*光と闇の狭間でシリーズ - 仄かな光の中へ… - Episode1

 その事故は、余りに突然の出来事だった。



 オレが居眠り運転のトラックとぶつかったのは、早朝の新聞配達の時だった。一応自分が担当している家の分は全部配り終わって、後は自転車を漕いで販売所に帰るだけだったんだけどな。急に横道から猛スピードのトラックが出て来て、オレはそれを避けきれなかった。
 自転車ごとぽーんと簡単に撥ね飛ばされて、地面に投げ出された。目に入ってきた朝焼けの空が、凄く綺麗だった事だけ覚えている。
 そこから先は記憶が無いけど、どうやらオレはアスファルトに投げ出されて頭を強く打ったらしい。意識を取り戻した時は既に病院で、事故の連絡を聞いてすぐに駆け付けて、ずっと付き添ってくれてた静香から「お兄ちゃんは半月も意識不明だったのよ」と泣いて教えられた。
 静香が泣いてたってのは、直接オレがその涙を見たからじゃない。可愛い声が涙声になってたのと、鼻を啜る音からそう判断しただけだ。

 ………というのも、その時のオレの目にはしっかりと包帯が巻かれていて、何も見る事が出来無かったからだ。

 医者の話によると、アスファルトに投げ出された時の頭の打ち所が悪かったらしい。視神経に直結しているところに血栓が出来て、その所為で視力が失われたと教えられた。ただ視神経が直接ぶった切られた訳じゃ無いので、手術をすればある程度の視力は回復するらしい。ただし一気に手術する事は出来無いので、何年か掛けて少しずつ何回もしないと駄目だという話を聞かされた。元の視力に戻る事は出来無いけど、最終的には厚めのレンズの眼鏡を掛ければ常人と変わらない生活が出来ると、医者は自信を持って言っていた。
 勿論、その状態になるのはすぐじゃない。何回か手術しないといけないのは分かっているから、多分数年後の話だろう。当たり前のようだけど、その数年の間もオレは生きて行かなくちゃいけない訳で、取り敢えず目が見えない状態でのリハビリをする事になった。
 怪我が治るまではベッドの上で点字の勉強をし、歩けるようになってからは病院の廊下や階段を白状を使って一人で歩く練習をした。そうやって必死に頑張っているオレを見る度に、静香は「お兄ちゃんは強いんだね」と感動してくれていた。
 静香も同じような苦しみを体験した事がある。事故で怪我したオレとは違って、静香の場合は病気だったけど。でもきっと、感じている苦しみは今のオレと全く同じだった筈だ。だからこそ「強いんだね」と称賛してくれるんだろう。
 確かにオレは、妹に比べれば精神的に強く出来ているんだと思う。でも、自分の視力を失われた事実に対して、全くショックを受けなかった訳じゃ無い。ショックはショックだった。だけど…生きて行く事を諦めたく無かった。ただそれだけだった。

 頭を打って目を悪くした事は、もう仕方が無い。どんなに悔やんだって時間は戻らないんだから。

 幸い、オレを撥ね飛ばしたトラックの運転手さんは凄くいい人だった。若い兄ちゃんだったんだけど、連日の辛い業務で疲れが溜まって、ついに居眠り運転をしてしまったんだそうだ。オレがその場に居合わせた事は、本当に不幸な出来事だったと思っている。
 運転手の兄ちゃんは誠心誠意謝ってくれて、治療費や入院費などを全額負担してくれる事になった。ちなみにオレもちゃんと生命保険に入っていたから、運転手の兄ちゃんが破産するような事にはならなかったけどな。
 このいい兄ちゃんがウチみたいな借金塗れになったらどうしようと、かなり心配した事は秘密だ。



 こうしてオレは、暫く病院で生活をする事になった。そして大分体力を戻した一ヶ月後、一回目の視力回復の為の手術が行なわれる事になった。
 手術は無事成功して、オレは光を取り戻した。言葉通り本当に光を取り戻しただけだったけど、オレは本気で嬉しかった。真っ暗な闇の中から光が戻った嬉しさは、同じ経験をした奴じゃないと分からないと思う。
 この手術によって、オレは光と影の区別が出来るようになった。人や物の形もボンヤリと分かるし、着ている服の色なんかも判別出来る。ただ、人の顔の判別だけは出来無い。顔がどこら辺にあるのかって事は分かっても、目や鼻や口が何処にくっ付いているのかって事は見えないから全く分からない。分かりやすく言えば、ただののっぺらぼう状態だって事だ。
 今の視力で誰かの顔をしっかり見ようと思ったら、それこそ鼻先がくっ付くまで近付いて見ないと分からないと思う。そんな事は勿論しないけど、ていうかしたくないけどな。静香ならまだしも、男の医者とそんなに顔を近付けたくは無い。
 そこまで考えて、オレは鼻先がくっ付くくらいにまで顔を近付けても、しっかりと顔を見たい奴がいるという事を思い出した。



 オレがソイツに…海馬に告白したのは、オレが事故に遭う一月程前の事だ。
 放課後の学校の屋上で、たまたま補習に来ていた海馬を連れ出して「好きだ」と告白した。海馬は…ただ目を丸くして驚いているだけで、何も反応して来なかった。

『海馬…オレ、お前の事が好きだ。ずっとずっと好きだったんだ』
『………』
『オレ、お前の笑顔が見たいんだよ。オレにだけ向けられる、優しい笑顔が見てみたい』
『………。城之内…オレは…』
『海馬?』
『オレには…よく分からない。余りに急過ぎて…』
『うん。驚いて何も出て来ないってのは分かってる。でもいつか…返事が欲しい。イエスでもノーでも何でも』
『少し…時間を貰ってもいいか…?』
『うん、いいよ。ゆっくり考えて答えを出してよ。オレ待ってるからさ』

 屋上の風に栗色の髪を揺らしながら、海馬は澄んだ青い瞳で真っ直ぐにオレの事を見ていた。そして一つだけ、コクリと頷いて答えた。背後に広がる真っ青な空と相まって、その姿がとても美しかった事を覚えている。
 海馬とそういう会話をしたのが、つい昨日の事のように思えた。実際はもう二ヶ月以上経っているけどな。事故に遭ってからは学校にも行ってないし、勿論海馬が他の友達のように見舞いに来てくれる筈が無い。オレは海馬の事を鮮明に覚えているけど、海馬はもうオレの告白の事なんて忘れている可能性が高かった。
 でも、オレはそれでも構わなかった。勇気を持ってあの海馬に自分の気持ちを伝えられた事…それだけでもう充分だった。それに多分、オレの見たい物は暫く見られないだろう。一生は無いかもしれないけど、少なくても後数年は無理だ。
 いや、数年なんてものじゃない。きっと…多分…一生見られない。だってオレが見たいのは、オレにだけに向けられる海馬の優しい笑顔なんだから。それは海馬がオレの想いを受け止めてくれないと絶対無理な話なんだ。
 だからいい加減この恋を諦めないとな…。と、そんな事を思いながら、オレは今日も自主的にリハビリに励んでいた。



 オレが入院しているこの病院には、本館と別館がある。その二つの建物を結ぶ為の渡り廊下が、何本か繋げてあった。本館と別館が建てられている土地の都合上、実は別館の方が若干低い構造になっている。なのでその渡り廊下には、別館側の方に五~六段くらいの階段が付いていた。この五~六段の階段が、オレに取っては段差の練習をするのに最適の場所となっていた。
 普通の階段だと失敗した時が怖い。下まで一気に転げ落ちるからだ。でもこのくらいの階段だったら、例え足を踏み外しても怖く無い。大した怪我にはならないし、運が悪くてもちょっと足首を捻るくらいのもんだ。それに渡り廊下はとても明るい。一面がガラス窓になっている為、弱視になったオレにも光と影が織りなす陰影がよく見えて安心出来た。更に色んな先生や看護師さんがよく利用する場所である為、万が一オレが倒れてても、すぐに見付けて貰えるだろうという利点がある。そういう理由で、オレはこの渡り廊下を練習場としてよく使っていた。
 今日もそのつもりで、この渡り廊下に来ていた。数段先の階段に、白状の先を当てて段差を確かめる。そこに階段がある事を確認してから、杖の先が当たっている段差の上に足を載せる。これで漸く一歩上がった事になるんだ。
 慣れればもっと早く上れるんだろうけど、今のオレはまだおっかなびっくりだから、ゆっくりとしか出来無い。でもどんなに怖がってても、退院したら何でも一人でやらないといけなくなる。諦める訳にはいかなかった。それに完全に盲目になった訳じゃ無いから、慣れてしまえばどうって事無いだろう。
 杖の先を階段に沿わせて、もう一段上がる。上手くいったからもう一段。最後まで上がったら、今度は下りの練習だ。そう思ってふと前を見たら、渡り廊下の向こうから人が一人歩いて来るのが見えた。
 渡り廊下の窓と見比べると、大分背が高い。上下に白い服を着ている。一瞬白衣かと思ったけど、歩いているのに裾がひらめいていないから、丈が短い服だ。多分医者じゃなくて男の看護師なんだろう。
 どんどんこっちに歩いて来るその人を邪魔しないように、端の方に寄って今度は階段を下る為に振り返ろうとする。そしたら予想外の段差に足を取られて、身体がぐらりと蹌踉めいた。

 うわっ! しまった! もう一段あった!!

 そう思っても時既に遅く、オレの身体は完全にバランスを失っていた。そのまま背後に倒れ込むのを覚悟して、せめて頭だけは…と受け身の体勢を取ろうとする。すると突然、腕を強く掴まれて身体が引き戻された。驚いて視線を戻せば、さっきの看護師が目の前にいた。オレが倒れそうなのに気付いて助けてくれたんだと気付く。

「あ、ありがとうございます…。助かりました」

 ニッコリ笑ってそう言っても、看護師は何も言わない。ただ、オレの腕を掴んでいる手がブルブルと細かく震えていた。
 余りにも強く掴まれている為に腕が痛くて、流石に訝しく思ったオレは目の前の人物をマジマジと見詰めてみた。だけどどんなに頑張って見詰めても、その人の顔はのっぺらぼうだ。ただ、渡り廊下の窓から差込む陽の光に透ける栗色の髪がとても綺麗だった。
 瞬間…オレの鼻孔が何かを捉える。フワリとした…とても良い香り。オレはこの香りをよく知っていた。だってそれは、オレが一番好きな人が身に着けている香りだったから。
 まさか…っ! と思った。だってまさか、アイツがこんなところに来る筈が無い。だってだって、こんな病院になんて何の用事も無い筈だろう? だけど…でも…っ!!

「海…馬…? まさか…海馬なのか…!?」
「城之内…っ」

 オレの名を呼ぶソイツの…海馬の声は、動揺してとても震えていた。



 実はこの病院の二階には、ちょっとした中庭が作られている。併設している薬局の屋上に作られた中庭で、誰でも自由に利用出来るようになっていた。芝生や樹木や様々な植物が植えられていて、あちらこちらに休憩用のベンチがある。病院関係者や通院している人、外を散歩出来る患者や見舞いに来た家族や友人など、誰でも自由に散策出来るようになっていた。
 随分とゆっくり歩いていって、オレは海馬をそこに連れ出した。外の空気に触れられるそこは、オレのお気に入りの場所でもあったから。
 中庭に通じるドアのところで、自販機から飲み物を買ってから外に出る事にする。着ていた上着のポケットを探って、オレは財布を忘れて来た事に気付いた。

「あ、ゴメン。財布病室だ」

 そう言ったら、海馬がただ一言「いい。オレが買ってやる」と言って何やら胸元を探っていた。
 オレが看護師が着ている白衣だと思っていたものは、どうやら上下が白いスーツだったようだ。海馬は胸元から小銭入れを出すと、そこから何枚か小銭を取り出していたようだった。海馬と小銭という組み合わせが似合わなくて、ついプッと吹き出してしまう。

「何だ?」

 訝しげに尋ねて来る声に、オレは慌てて「いやいや」と訂正した。

「まさかお前が小銭入れを持っているとは思わなかった。だって基本、カードとかだろ? あと小切手とか…」
「馬鹿にするな。オレだって小銭入れくらいは持っている。特にこういう場所は、まだ電子マネーが行き渡っていないだろう?」

 海馬の言い分に、なるほどと感心した。
 結局その場は海馬の奢りで、オレはパックジュースのフルーツオレを買って貰った。音で判断するしか無いけど、どうやら海馬は缶珈琲を買ったらしい。そして飲み物を持って、ゆっくりと中庭を進んで行った。
 本当は、この機会を逃さずにどさくさに紛れて海馬の腕を掴んでやろうと思っていた。別に何かいやらしい事をしようとしてる訳じゃ無くて、静香とこの中庭に来る時はいつもそうやって腕を貸して貰っているから、それと同じ事をしようとしただけだ。そうすれば何の不自然も無く、コイツに触れる事が出来ると…ただそれだけだった。
 だけど、伸ばしかけた手を引っ込めて止めておいた。
 海馬がこの病院に…オレに会いに来た理由なんて、たった一つだけだ。それはこの間の告白の返事をする為だ。色良い返事は…はっきり言って期待出来無いだろう。ただでさえ男同士で、更に元々仲が悪くて、オマケに視力を失った男の想いなんて受け入れられる筈が無い。
 それに…オレと海馬を結んでいた、M&Wという唯一の共通事項さえオレは諦めなければならなくなったのだから。
 視力が格段に落ちた今のオレには、カードに何が書かれているのかが全く分からない。説明文も…大きく描かれている絵柄でさえ判別出来無いんだ。そんな状態でデュエリストを続ける訳にはいかなかった。
 だから覚悟しようと思った。どんな言葉で罵られようと拒否されようと、ただじっと我慢して全てを受け入れようと思った。

「ここでいい?」

 中庭の丁度日が当たって気持ち良い場所のベンチが、一つだけ空いていた。返事を聞かないでそこに腰掛けると、海馬も黙ってオレの隣に腰を下ろして来た。早速持って来たパックジュースのストローを外して、袋から取り出す。落とさないように気を付けてストローの差し込み口を指先で確かめて、そこにプスッと差込んだ。
 その一連の動作を、海馬がじっと見ている気配が伝わってくる。何だか妙に緊張しながら、オレはストローを口に銜えて中のジュースを吸い上げた。

「うん、美味しい。オレ、これ好きなんだ」
「そうか…」

 オレが明るくそう言うと、海馬が漸く声を出した。そしてカシュッと音を立ててプルタブを開ける。ふんわりと漂って来た珈琲の香りで、オレは自分の予想が外れてない事を知って何だか嬉しくなった。

「あ、やっぱ缶珈琲だったな」
「何?」
「何買ってるかよく分からなかったんだ。でも多分缶珈琲だろうなって思ってたから、当たってて嬉しかった」
「………」

 オレの言葉に海馬が黙り込む。顔の表情はのっぺらぼう状態で見えないから雰囲気で予測するしか無いけど、どうやら随分と困惑しているらしい。オレは暗くならないように、なるべく明るい声で口を開いた。

「今日はどうした? この病院に何か用事でもあったのか?」
「………用事があるから来たのだろうが」
「まさかオレの見舞いに来てくれたとか…そういう事?」
「そうだ」

 そうだ、とはっきり言われてちょっと驚いた。まさか本当にオレの見舞いに来てくれたとはな…。

「オレの事故の事…どうやって知ったの?」
「新聞にしっかり出ていたぞ。後は遊戯からだな」
「そっか」
「モクバも今度見舞いに来ると言っていたぞ」
「それは嬉しいな。待ってるからって伝えてくれよ」
「あぁ」

 海馬は何だか言葉を選んで喋っている。目が役に立たなくなった分、何故だかそういう事がよく分かるようになっていた。人の心の動きとか雰囲気とかが、凄く敏感に伝わってくるんだ。
 待ってたらいつまで経っても話が進まなさそうなので、ちょっとオレから切り出して見る。

「なぁ、海馬。オレの怪我の事…どこまで聞いてる?」
「っ………」

 オレの質問に海馬が一瞬言葉に詰まる。だけど次の瞬間には、いつも通りの声で答えていた。

「ある程度は…。頭を打って、視力を無くしたらしいな」
「うん。幸い全盲状態にはならなかったし、この後何回か手術すればそれなりに視力を取り戻す事が可能みたいだ」
「そうか」
「ただ今はまだちょっと…見えない感じかな。光と影の区別は出来るけど、人とか物とか…微妙だし。特に人の場合、顔の表情が全く見えないからなぁ…」
「全く…?」
「そう、全く。今の海馬ものっぺらぼう状態だぜ?」
「こんなに近くにいるのにか…?」
「うん」

 素直に頷くと、海馬はまた黙ってしまった。
 何だろう…。何だかとてもショックを受けているようだ。本当にオレを振るつもりなら、興味も何も無い男の視力の事でこんなにショックを受ける筈は無い。だけど、海馬の気持ちの動揺は、そんな簡単な物じゃ無かった。隣にいるオレには痛い程伝わってくる。

「あのさ、海馬」
「………何だ」
「お前もしかしてさぁ…。この間の告白の返事をしに来てくれたんじゃねぇの?」

 オレの問い掛けに海馬は何も言わない。だけどふと、空気が動いたのが伝わって来た。
 間違い無い。今の空気の動きは、海馬が頷いたから感じられたんだ。

「断わってもいいよ。オレは覚悟してる」
「………」
「何も言わなくていいよ。だけど一つだけお願いがある」
「何だ…?」
「お前の顔をよく見せてくれ。お前の顔の表情で…その返事が知りたい」

 そう言って、オレはそっと自分の掌を海馬の頬に当ててみた。その途端、海馬はビクリと身体を跳ねさせて反応したけど、それでもオレの手が振り払われる事は無かった。

「オレの告白を受け入れられないんなら…いつもの仏頂面のままでいてくれよ。その代わり…オレの気持ちを受け取ってもいいと思ったのなら…笑ってくれ」
「笑う…?」
「そう。オレ、あの時言ったじゃん? お前の笑顔が見たいって。オレにだけ向けられる…優しい笑顔が見たいんだって」
「………っ!」
「だから、もしOKなら笑ってくれ。きっと…オレにも見えるから」

 上手く笑えたかどうかは分からないけど、オレはなるべく穏やかに微笑みながらそんな事を言った。そしてもう片方の手も海馬の頬に当てて、そっとその顔の造形を辿ってみる。
 さらさらの前髪を掻き上げて、滑らかな額を撫でる。そして指先で眉を辿って見た。あれ…? いつもキリリと眉尻が上がっているそれが、何故か下がっているように思えた。それから鼻…。真っ直ぐに綺麗な形の鼻は、いつもと変わらないように思える。そして唇…。柔らかな唇をすっと辿ると、その両脇がくっと上がっている事に気付いた。

 あれ…? あれ…? これってもしかして…っ!

 信じられなくて、もう一度よく触ってみる。でも、何度触ってもその表情は変わらなかった。
 あぁ…見える。ちゃんと見えるよ…。海馬…お前が微笑んでいるのが見える…!!

「海馬…オレ、ちゃんと見えてるよ…!」
「っ………!」
「うん、見える。お前が優しく微笑んでくれてるのがよく見えるよ…! ありがとう…海馬…っ!」
「っ…ぅう…! じ…城之…内…っ!!」

 海馬の頬を包んでいたオレの指先が、何か生温い水分で濡れていく。それが海馬の涙だという事に、気付かない筈は無かった。
 偶然にも、今中庭には自分達の他に人の気配は感じられなかった。ちょっと風が冷たくなって来たから、皆温かい院内に引き返してしまったらしい。だからこれはチャンスなんだと思って、オレはそっと海馬の顔を引き寄せて涙に濡れる頬に唇を押し付けた。塩辛い涙をペロリと舐め取って、今度は逆側の頬へ。同じように涙を舐め取って、未だ涙ぐんでいる瞳にもキスを落として睫を舐める。

「じ、城之内…っ!」

 海馬が狼狽したような声を出したけど、それは無視する事にした。塩辛い涙を飲み込んで、そのまま唇を下げていく。親指の指先でもう一度弾力のある柔らかくて薄い唇を確かめて、その指先を辿るように海馬の唇にキスをした。ちゅっ…と軽い音が鳴るだけのキスを、二度三度と繰り返してゆっくりと顔を離す。
 でも、完全には離さない。鼻先がくっ付くくらいの距離で、じっと海馬の顔を見詰める。相変わらず顔はハッキリとは見えなかったけど、綺麗な青い瞳だけはオレの目にしっかりと映っていた。

「オレ…こんくらいの距離じゃないと、お前の綺麗な青い目も見られないんだ」
「………っ」
「それでもいい? こんなオレでもいいの?」
「あぁ、いい」
「これからも、何度も手術しなくちゃいけないんだぜ」
「だが手術をすれば、視力はある程度は元に戻るのだろう?」
「まぁね。でも失敗すれば…全てがおじゃんだ。今度こそ本当に全盲になる。それでも…」
「構わん!」
「海馬…?」
「城之内。オレはお前という人間を愛したんだ。目が見えるとか見えないとか、そんな事は何も関係が無い!!」

 強い強い言葉だった。海馬の覚悟がそこにあった。それを何よりもオレが一番強く感じていた。

「うん、分かった。ありがとう…っ!!」

 嬉しくて嬉しくて、ただただ感動して、オレは細い海馬の身体をギュッと強く抱き締めた。服越しにコイツの体温がじんわりと伝わって来て、それが何より愛しいと感じていた…。



 視力を失った時、実は物凄くショックで絶望した。それでも生きる事を諦めたく無くて、何とか前向きになろうと努力していた。
 でも、そんなオレが本当の意味で希望を見出したのは、海馬と想いが通じたこの時だったのかもしれない。
 海馬は今、オレの隣にいる。必死にリハビリをするオレを、黙って暖かく見守ってくれている。だからオレは今日も海馬の腕を掴んで、あの中庭に行くんだ。
 パックジュースと缶珈琲を買って、ベンチで二人並んで座って愛を語り合う為に…。