私は海馬のおじさまの、誰も知らない秘密のお顔を知っている。若い頃から両思いで、一旦別れたけど今も現役で恋人をやっているパパだって知らないお顔。私だって見たのは八年前のあの一回きりという、非常に貴重な表情を…。
小さい頃の私は、常にパパにベッタリだった。
早くに病気で母を亡くした私にとって、パパだけが唯一の肉親だった。パパもそれを不憫に思っていたらしく、私に対してはまさに目に入れても痛くないと言うような可愛がりようだった。
勿論何か悪戯をしたり悪い事をした時には、しっかり説教されたしお尻もよく叩かれたから、必要以上に甘やかしてたって訳じゃ無いと思う。だけど、それを抜かして考えてもパパは私にすっごく優しかった。
私が行きたいと言うところにはどこにだって連れて行ってくれた。海にも山にも、動物園にも水族館にも植物園にも、遊園地にもデパートにも映画にも、色んな遊具があったり動物と触れ合えるような大きな公園にも…とにかくどこにでも連れて行ってくれた。日曜日はパパの手作りのお弁当を持って、朝から車でドライブして出掛けるのが幼い私には本当に嬉しくて…楽しい思い出だった。
でもそんなパパが、たった一つだけ連れて行ってくれない場所があった。どんなに私がお願いしても、パパが決して首を縦に振らない場所。
それが…海馬ランドだった。
私はとにかく海馬ランドに行きたくて堪らなかった。周りの友達は皆パパやママに海馬ランドに連れて行って貰っていたし、そこがどんなに素晴らしい遊園地で、どんだけ楽しかったのかという事を、学校で詳しく私に話して聞かせるのだ。そして、皆口を揃えて私にこう言うのだ。
「瀬衣名ちゃんも、お父さんに連れて行って貰えば?」
と………。
今の私なら、パパがどんな気持ちで「駄目だ」と言っていたのかよく分かる。そんな辛い思い出がある場所なら、いくら愛娘の頼みでも安易に連れて行ったりなんて出来る訳が無い。でも当時の私はまだ小さくて、そんなパパの気持ちを分かって上げられる事が出来無かった。
私はとにかく海馬ランドに行きたかった。友達が羨ましくて羨ましくて仕方が無くて、何とか連れて言って貰おうとしょっちゅうパパに「海馬ランドに連れて行って欲しい」とお願いしていた。でもパパはやっぱり首を横に振るだけ。流石の私もそんなパパの態度に我慢の限界が来た。憤慨して、準備をして一人で海馬ランドに行こうとして家出をしたのは…九歳の時だった。
警備の人の目を盗んで入り込んだ海馬ランドは、それはそれは素晴らしくも美しい夢の世界だった。私はそこで、たまたま海馬ランドの視察に来ていた克人と出会う事になる。彼は視察がつまらなくて、父親と警備の人の隙を見て逃げ出していたのだ。
同年代だった私達は凄く気が合って、その後は海馬ランドの閉園間近まで手に手を取ってランド内の逃避行を続ける事になった。喉が渇いたりお腹が空いたりした時は、克人の顔パスでお店の商品を買い、何でも飲んだり食べたりする事が出来た。ただそれをするとすぐに位置情報が分かってしまう為、私達はその度に走って逃げる羽目になった。何だか大人達を手玉に取った気分になって、凄く楽しかった事をよく覚えている。
でもそんな逃避行も永遠には続かなかった。閉園まであと一時間と迫った頃、私達はついに捉えられてしまったのだ。
黒服姿の警備の人達に捕まった私達は、そのまま海馬ランドのゲート近くまで連れて来られる事になった。そこに待っていたのは、白いスーツを着た長身の男の人だった。夜のライトアップに照らし出されるその美しい人を、半ば呆然とした気持ちで見ていた事を覚えている。
その男の人はツカツカとこっちに近寄って来て、まず克人に「こら。どこをほっつき歩いていた」と厳しい口調で問い詰めた。それに対して克人は「ごめんなさい…」と小さな声で謝って、俯いてしまう。私は克人がとても可哀想になった。
「かつと君は悪く無いです。私が海馬ランドで遊びたいって言ったから、一緒に遊んで貰っていただけです」
ギュッ…と克人の手を強く握り締めながら、私はその男の人を見上げてハッキリと口にした。そしてその男の人が克人から私へと視線を移して…綺麗に澄んだ青い瞳を目一杯開いて固まったのを見てしまった。
その男の人の背後では、閉園間近に打ち上げられる花火ショーが繰り広げられていた。赤や青や緑や黄色やオレンジや…とにかく色んな色の花火が夜空に咲き乱れ、男の人がキッチリと着込んでいる白いスーツに様々な色を映し出している。私はそれがとても綺麗だなと思っていた。
「名前は?」
ふと…その男の人が目の前に屈み込んで、至極優しい声で私に尋ねかけて来た。さっき克人を責めていた声とは、全く違う声だったので、私はその声にすっかり安心して自分の名前を口にする事にした。
「せいな…」
「名字は? 上の名前は言えるか?」
「えーと…その…。じょうのうち…です」
「………っ!?」
その途端、その男の人の表情がガラリと変わった。
何と言えばいいのか分からないけれど、まるで遠い昔に無くしてしまった大事な宝物をふとした拍子に見付けたような…そんな顔をしていたのだ。眉尻を下げて、まるで泣き出す寸前のように唇を歪ませている。
だけどその人は…海馬のおじさまは決して泣かなかった。下唇をキュッと強く噛み締めて、ただ一言「そうか」と微笑んで答えただけだった。
私が見た海馬のおじさまのそんなお顔は、それきり誰にも見られる事は無かった。あの時側にいた克人でさえ「影になっててそんな顔は見えなかった」と言っていたので、あれは私だけが見られる事の出来た奇跡だったんだなって思ってる。
あれ以来、海馬のおじさまはあんな顔をする事は無い。でも多分、する必要も無いんだと思う。だって海馬のおじさまの宝物は、もう既にいつだって側にいるんだから…。
「じゃあ瀬衣名、行って来るからな。戸締まりはしっかりしろよ」
「分かってるって。夕方には克人が泊まりに来てくれるから大丈夫だよ」
「寝る前にはガスの元栓をちゃんと確認して…」
「大丈夫だってば! もう…パパったら! 一体私がいくつになったと思ってるの? そんな事心配してないで、海馬のおじさまとのデートを楽しんで来てよね!」
お互いの仕事が忙しかった為に、少し遅れて祝う事になった海馬のおじさまの御誕生日。身支度を整えて玄関で革靴を履くパパを、迎えに来た海馬のおじさまがマンションの廊下で、優しい微笑みを浮かべながら待っている。
「悪いな、瀬衣名ちゃん。城之内を一日借りるぞ」
ドアの外まで二人を送り出した私に、海馬のおじさまが微笑んだままそんな風に話しかけて来た。それに私は笑顔で「気にしないで! ごゆっくりどうぞ」と答える。海馬のおじさまは私の応えに満足そうに笑みを浮かべて、やがてパパと肩を並べて出掛けていった。
海馬のおじさまがあんな顔をするのは、きっと後にも先にもあの時一度きりなんだろうなって思う。だから私は、あの時の思い出を胸の内の一番大切なところに仕舞い込んで一生大事にしようと思った。
あの美しくて格好良い人が、世界で一番大事な宝物を再び見付けたあの瞬間に立ち会えた幸せを噛み締めながら…。