秋も深まって来て、外はピューピューと冷たい北風が吹いている。だが城之内が住んでいるこのマンション内は、外の寒さとは裏腹に今はとても暖かい。それは勿論優秀な暖房器具のお陰もあるのだが、一番の理由はその腕にこの世で一番愛しい人を抱いているからに他ならなかった。
何をするでも無く、ソファーに二人で座り込んでゆるりとした休日を楽しむ。海馬は忙しくてずっと読めなかった本を熟読し、城之内はそんな海馬を抱き締めて、こちらもまた仕事の資料をパラリパラリと捲っていた。
若い頃には全く考えられなかった、非常にゆるやかで幸せな時間がここには流れていた。
「あぁ…暖かいな…」
海馬の読んでいる本が、残り数ページになったのを確認したからだろう。城之内が海馬の薄い肩に顎を置いて、耳元でボソリと呟く。その声に特に驚きもせず、海馬は本のページから視線を外さずに「そうか?」と返事をした。
「日も暮れてきたし、先程よりは冷え込んでいるぞ。暖房の温度を一度上げた方が良いのでは無いか?」
「うーん…それはそうなんだけどさぁ…。オレが言ってるのはそういう事じゃ無くてね」
「オレと引っ付いているから暖かいという事なのだろう?」
「うん、そう。流石付き合いが長いと、考えている事が駄々漏れだね」
淡々と返って来た海馬の言葉に満足して、城之内は海馬の後頭部にスリスリと頬ずりをしてきた。
十一月後半の土曜日。この日は二人にとっては久しぶりに取れた、本格的な休日だった。秋に入り急に忙しくなり、更にクリスマスや正月を控えているこの時期は、毎年のように仕事に追われる日々が続いていた。勿論今年も例外では無かったが、たまにはゆっくりと過ごす休日が必要だと二人がそれぞれ頑張った結果、何とか一日だけ何もしない日を勝ち取る事が出来たのである。
この日が終わり明日が来れば、また仕事に追われる毎日が始まる。従ってこの休日は、城之内と海馬に取って無くてはならない大事な日であった。
城之内の娘の瀬衣名は、気を効かせたのかこの日は友達の家に遊びに行くと言って朝から出掛けて行った。観たかった映画を一緒に見て、食事をして、ショッピングをして、そのまま数人でお泊まり会をすると言う。
そして海馬の息子の克人は、恋人である瀬衣名に入れ知恵されたのか、この日ばかりは父親がする分の仕事も全部請け負うと胸を張って言ったのであった。これが頼りない息子ならば海馬も承知しなかったのであろうが、自分の息子ながら非常に優秀だと認めていたので、「では、御言葉に甘える事にしようか」と任せる事にしたのである。
そして、こうして勝ち取った休日を、二人の父親は朝から至極ゆったりと楽しんでいたのだ。
「若い頃はさぁ…こんな刺激じゃ全然物足りなかったよな。ちょっとでもくっついていたら、絶対セックスしたくなっちゃったもん。でも今はこれで充分だと思うんだ。年食ったなぁーとは思うけど、これはこれで物凄く幸せだから別にいいよな」
「そうだな。では今日は…」
「あ、セックスはしますよ?」
「今さっき、別にいらないと言った癖に」
「これで充分だとは言ったけど、いらないとは言ってません。久しぶりなんだから、ちゃんと相手してくれよー」
「分かった分かった。だからそんなに拗ねるな」
わざとらしく唇を突き出して不満そうな声を出した城之内に、海馬はクスクスと笑って擦り寄る金色の頭を優しく撫でた。この対応も若い頃には絶対有り得ない反応だった。
無我夢中で恋愛をしていた学生時代。城之内がこんな風に擦り寄って来たりしようものなら、海馬は邪魔だと言わんばっかりに心底嫌そうにその身体を押し返していた。そんな海馬の反応に城之内もムキになり、嫌がる海馬を無理矢理その場で押し倒してそのまま行為に及ぶ…と言った光景は、それこそ日常茶飯事だったのである。
幸せな恋人同士の筈なのに、決して幸せを感じる事の無いセックス。まだ若く経験も浅かった彼等は、そんな事でしかお互いの愛を確かめられなかった。そんな二人が、別れるという最悪の結末を迎えてしまったのは…もしかしたら必然だったのかもしれない。
けれど、今は違う。今は…城之内も海馬も、二人とも相手を愛するという事がどういう事か良く知っている。わざわざ口に出さなくてもお互いがそれを感じているからこそ、四十を超えた二人は絶対に解ける事の無い固い絆で結ばれているのだった。
「昨日な…。ちょっと瀬衣名と真面目な話をしたんだ」
「ほう…。進路の事か?」
「いや、愛について少々」
「………愛?」
城之内の言葉に海馬は訝しげに首を捻る。そんな海馬の様子に城之内はクスリと微笑み、海馬の薄い腹の前で組んでいた両手を少し強めに組み直した。そして海馬の肩に顎を載せたまま、サラサラの栗色の髪に愛おしそうに頬を擦り寄せる。
「ほら瀬衣名の奴、今日お前が来る事知ってたじゃん? んで、その事でお互いの予定とかを確認し合ってたんだけど、その時にちょっと話題を変えられてな」
「………」
城之内の話に、海馬は黙って耳を傾けている。その仕草に安堵しつつ、城之内は昨夜愛娘とした会話を少しずつ思い出していた。
夕食後の落ち着いた時間。その時城之内と娘の瀬衣名はマグカップに煎れた紅茶を飲みながら、二人でテレビを見ていた。そんな時、ふと自分にそっくりな琥珀色の瞳に強い光を載せて、娘は父親を見詰め…こう問い掛けてきたのだ。
「ねぇ…。パパはママの事を、ちゃんと愛していたの?」
唐突に放たれた言葉に城之内は心底驚き、紅茶を飲もうと持ち上げ掛けたマグカップもろとも固まってしまった。妻を病気で亡くしてもう十五年近くが経つが、娘にそんな事を問われたのは初めてだったからだ。
「………は? 何?」
余りに突然の事で、城之内はとっさには娘の言いたい事が分からなかった。マグカップを手に持ったままそう返すと、瀬衣名はいつにもまして真剣な表情で父親に詰め寄って来る。そしてこう言った。
「パパが海馬のおじさまの事を、世界中の誰よりも愛してる事は知ってるわ。ママと出会う前に恋人として付き合ってた事も知ってるし、私の家出が元で本当に偶然に再会して、それからまた付き合い始めた事も知ってる。海馬のおじさまと別れていた間、パパが片時もおじさまの事を忘れられず、ずっと想いを胸に秘めていた事も…知っているの」
「う、うん…」
「それだけパパが海馬のおじさまの事を愛している事は知っているし、理解もしているわ。それでパパが幸せならそれでいいって思ってるし、私も海馬のおじさまの事が大好きだから、このまま恋人関係を続けていくのは大賛成よ」
「うん」
「でもね、時々変な気持ちになるの…。パパと海馬のおじさまが幸せであればあるほど、何か不安になるのよ…」
「不安? 何が…?」
「パパがママと結婚したのは、海馬のおじさまの代わりだったんじゃないかって。ママの事を本当に愛していなかった癖に簡単に結婚して、それで『ついで』で私が生まれて来ちゃったんじゃないかって…」
「つ、ついででなんか…ある筈無いだろう!!」
それまで黙って娘の話を聞いていた城之内は、持っていたマグカップをテーブルに叩き付けて怒鳴った。かなり乱暴にマグカップを置いた為、中に入っていた紅茶が跳ね返って城之内が着ていたシャツの袖口を汚したが、そんな事に構ってなんていられる状況ではなかった。幸い紅茶は大分冷めていて熱くも何とも無かったし、服は洗濯すればそれで済む。
「ついでとか…そんな悲しい事言うなよ…。お前は愛されて生まれて来たんだ。オレとアイツが…ママが本気で愛し合ったからこそ、お前が生まれて来たんだよ」
「うん…そうだよね。やっぱりそうなんだよね」
「当たり前だ!」
「でもね、やっぱりちょっと不安になるの。だって、海馬のおじさまと一緒にいるパパは本当に幸せそうで、心からおじさまの事を愛しているのが分かるから…。若い頃に付き合ってた時も、別れたくて別れた訳じゃ無いんでしょ? どうしようも出来無い事があったから、仕方無く別れたんでしょ?」
「それはそうだけど…」
「だから不安なの。パパがおじさまの事を嫌いになって別れた訳じゃ無いって知ってるから、余計に不安なの」
「瀬衣名…」
「ねぇ、パパ。だから教えて? パパはちゃんと、ママの事を愛していたの?」
不安そうに…大きなアーモンド型の琥珀色の瞳を不安げに揺らめかして、瀬衣名は真剣に城之内に尋ねて来る。城之内は父親として、その質問にきちんと答えてやらなければならないと感じ取っていた。
マグカップから手を離し、テーブルの上で震えている小さな手を、城之内はギュッ…と力を入れて握り締めた。そして娘を安心させるようにニッコリと優しく微笑む。
「愛していたよ」
ハッキリと答えられた城之内の声に、瀬衣名は目を丸くした。
「愛していたよ。心から愛していた。あの頃は世界で一番、お前のママの事を愛していたんだよ」
「パパ…」
「瀬衣名。お前が言いたいのは、もし本当にアイツが海馬の代わりだったのなら、ママが可哀想なんだって事なんじゃないのか?」
「………」
城之内の言葉に、瀬衣名は少し考えて…そしてコクリと一つ頷いた。それを見て城之内は「やっぱりな…」と呟く。
「確かにあの頃も、オレはずっと海馬の事を想っていた。別れてからも片時だって海馬の存在を忘れた事は無かった。だけどな、瀬衣名。あの当時は、それはもう既に終わった事として、オレの中では整理が付いていたんだ」
「………パパ…」
「若い頃の苦い思い出として、オレの中ではもう決着が付いていたんだよ。そしてそんな時にママと出会った。出会って恋をして…そして結婚した」
「………」
「ママがお前を妊娠して、そしてお前が生まれて…。オレはあの時、どんなに嬉しかった事だろう。幸せそうなママの笑顔と、そんなママにそっと抱かれてスヤスヤと眠っているお前を見て、オレは本当に幸せだと思ったんだよ。そしてオレはあの時、この幸せを守ろうと誓ったんだ。オレとママとお前の三人の幸せを、一生守っていこうと強く心に誓ったんだよ。………残念ながら、その誓いが守られる事は無かったけどな…」
「パパ…」
苦い恋を経験して絶望して、そんな自分を彼女はずっと支えてくれていた。そのお陰でやっとの思いで海馬との失恋を克服し前向きになる事が出来た城之内は、それまで自分を支えてくれていた彼女を愛する事が出来た。それなのに…心から愛し守っていこうと心に決めた妻は、娘を産んだ直後に病魔に倒れた。そして結局、帰らぬ人になったのである。
妻を亡くし、城之内は愛しい女性の分までも娘を愛そうと重ねて心に誓った。海馬の事はずっと胸の内にあったが、それはもう終わった事として処理されていたので、未練は全く無かったのである。
本来ならば、この先もずっと独り身で娘を愛し守り続けて来た筈だった。それなのに…再び出会ってしまったのだ。
愛しい愛しい…誰よりも愛した恋人に。
「海馬との再会は、オレに取っては本当に予定外の事だったんだよ。そのお陰で再び海馬を愛せるようになれた事は…お前には感謝してもしきれないな」
「うん…そうだね」
「確かにオレは、海馬の事を世界で一番愛している。でもだからと言って、ママを愛していなかったという事じゃ無いんだぞ? オレがママを愛したからお前が生まれた。愛していなかったら、きっとお前は生まれて来なかったさ」
「うん…うん」
「海馬だって同じだと思う。離婚はしたけど、ちゃんと前の奥さんを愛していたんだと思うよ。だから克人君が生まれた。そうだろう?」
「うん…! 私も…そう思う!」
「だからそんな事を思うのは、全くもって無意味な事なんだぜ?」
「そうだね。うん…そうだよね。ゴメンね、パパ。変な事聞いちゃって…」
「いやいいよ。不安に思う気持ちも分かるからさ。オレだって…こんな事になって、ママに悪いと思って無い訳じゃ無い」
そっと視線をずらして、城之内はリビングの端に置かれている仏壇を見詰めた。そこには亡くなった妻が、いつでも優しい笑顔でこちらを見守っているのが見える。
この笑顔に、城之内は何度も励まされて来た。幼い娘を一人で育てている間、何度不安に押し潰されそうになった事だろう。けれどもその度に、この写真の中の女性が慰めて、そして励ましてくれていたのだ。
海馬を失って、絶望の淵にいた自分を救ってくれた…誰よりも優しくて愛しい女性。城之内がこの世界で、一番に愛した女性だった。
「でもママは言ったんだ。亡くなる前にオレに対して、どうか自由になってくれってな…」
「自由に…?」
瀬衣名の問い掛けに、城之内はコクリと頷いて答える。そして頭の中で、あの時の言葉を思い出していた。
『お願いよ…。どうか私に縛られないで…。これから先は自由に生きていって欲しいの…。克也君の好きなように…貴方が信じるままに…どうか…自由に…』
優しい優しい愛する妻の言葉。その言葉があったからこそ、城之内は再会した海馬を再び愛する決心を固める事が出来たのだ。もしあの時の言葉が無ければ、例え海馬と劇的な再会をしたとしても城之内は永遠に妻だけを愛し続ける事を選んだ事だろう。
多分亡くなった城之内の妻は、そんな夫の性格をよく理解していたに違い無い。だからこそ、敢えて言葉にして伝えたのだ。
自由に生きて欲しい…と。
それは、妻が夫を愛しているが故の本心からの言葉だった。愛しているからこその…願いだったのだ。
「ママの…アイツのあの言葉があったからこそ、今のオレがいるんだよ。あの言葉が無かったら、今のオレはこんなに幸せでは無かっただろうな。本当に…アイツには感謝しているんだよ」
「パパ…」
「愛していたんだ。本当に誰よりも心から愛していたんだよ…瀬衣名」
「うん。ゴメンね…パパ。パパのママに対する気持ちを疑ったりして、本当にゴメンね」
父親の心からの本音を聞いて、娘は涙ぐみながら謝罪した。そして自分の手をそっと父の手に重ねて、強く強く握り締めたのだった。
「で、そんな訳で、瀬衣名はちゃんと理解してくれたって訳さ」
城之内は最後にそう締めて、抱き締めていた腕に少しだけ力を込めた。
長い恋人の話の間、海馬は一言も口を挟んだりはしなかった。ただ時折相槌を打つようにコクリコクリと頷いては、真面目に城之内の言葉を聞いていた。全ての話が終わった事を知ると、海馬は城之内の腕の中で身じろぎをして、腕が緩んだのを見計らって身体を半回転させる。そして城之内と真っ正面から見合う形になり、精悍な男らしい顔をじっと見詰めて…フワリと微笑んだ。
「分かって貰えて良かったな。それは確かに、とても大事な話だったと思うぞ」
「あ、やっぱりお前もそう思う? オレもそう思ったから、何も隠し事しないで素直に話したんだ」
「そうだな」
「瀬衣名にはあぁ言ったけど…、お前だって前の奥さんの事を愛していたんだろ?」
「あぁ、勿論だ。だから克人が生まれたんだ」
「だよなー!」
「離婚はしたが、無駄な結婚だったとは思っていない。妻は間違い無く、オレに取って必要な女だった。オレはアレを…本当に愛していたんだ」
「うん。知ってる」
「端から見れば不幸な結末になってしまったと思われるかもしれないが、オレはそれを後悔していない。克人も離婚には納得しているし、元妻も今は再婚して幸せに暮らしている筈だ。それにオレも…」
「ん?」
「………」
「なんだよ。言えよ」
海馬が何かを言い淀んだのを見て、城之内はクスリと笑った。海馬が何を言いたいのかをよく分かっていたからだ。本当は海馬が何も言わなくても分かってはいたのだが、ここはやはり直接言葉で言って欲しいと、城之内は笑顔で先を勧めてくる。
そんな城之内の言葉に海馬は耳まで真っ赤になって、だが覚悟を決めたのか、ややあってボソリと…非常に低い声で世界で一番愛している男の耳元にこう囁いたのだった。
「オレも今は…至極幸せだからな」
………と。
夜も更けて、素肌に羽毛布団を巻き付けてスヤスヤと眠る海馬に城之内は優しく微笑みかけ、少し汗ばんで重みを増した栗色の髪の毛をサラリと撫でた。その仕草に「んっ…」とむずがる海馬にクスクスと笑い、床に放ってあったバスローブを拾い身に着けて立上がる。そしてそっと寝室を抜け出して、リビングに入り電気を付けた。
明るい電気の下で、仏壇に飾られている亡くなった妻の写真をじっと見詰める。妻は今日も優しい笑顔を浮かべてそこにいた。
その写真に城之内はゆっくりと手を伸ばして、指先で写真の表面をそっと撫でた。そして小さな声で言葉を放つ。
「ありがとう…。お前のお陰で、オレは今…世界で一番幸せなんだ。本当にありがとう…、 」
最後に心を込めて妻の名前を呼び、電気を消して再び寝室に戻る。ベッドに戻って羽布団に潜り込むと、海馬がふー…と大きく息を吐いた。そしてわざとらしく寝返りを打って城之内の身体にピッタリとくっついてくる。
静かに寝息を立てているようだが、起きている事は一目瞭然だ。それでも城之内は何も言わなかった。何も言わず、ただ腕を伸ばして細い身体を強く抱き寄せる。海馬もそれに従って、素直に身体を擦り寄せて来た。
静かな静かな秋の夜が更ける。
今はただ…愛する人が側にいるというこの事実だけで、心から幸せだと思った二人だった。