彼女は言った。
どうか救いを下さいと。
それは私が言いたくて言いたくて仕方の無かった事だったから。
だから彼女のその言葉を聞いた時、私は心から感謝したのだ。
私の声は黒龍神には届かない。
けれど、私も彼女と一緒にずっとそう思っていた。
救いを。どうか救いを。
彼と贄の巫女と、両方に救いを…慈悲を与えてやって欲しいと…。
城之内に連れられて向かった先は、本殿の裏手にある一件の家だった。現世であれば本家…つまり城之内家がある場所である。現世にある現代風に建て替えられた家とは違って、目の前に建っているのは茅葺き屋根の古風な民家だった。窓からは灯りが漏れて、台所や風呂に当る場所からは白い湯気が出ている。
一瞬、自分の目の前を歩いているこの男が食事や風呂の用意をしてくれていたのだと思った。だが海馬の考えを見透かしたように、振り向いた城之内はニヤリと笑ってこう言い放つ。
「オレは別に何もしてないぜ?」
それでは一体誰がこんな事をしているんだと問い掛けて、だがそれは、海馬の口から放たれることは無かった。家に近付くに連れて、その周りの奇妙な光景に気付いたからである。
茅葺き屋根の家の前には大きな桜の木が一本生えている。それは現世でも同じ場所に桜の木がある事から、別段不思議な事では無い。その桜の木の脇には、柿の木が二本生えている。それも現世と一緒だから別に良いのだ。
ただ、海馬の目にはそれがとても奇妙に映っていた。
季節は冬だというのに、桜の花は満開に咲いていた。その脇に生えている柿の木には、熟した柿の実がたわわに実っている。家の裏手にある椿の木々は紅や白の美しい花を咲かせ、藤の垣根には朝顔の蔓が巻き付き朝を待つように青色の蕾を膨らませていた。
それだけでは無い。庭の方に目を向けると、藤棚には薄紫色の藤の花がまるで簪のようにいくつも垂れ下がり、その足元には真っ赤な彼岸花が何本も地面から顔を覗かせている。他にも向日葵や菖蒲等の夏の花の隣ではコスモスが風に揺れており、艶やかな紫陽花の隣に生えている金木犀にはオレンジ色の小さな花がびっしりと咲き誇り、芳醇な香りを辺りに漂わせていた。その向こうではそれに負けじと、梅の花の爽やかな香りが風に乗ってここまで届いている。
桜、桃、梅、杏、藤、百日紅、木蓮、花水木、紫陽花、向日葵、菖蒲、朝顔、桔梗、秋桜、小菊、萩、竜胆、金木犀、銀木犀、椿、山茶花、水仙、沈丁花…。桜桃に林檎に柿に桃に杏子に枇杷に蜜柑に花梨。
あらゆる季節の最も美しい状態の姿をしている花々と、全て立派に熟した実を付けている果樹。
「………?」
どう見ても、それは異様な光景だった。一瞬華やかに美しく見えるものの、冷静に考えれば恐ろしさすら感じる。
けれど…海馬はどうしてもそうは思えなかった。何故かその不可思議な風景に、優しさすら感じたのである。
しばらく周りの景色に見惚れていた海馬は、城之内がいつの間にか家の中に入っていってしまった事に気が付いた。慌ててその後を追いかけて、そこでも有り得ない光景を目にして驚きに目を瞠ってしまう。
板間の居間では既に夕食が準備されていたのである。囲炉裏には根菜が煮込まれた暖かい汁物の鍋が吊されており、その前には一人用の膳が用意されていた。巫女用の食事として、きちんと肉や魚や五穀などの材料は抜かれている。
「腹減っただろ。それ夕食だから、好きな様に食っていいぜ」
いつの間にか戸口の脇に寄りかかるようにして立っていた城之内が、海馬に向かってそう声をかけた。
「これは…一体誰が…? まさかお前が…?」
「まさか。さっきも言ったけど、オレは別に何もしていない」
「では…誰が…?」
この贖罪の神域にいるのは、この地に幽閉されている食人鬼である城之内と、贄の巫女の二人だけの筈。城之内が何もしていないと言うなら、一体誰がこんな事をすると言うのだろうか…。
そこまで考えて、海馬はふと頭に浮かんだ単語を口に出した。
「まさか…マヨイガの一種か…?」
マヨイガ。漢字で書くと迷い家となる、東北の遠野地方に伝わる不思議な伝承の家。
神の悪戯とも妖怪の一種とも言われているが、そこに迷い込んだ者に幸運を与えるという不思議な伝説がある。
海馬が自ら弾き出した答えに戸惑っていると、それを肯定するかのように城之内がクスリと笑いながら口を開いた。
「まぁ…そんなとこだろ。ここは黒龍神が贄の巫女の為に用意した家だ。せめて普段の生活くらいは何不自由なく過ごさせてやろうと思って作ったらしい。いわば、この贖罪の神域での、お前の世話係だな」
「この家が…世話係…?」
「そう。食事の準備も風呂の準備も全てやってくれるし、着替えなんかも勝手に箪笥に入れてくれる。庭の木になってる果物の実は、好きな様に勝手に食えばいい。いくら食っても次の日には復活してるからな」
「それは…凄いな。流石の黒龍神も贄の巫女を哀れに思っているという事か」
「そういうこった。まぁ…全ては初代の贄の巫女の入れ知恵なんだけどな」
「入れ知恵? 初代の贄の巫女の?」
「あぁ。初代の贄の巫女がこの贖罪の神域にやって来た時にはさ、ここはなーんにも無いただの空虚な空間に過ぎなかったんだよ。ただ本殿がポツンとあるだけでさ。そこへ初代の贄の巫女がやって来て、色々と足りない物を吟味してくれたって訳」
「………」
「黒龍神は立派な龍神だけど、神は人間じゃ無いからさ。人間にとって何が必要なのか、よく分かって無かったらしい。それを初代が全部自分で進言して、後の贄の巫女の為に用意してくれたって訳。どうせ死なねばならない身なれば、癒しや救いや慈悲は必要だと…な」
そこまで言って、城之内は何かを考え込むように黙り込んでしまった。目は開いているが、視点が近くには無い。どこか遠く…そう、まるで千年前の過去を見据えているようだった。
初代の贄の巫女という事はまだ分家では無く、城之内の名を持った者の中から選ばれていた巫女の筈。という事は、その者はこの城之内とかなり身近な人間であった筈だ。
その者が城之内とどういう関係であったかは知らないが、遠くを見詰める城之内の視線の強さから、かなり近しい者であった事が海馬に伝わってくる。
ただ…それを聞くのはどうにも無粋なような気がして、ついに海馬はそれを口に出す事が出来なかった。
何も言う事が出来ずに黙って城之内を見詰める海馬の視線に気付き、城之内はチラリとこちらの方を見遣った。そして目が合うと、ふっと笑ってみせる。
「まぁ、とにかく飯食っちまえよ。食べ終わったら食器もそのまんまにしてていいんだぜ。家が何とかしてくれる。風呂はあっち。寝室はこの向こうだ。さっきも言ったように箪笥の中に着替えが入っているから、好きに使えばいい」
「え………?」
「風呂から上がったら布団が敷かれていると思うから、今日はもう寝ちまいな。慣れない場所に来て疲れただろう。次の新月まではまだ間があるから、暫くはここでの生活に慣れる事を最優先にするんだな」
「ま…待て!!」
勝手にベラベラと喋り倒し、伝える事だけ伝えた城之内はさっさと部屋を出て行こうとしていた。くるりと背を向けたその姿に、慌てて海馬が声をかける。
「食事は…? 一緒に食べないのか…?」
声をかけられ足を止めた城之内は、海馬の一言に心底驚いた顔をして振り返った。まるで全く想定していなかった事を言われたかのように、目を丸くしてこちらを見ている。
そんな城之内に対して、海馬もまた首を傾げた。
自分はそんなにオカシイ事を言ったのだろうか…?
これから一緒に住むのだったら、食事を共にするのは当然の事では無いのか…?
そう疑問に思いつつ黙って見つめ合っていると、やがて、城之内の方が海馬の思考に気付いて破顔した。さも可笑しそうにクスクス笑いながら、けれどまた、少しだけ寂しそうな顔をする。
「お前は…一体オレを何だと思ってるんだかなぁ…。本当に面白い奴だ」
「はぁ………?」
「オレの存在を忘れたのか? オレは食人鬼だぜ。食いモンは生の人間だけで、普通の人間の食事は一切摂らない。新月以外は腹も減らないから、何も食べる必要が無いんだよ。オレの事は気にしないで、さっさと食っちゃいな」
「だ…だが…。これから共に暮らすのであれば食事時くらいは一緒にいた方が…」
「共に暮らす? 誰と誰が?」
「オレと貴様だ」
「へ…? 冗談言うなよ。この家はお前の為だけに用意されたもの。オレの家じゃ無い」
「なんだと…? では貴様は一体どこで暮らしているというのだ?」
「どこでも。適当だよ。毎日の食事は必要無いし、睡眠時間だって二、三時間摂れば十分だしな。成るように成るって奴さ」
「適当…?」
「そう、適当」
適当に過ごす。そう言った城之内の視線がある方向を向いているのを見て、海馬はハッと気が付いた。
本殿だ…。多分、贄の巫女がこの家で寛いでいる間は、あの鬼は本殿にいるのだ。
本殿には恋人の…せとの頭蓋骨がある。多分その骨の近くで、城之内は夜を過ごしているのだろう。
ツキリ…ッ。
その考えに至った瞬間、何故か胸が痛んだような気がした。痛みは一瞬で消え去り、気が付いた時にはもう跡形も無くなって痛みを感じた事すら忘れてしまう。
だが、何故かザワザワと胸の奥が揺らめく感じが消えない。
何だ…今のは…? 何なんだ…? 何でこんなに変な感じがしているのだろうか…?
全く理解の出来ない症状に、思わず胸に手を当てた。それを見ていた城之内は、複雑な顔をして首を傾げる海馬にクスリと微笑み、そのままクルリと踵を返す。
「おやすみ、海馬。また明日」
明るい口調でそれだけを伝えながら廊下を歩いて行き、やがて暗闇の向こうに消えていった。
後に残されたのは、温かな食事を目の前にして棒立ちになっている海馬一人だけ…。
食欲は全く無かった。けれどこのまま突っ立っていても埒があかないので、渋々その場に膝を付き膳を引き寄せる。箸を手に取り、小鉢に入れられた山菜の煮付けを一口分掬い取って口に入れた。
その途端、至極懐かしい味が口内一杯に広がる。
それは小さい頃母親が作ってくれた煮付けの味そのものだったのだ。試しに他の物を食べてみても、同じように懐かしく親しみのある味ばかりだ。
「これがマヨイガの力か…」
軽く溜息を吐きながら、海馬は小さく呟いた。
多分これが先程城之内が言っていた、黒龍神の慈悲という奴なのだろう。二度と現世に戻れない贄の巫女の為に、慣れ親しんだ物を提供する。過酷な環境下で、少しでも心安らかに過ごせるようにと…。
流石だな…と感心する。そう思うのと同時に、とてもありがたいと思った。
確かにこの味は心から安心すると…。
それなのに、今の海馬はその食事を美味しいとは感じられなかった。
贄の巫女として決定してから、食事は常に一人で摂っていた。だから別に一人での食卓が寂しいという訳では無い。
ただ…胸の奥に何かが引っかかって、それが気になって食事に集中出来なかった。その事を思うと胸の奥がズシリと重くなって、途端に食べる気を無くしてしまう。
結局海馬は用意された食事の半分も手を付けないまま、そのまま箸を置いてしまった。温かな湯気を上げる鍋を見つつ、深く溜息を吐いてしまう。
「初日からこれでは…、先が思いやられるな…」
フッ…と自嘲めいた笑いを零し、海馬は力無く項垂れ暫くそこから動けなかった。
胸の奥が苦しい理由も、食欲が無い理由も、動く気力が無い理由も、何も分からないまま…夜は更けていった。