*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第九夜

 私に縛られて欲しくは無い…。
 それが私の一番の願い。
 けれどもその願いは、お前には決して届かない。
 刻が経つに連れ、その呪縛は重くなっていくばかり。
 だからどうか…彼の呪縛を解いてあげて欲しいと…そう願う。
 けれども、それは貴方を苦しめるだけだという事もよく分かっている。
 それがやり切れなくて…悲しくて…とても苦しい…。
 私がここに残された使命すらも…まだ分からないままなのに。

 




 薄闇の空を背景に、大きな鳥居が建っている。その下に、黒い着物を着た城之内が後ろ向きで立っていた。贖罪の神域の緩い風に吹かれて、金色の髪を揺らしている。
 鳥居の向こうの風景は、いつも歪んでいてハッキリとは見えない。まるで小石を投げ込んだ直後の池の中を覗いて見るように…。
 そんな歪んだ景色をじっと見続ける城之内の側に、海馬は近寄っていった。そして琥珀の視線の先を辿っていって…驚きに目を瞠った。
 普段は歪んで何も見えない空間の先で、小さな村が炎に包まれている。夜空を染める真っ赤な炎と、村を包み込む真っ黒な煙。村全体を焼き尽くす炎の熱と人々の悲鳴が、ここまで届くようだった。

「『せと』は一人だ。二人もいらない…」

 余りにも悲惨な光景に目が釘付けになっていた海馬は、ふと、隣から聞こえて来た呟きに我に返った。慌てて城之内の方を見遣ると、彼は返り血で真っ赤に染まった神官着姿で、黙って村の方を見詰めている。酷く冷めた瞳で…けれども悲しそうに泣きながら。
 嗚咽も漏らさずただ涙を流しながら、城之内は腕の中に持っていた何かを大事そうに抱き締めた。

「じょ…のう…ち…っ! それは…っ!!」

 それは血で真っ赤に染まったせとの生首であった。血の気を失った白い顔、光を失った瞳が虚空に向けられている。
 城之内はその首を持ち上げ、白い唇にそっと口付けた。涙を零しながら、幾度も…幾度も。
 そして、涙で濡れた琥珀の瞳を海馬に向け、感情の籠もらない声で酷く冷たく囁いた。

「オレにはせとがいればそれでいい…。他の誰かなんていらない…。そう…お前も…いらない」
「城之内…っ!!」

 堪らず伸ばした手は何も掴む事なく、冷たい空気を切る感触に海馬は目を覚ました。


 部屋の中はまだ暗闇に閉ざされていた。けれど海馬は朝の気配を肌で感じて、そのまま布団から身を起こす。夜着として着ている白絹の単衣が汗でびっしょり濡れていて、冷ややかな朝の空気に触れ身体が震えた。

「っ………」

 自らの身体を強く抱くように腕を回し、深く溜息を吐く。
 毎晩のように見る夢にいい加減疲れを覚え始めていた。だからといってどうする事も出来ないのが、また海馬の憔悴に拍車をかけている。
 あんな鬼の言う事など、気にする必要は無いと思っていた。城之内が千年前に自らが殺してしまった恋人に執着するのはある意味当然の事だと思っていたし、その事に関して自分がどうこうする事など出来ないからだ。
 けれど…初日でのあの拒絶が、思った以上に堪えていたらしい。
 自分を受け入れて欲しかった訳では無かったが、あそこまで完全に拒絶されるとも思っていなかったのである。

「救いの巫女…か…」

 海馬は汗を吸ってしっとりと重くなった前髪を掻き上げつつ、自嘲気味に笑いながら小さく呟いた。最近では、こんな状態で一体どうやって彼を救えばいいのかと…そればかり考えている。
 そうこうしている内にも時間は経っていたらしい。居間の柱に掛かっている柱時計が午前五時を告げる音を鳴らしたのを聴いて、海馬はようやっと布団から抜け出て立ち上がった。


 海馬がこの贖罪の神域に来てから数日が経っていた。
 現世とは違う重苦しい空気に最初は疲れ果てていたものの、それも二、三日もするとすっかり慣れてしまい、今では普通に生活する事が出来るようになっている。この家に関しても、城之内が言った通り自分の世話をしてくれているようで、その便利さを本当にありがたいと思うくらいだった。
 例えば夜着として身に纏っている白絹の単衣。普段は空っぽの箪笥の中を夜眠る前に覗くと、綺麗に折りたたまれた上質の絹で織られた白い単衣が仕舞われているのだ。絹糸で刺繍された紗綾形が灯りに反射してとても美しく、もし現世でこの着物を買うとなればかなりの値段になる事は否めないだろう。


 居間にある柱時計もそうだった。最初、この家には時計なんか無かったのである。
 次の日の朝早く、目覚めた海馬はまず時間を知りたいと思った。常日頃の生活から時計は無くても身体はリズムを覚えていて、何もしなくてもきちんと早朝に目覚めてくれたのだが…。だが、時間に縛られる現代風の生活に慣れていると、時計がないとどうしても不安になってしまう。
 ましてや今は、一年で最も夜が長い季節。朝が来ても遅くまで日は昇らない。
 だから海馬はまだ夜中のように真っ暗な部屋の中で、時間が知りたいと思ったのだ。
 知りたいと思ってもこの家に時計等無い事は、既に前日に確認済みだった。だから、早々に諦めて布団から起き上がった時に響いた時計の音に、心底驚いたのである。
 妙に聞き慣れた音に慌てて居間に赴いてみれば、そこの柱に掛かっていた時計はとても見慣れたものだった。
 それはとても古びた柱時計だった。刻を知らせるボーンボーンという深い音がとても好きだとモクバが言っていた、海馬家の居間の柱に掛かっていた時計。
 その時計がいつの間にか、このマヨイガの居間の柱に掛かっていたのである。


 城之内は、この家が海馬のお世話係だと言っていた。だが、これはただのお世話係の域を超えているような気がする。
 このマヨイガは贄の巫女がこの世界で少しでも過ごしやすいように、対象者の心を読み取って現世での生活を再現してくれているのだ。

 黒龍神の慈悲。

 その言葉に、海馬は心底納得した。
 閉ざされた生活に最初は戸惑ったものの、日が経つに連れて全く違和感を感じずに過ごせるようになっていたのである。
 その事に気付いてからというものの、海馬は現世にいた頃の生活を崩さないまま日常を送る事が出来ていたのだった。


 朝五時の時計の報せを聞いて立ち上がった海馬は、そのまま浴室へと向かって行った。そして単衣を脱ぎ捨てて、真水で身を清める。
 冬の水は凍える程に冷たくて肌に震えが走るが、その分しっかりと目が覚めて頭の中がクリアになっていくのが分かる。暫く水を浴びていると、やがて身体の中心がまるで熱が点ったように熱くなるのを感じて、海馬は水を浴びるのを止めて浴室から出て来た。
 身体の水気を拭き、用意してあった巫女としての衣装に着替え、腰に鈴の入った守り袋を結び付けて顔を上げた。そしてそのまま家を出て神社の本殿へ赴き、深く一礼してから中に入る。
 祭壇の前で跪き二礼二拍一礼をし、目を瞑り静かに詔を唱え始めた。朗々たる声で詔を全て唱え、最後にもう一度深く一礼してから立ち上がる。
 振り返ると冬の遅い朝日が昇って来たようで、外が漸くほんのりと明るくなっているのが見えた。その明かりに誘われるように扉を開き空を見上げると、まるで夕闇のような濁った空が目に入ってくる。


 この贖罪の神域は、昼間はいつもこんな薄闇に包まれているのだ。例え日が昇ったとしても、完全に明るくなる事は無い。なまじ夜の空が澄んでいて、月も星もはっきりと見えるだけに、昼のこの薄暗さには未だに慣れる事が出来なかった。
 軽く溜息を吐きつつ、本殿から一歩足を踏み出した時だった。
 バサバサと軽い羽音が庭の方から聞こえて来て、小さな茶色い固まりがいくつも海馬の目の前に降って来た。

「雀…?」

 目の前に降って来たそのいくつもの茶色い固まりは、現世で海馬に良く懐いていた雀であった。チョンチョンと地面を蹴って海馬に近付き、首を傾げながら足元で海馬の事を見詰めている。
 側に行きたいという声が聞こえたような気がして、そっと右手を差し出してやれば、それを待っていたかのように雀達は一斉に飛び上がり細い指に羽を降ろした。そしてまるで甘えるかのように、海馬の指に小さな頭を擦り付ける。
 その温かな熱に、海馬の顔にも自然と笑みが浮かんだ。

「何だ…お前達。一体どこから来た」

 この贖罪の神域に来てからというもの、『生きて』いるものは自分と食人鬼である城之内しか見た事が無かった。植物は不自然な程に沢山あるものの、『生きて』『動く』物を見た事はただの一度も無かったのである。
 だからこの世界には『生き物』はいないと思っていたのだが、どうやらそうでも無かったらしい。

「くすぐったいな。そんなに擦り寄るな」

 数羽の雀がスリスリと頭や身体を擦り付けて来るのに少し笑って、海馬は履き物を履いてそのままマヨイガまで帰って来た。そして庭の柿の木から熟した実を一つもいで、雀の前に差し出してやる。

「腹が減っているのか? これを食べればいい」

 差し出された柿の実に雀が嬉しそうに群がり、美味しそうに啄み始める。それを黙って見詰めながら、海馬は久々に心が温まっていくのを感じていた。無心に柿の実を啄む雀の邪魔をしないようにゆっくりと動き、縁側に腰を下ろす。海馬が身動いでも、雀は一羽も海馬から離れようとはしなかった。
 冬の風に吹かれながら、暫く優しい時間が流れていたのだが…。
 突然、雀達が何かに気付いたようにビクリと小さな身体を揺らし、そして一斉に空へ飛び上がって行った。

「………っ!?」

 まるで何かから逃げるように高く高く飛び上がり、そして鳥居の向こうの空まで辿り着いた時に、歪んだ空間に掻き消されるようにその姿が見えなくなる。
 余りに突然の事態に状況が掴めなくて、雀達が啄んだ為に穴の空いた柿の実を手に持ったまま呆然としていると、屋根の上からクスクスという笑い声がするのに気付いた。
 慌てて立ち上がり振り返ってみると、そこにいたのは城之内であった。

「城之内…」
「こんな朝っぱらから黒龍神に祈りを捧げるとは…ご苦労さんなこって。真面目なんだな」
「オレは神官であり巫女だ。神職に仕えている者として朝夕のお勤めをする事は、至って普通の事だと思うのだが。今までの贄の巫女達も同じようにしていただろ?」
「まぁな…。だからこそオレはいつも思っていたよ。現世にいる時ならまだしも、ここまで来てそんな事をする事に、一体何の意味があるのかってね。どんなに祈りを捧げようと、黒龍神はもう何も助けてはくれない。月に一度オレに食われて、十年後に死ぬって事に関しては、何も変わらないんだからな…」

 ニヤニヤ笑いながらもどこか寂しげな表情をしている城之内に、海馬は何も言う事が出来ずに視線を合わせる事しか出来なかった。だがふと、手に持っていた柿の実の事を思い出して、先程疑問に思った事を口に出してみる。

「そう言えば…。先程数羽の雀がいたのをお前も見ただろう?」

 海馬が口に出した疑問に、城之内は面白そうに頷いて見せた。

「あぁ、見たけど。それが?」
「オレはこの贖罪の神域に来てから、オレ達以外に『生き物』はいないと思っていたのだが…」
「いないぜ。基本的にはな」
「………? どういう事だ…?」
「元々は何もいない空間なんだ。内から出られない代わりに、外からも決して人間は入って来られないからな。でも、人間なんかよりもっと純粋な生き物…、つまり動物や鳥なんかは時々間違ってここに入って来ちまう事がある」
「間違って?」
「あぁ。この空間が異質な空間である事は、奴らもちゃんと感付くらしいけどな。たまにそれに気付かないで入って来てしまう事があるんだよ。動物達は出入りも自由だから特に問題も無いし、そういう予期せぬ客は贄の巫女にとっては心の癒しにもなるらしい。現に今、お前…楽しかっただろ?」

 城之内の台詞に海馬はただ黙って頷く。
 この何もいない空間に、突然雀が現れた謎は解けた。だがもう一つ、海馬には疑問に思っている事があった。
 雀達はつい先程まで、海馬の手の上で安心しきって柿の実を啄んでいた筈だった。それなのに、突然何かに怯えたかのように飛び去って行ってしまった。今まで色々な動物に好かれてきた海馬であったが、突然怖がられるという事が無かった為に、少し驚いてしまったのだ。
 その疑問を口に出そうと手に持っていた柿の実に視線を移した時だった。まるで海馬の心を読んだかのように、城之内が口を開いた。

「雀が何で突然逃げ出したのか…そんなに不思議か?」

 城之内の言葉に慌てて屋根の上を見上げると、彼は相変わらず寂しそうな笑みを称えたままこちらを見ていた。

「動物や鳥達は、人間なんかよりずっと異形の者に対する気配に敏感だ。オレがやって来た気配に気付いて、命の危険を感じて慌てて逃げ出したんだ。動物達は…純粋だからな」
「だが…。貴様は別に動物や鳥に危害を加えるという訳では無いんだろう?」
「そりゃそうだけどね。オレだって動物は大好きだし、これでも人間であった頃は犬や猫にはよく好かれていたしな。でもな、さっきも言ったけど動物ってのは凄く純粋な生き物だからさ。本能に従順な訳よ」
「本能…」
「そう、本能。奴らの本能がオレの存在を危険なものとして認識してるってこった。近付いてはいけない。危険な存在。近寄ったら命を落とすって…な。奴らにはちゃんとそれが分かっているんだ」

 そこまで言って、城之内は突然屋根から飛び降りた。
 そして海馬の目の前に降り立つと、立ち上がってそっと掌を海馬の頬に当ててくる。ヒヤリとした体温に、海馬の肌がゾワッと粟立った。

「お前にだって…感じている筈だ。オレの存在が相容れない者だと、危険な者だと、近寄ってはいけないと…。ちゃんと本能がそう警告しているのを…感じるだろ?」

 獣の瞳孔をした琥珀の瞳が細められるのを間近で見て、海馬は思わず一歩後ずさってしまった。ジャリッ…と履き物の下で地面に擦られた小石が音を起てる。
 背筋に悪寒が走り、肌が粟立つ。頭の中がざわついて、『これ』は危険だと警告していた。
 こめかみから流れる冷や汗に気付いた城之内がニヤリと笑い、海馬の頬から手を引いてその場でクルリと後ろを向いた。

「ほら…な? 今はまだそんなに実感が無いだろうけど、その内嫌でも分かるようになる。そう…次の新月が来れば嫌でも…な」

 城之内はもう振り返らなかった。冷たい冬の風に金の髪を揺らして黙って背を向けるのその姿は、今朝の夢を思い出させる。海馬にはそれがとても悲しく映っていた。


 海馬がこの贖罪の神域に来てからもう数日が経っている。
 新月の晩は…もうすぐそこまで迫っていた。