど、それが更に強くなったみたいだ。
ある日、いつものように中庭でノンビリしている時に、オレは唐突に雨の気配を感じた。クンと鼻を啜って、空から落ちる水滴が地面で巻き上げる土埃の匂いを嗅ぎ取る。
「海馬、雨が降る」
そう言うと、海馬は「まさか」と反論して来た。
その時の海馬の言葉によると、空は実に綺麗に晴れ渡っていたらしい。今のオレの視力じゃ光が飽和して、空が青空なのか曇り空なのかはハッキリ判別出来無かったんだけど、雨の匂いが段々と強くなって来ている事には確実に気付いていた。
オレの言葉に半信半疑の海馬を連れて、無理矢理病室に戻ってみれば、それから少し経って雨が降り始めた。それが、海馬がオレの新たな能力に驚く第一弾となった。
また、それと同時に触感も敏感になってきた。海馬が人の病室にまで持って来ていた資料に何気なく触れた時に、その内の数枚の紙質が違う事に気付いた。その事を指摘してみたら、海馬は今みたいに物凄く驚いていた。昔のオレじゃ絶対分からない違いだったんだと思う。
それから聴覚。普通の人にはまだ何も聞こえていない状況なのに、オレは廊下の向こうから歩いて来るモクバの存在に気付いていた。
オレの病室があるこの階に止まったエレベーター。そこからズンズンと歩き出す子供の足音と…まだ小さな歩幅。迷い無く真っ直ぐにこちらに向かってくるその気配に、オレは側で資料を読んでいた海馬に「モクバが来たぜ」と教えてあげた。
「は? 何を言っているんだ貴様は」
その時の海馬は、オレの言葉を真っ向から否定して信じなかった。
「今日はモクバは学校行事で遅くなると言っていた。そしてそのまま会社に寄るとも…。今日、こっちに立ち寄る暇は無い筈だ」
「でも、モクバの足音が聞こえるぜ?」
「目が悪くなって幻聴まで聞え始めたのか…貴様は…」
呆れたように嘆息した海馬は、だけど次の瞬間背後から突然現れた自分の弟に心底ビックリする羽目になった。その時はたまたま学校行事が早く終わったモクバが、空き時間を利用してオレの見舞いに来てくれただけだったんだけどな。
そんな事件があってからというもの、海馬はオレの感覚が以前よりずっと鋭くなった事を認識し始めたらしい。
海馬は持っていた缶珈琲に口を付けて、ふぅー…と暖かい吐息を零した。そして随分と柔らかい声で、オレに話しかけてくる。
「正直…感心した」
「何を?」
「お前の感覚が鋭くなっている事に関してだ」
「あぁ、その事か」
本当に感心したような海馬の声に、オレは何でも無いように答えてみせる。
最近はそういう感覚的な物の他に、人の気配や纏う空気なんかも読めるようになってきた。オレが海馬の表情が完全に見えないのに、コイツが驚いてるって事を感じ取ったのもその所為だ。視力が使い物にならなくなった事で、他の器官が必死でその穴埋めをしようとしているのが良く分かる。
「先生にも言われたぜ。視覚って、人間が一番頼っている大事な器官なんだと。だからそれが駄目になった時、他の器官が何とかそれを補完しようと躍起になるんだとさ。だから色んな感覚が鋭くなるんだって」
「………そうか」
「なぁ…海馬。オレさ…マッサージ師の勉強がしたい」
「何…?」
「ほら、オレさ。ずっと肉体労働系のアルバイトして来ただろ? だから手も大きいし、握力も凄いあるんだよ。意外と細かい作業も得意だし、この手でマッサージとかしたら完璧じゃね?」
「………それ…は…」
「手術を繰り返していけば、いつか視力が回復して、常人と変わらない生活が出来るようになるのかもしれない。だけどそうなるまでの間も、オレは生きて行かなくちゃいけない。だけどさぁ…お前にも話したけど、ウチの親父は当てにならないんだ。今更離婚した母親を頼るのも嫌だし、何しろ向こうには妹がいる。オレの事まで…迷惑掛けられないよ」
「城之内…」
「だからオレは今まで通り、自分自身の力で生きていく。勿論今のままじゃ駄目だから、その為の勉強がしたいって思ってるんだ」
「それで…?」
「ん? それでって?」
「それで…学校は…童実野高校は辞めてしまうのか…?」
少し…いやかなり寂しそうな海馬の声に、オレは自分の心臓がドキリと跳ね上がる音を聞いた。
どういう事なんだろう…この反応は。これではまるで…海馬がオレに高校を辞めて欲しく無いと思っているみたいじゃないか…。
「海馬…お前…」
「城之内、オレはな…。オレは、お前が一人で生きて行く為の勉強をしたいと思うのは良い事だと思っているし、出来る事ならその協力も惜しみなくしたいと思っている」
「海…馬…?」
「けれど、高校を中退するという事だけは…賛成出来無い。何年かかってもいいから、あの学校は卒業しておくべきだ」
淡々と続けられる言葉に、オレは思わずゴクリと喉を鳴らした。
分かっている。海馬の言いたい事はよく分かっている。オレだってあの学校を辞めたくなんてないよ。出来る事ならちゃんと卒業したい。でもこんな状態になってしまって…オレにどうしろって言うんだ。
「お前の言いたい事は分かるけど…それは無理だ」
「何故だ?」
「いつか視力が戻るとは言っても、それが何年後になるかは分からない。ましてや何とか戻ったとしても、オレの知っている奴は一人もいないんだ。そんなところに戻っても…」
「オレがいる」
「………は?」
「オレも休学してずっと待っている。だから一緒に高校を卒業しよう」
「お前も休学って…はああああっ!?」
随分とはっきり伝えられた海馬の言葉が信じられなくて、オレは思わず大きな声を出してしまった。
休学? 休学って…コイツは一体何を言っているんだ!
お前は海馬コーポレーションの社長だろ!? 何の問題も無いのに休学して卒業を見送りだなんて…そんな事許される筈が無い!
「何言ってんだ! そんな事…していい筈無いだろ!?」
「ん? 何故だ?」
完全に焦ったオレに対して、海馬はまるで何処吹く風とでも言うように飄々としている。
「何故だ? じゃねーよ!! お前は海馬コーポレーションの社長なんだろ!?」
「そうだが?」
「疑問符で返すなよ。そうだが? じゃないっての! お前はちゃんと高校を卒業して、その後何か有名な大学か何かに入らなきゃいけないんじゃないのか? 学歴とか必要なんだろ?」
「いや? 特には必要としていないが」
「だからお前はオレの事なんて気にせずにちゃんと高校を卒業して…って、え? お前…今何つった?」
「学歴の事か? 特には必要としていないと言った」
「な、何で…?」
「何故と言われてもな。学ぶべき物は全て学んでしまったからとしか、言いようが無い。それに学歴という物は、これからそれを頼りに社会で這い上がっていきたい者が必要とする物だ。既に社長の座に納まっているオレには、全く必要が無い」
「そ…それはそうだけどさぁ…。じゃあ何で高校入学したんだよ。しかもあんな…偏差値が底辺の高校なんかに」
「モクバに行けと言われたからだ」
「モクバに…?」
「そう。普通の学校生活を体験しておく事も大切だと言われてな。あの頃のオレはその重要性を何一つ分かっていなかったが、今になってみれば分かる。確かに貴重で重要な体験ばかりだった…」
「………」
「だからオレは、特に学歴に拘っている訳では無い。必要な知識はもう完璧に備えているから、わざわざ大学に行く必要も無いしな。だがあの高校は…確かに楽しかった。出来ればちゃんと卒業したいと思っている。出来れば…お前と一緒に」
「………海馬…」
「そういう訳で、オレは待つ事に決めたのだ。お前が戻ってくるまで、オレも休学して待っている。学校には仕事が忙しくなったとか理由を付ければ、誰も怪しんだりはしないだろう。そういう意味では元から不真面目な生徒だったからな」
そう言って海馬は…フッとおかしそうに吐息を漏らした。多分その顔はニヤリと笑っているんだろう。
今のオレの目には、残念ながらその顔は見えない。だけど海馬が、自分が出した結論に至極満足している事だけはしっかりと伝わって来た。そしてその意志を変えるつもりが全く無い事も、一緒に伝わってくる。
そう言えばこいつは、昔から頑固な奴だったんだよな。自分がこうと決めたら、それを貫き通さないと満足しないんだ。多分オレやモクバがどんなに言っても、この結論が覆される事は無いだろう。それこそ永久に。
だったら…オレがそれを受け入れるしか無いじゃないか。
「分かった。じゃあ退学はやめる。休学のままにしとくよ」
両手を挙げて降参のポーズをし、オレは渋々といった感じでそう呟いた。海馬はオレのその言葉に満足したようで、コクリと頷いて「あぁ」と嬉しそうに答える。
くそっ…。視力が効かなくなるってのは、なかなか厄介だな。普段は上手に隠しているであろう海馬の気配が、全部駄々漏れで分かってしまう。他の人から見たら大した事の無い言動の一つ一つから、オレに対する愛情が溢れ出て来ているんだ。
あーもう…どうしよう。そんなに愛されたら、照れるじゃんか!!
「馬鹿だな…お前。オレ以上の馬鹿だ」
「そうだな。馬鹿なお前を好きになった時点で、オレも馬鹿なのかも知れないな」
「馬鹿!! そんな事を、そんな風に嬉しそうに言うんじゃねぇよ!」
「は? オレがいつ嬉しそうになんてしたのだ?」
「あーはいはい。分かって無いなら、もういいです!」
そう言ってオレは、照れ隠しに隣にいた海馬の身体を強く抱き締めた。この間と違って中庭には何人かの人がいたから、海馬は物凄く焦ってる。それは伝わって来たけど、そんな事知ったこっちゃねぇや。
オレをこんなに照れさせた責任を取りやがれ!!
それは、オレが一時退院をする三日前の出来事だった。