*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第七夜

 せっかく救いの者がやって来ても、お前が気付かなければ全く意味が無いというのに…。
 何故…気付かない。
 何故そんなに罪に溺れたがる。
 お前をそこまで追い詰めたのは、やはり私のせいなのだろうか…。
 私は…私は…。
 もう…お前を解放してあげたい…。
 だが、この身では何一つ出来やしない。
 お前の為に何一つしてやる事が出来ない。
 それが…私にとっては何よりも悲しかったのだ…。

 




 食人鬼は…酷く驚いた表情のまま、ずっとその場に立ち竦んでいた。
 見た目は二十歳前後だろうか。人間で言うならば大人になったばかりのような不安定さを感じる。それなのに伝わってくる内面は、至極落ち着いたものだった。いや、落ち着いているというよりは、全てのものに対して諦めの気持ちがあるといった方が正しいかもしれない。
 多分…迷いというものが一切無いのだ。この千年という長い時間を過ごす間に、持っていても全く役に立たない希望というものを捨て去り、全てを諦めてただ流される事に何の違和感も感じなくなっている。
 それが、海馬が最初に感じた食人鬼のイメージだった。
 だが…それは酷く悲しい事だと海馬は感じた。そこに何の救いも見出せなかったからだ。

「あ…の…」

 一言も言葉を発する事無く、ただ黙って海馬の顔を見詰め続ける鬼に話しかけた時だった。
 驚愕の表情を泣く一歩手前のようにくしゃりと歪めて、その次の瞬間、鬼は盛大に笑い出した。

「ふっ…。くくっ…。あはっ…あはは…あははははははは…っ!!」

 片手で腹を押さえ、もう片方の手を額に置き、さも可笑しそうに笑い続ける。けれど、海馬にはその笑い声は酷く悲しげに聞こえた。
 この鬼は本当に可笑しくて笑っているんじゃない。また一つ、何かを諦めたに過ぎないんだと…何故か理解できたのである。

「これは…傑作だ…っ!! せとにそっくりな贄の巫女だと…っ!? オレにこれを食えと言うのか? そうか…分かったぞ。これこそが黒龍神がオレに下した、本当の罰だったんだな。あのせとにそっくりなコイツを食って、自らの罪を再認識しろと言うんだな。千年の間に薄れていった罪の意識を、もう一度心に刻み込めと…そう言うのか…っ」

 顔は如何にも面白そうに笑っている。けれど海馬には鬼の心が見えた。
 泣いていた…。涙を流していた。余りにも惨いと、まるで子供の様に泣き叫んでいた。
 見ていられなくて、思わず近付いてその身体に手を伸ばそうとする。だが、触れる直前にパシンッと鬼の手によって弾かれてしまった。笑い声は唐突に止み、獣の瞳が鋭く自分を見据えている。
 途端に背筋に走った悪寒に再び身体を固まらせ、海馬はコクリと喉を鳴らした。恐怖で口の中はカラカラに乾いて、飲み込む唾液も無かったが…。

「名は…?」
「え…?」

 悲しそうに眉根を寄せ複雑な表情をしながらも、鬼はうっすらと笑いながら海馬に対してそう聞いてきた。

「名前を聞いている。答えろ」
「海馬…瀬人です」

 海馬の口から出た名前に、鬼はまた驚いたように目を丸くした。そして小さく溜息を吐きながら、また自嘲気味に笑ってみせる。

「名前まで一緒なのか…。参ったな」
「オレの事は…見届けの巫女様から聞いてはいらっしゃらなかったんですか?」
「静香にか? いや、聞いていない。アイツは贄の巫女に関する情報は、何一つ教えてはくれないんだ。どうせ最後には死ななければならない贄の巫女の事を前もって知らせたりすれば、オレの気持ちに迷いが出る事をよく知っているんだろうな。全く…本当に良く出来た妹だよ」

 どこか遠い目をしてうっすらと笑う鬼に、海馬は再び手を伸ばしたくなってしまった。けれど、目の前の鬼がそれを全身で拒絶しているのを感じてしまって、出しかけた手を引っ込めてしまう。
 怖いという気持ちがどうしても拭えなかった。ただ、同時にとても悲しそうだとも思った。
 怖いのに…怖くて仕方が無いのに、どうしても放っておく事が出来ないのだ。
 側にいてやりたいと思う。何とかしてやりたいと思う。そして何より慈しみ癒してやりたいと…そう思う。

 この気持ちは一体何なのだろうか…?

 自分の感情が理解出来ず、それでも黙って鬼を見詰めていると、それに気付いた鬼が琥珀色の瞳をこちらに向けてきた。初めてまともに視線が合う。獣のような細い瞳孔は彼が人間では無い事を知らしめていたが、その瞳は思った以上に雄弁に鬼の気持ちを語っていた。
 鬼は今…非常に混乱しているようだった。
 やがて、海馬の顔を凝視していた食人鬼は、口を開き溜息と共に言葉を発する。

「それにしても困ったな。これでは名を呼べない」
「え…?」
「今までの贄の巫女とは、お互い名前を呼び合って来たんだがな…。困った事に、今のオレはお前の名前を呼びたくはないと思っている」
「は…? それは…どういう事ですか?」
「『せと』は一人だ。二人もいらない。オレのせとは、千年前にオレが自分で殺してしまったアイツだけだ。だからオレはお前の名前は呼ばない。お前の事はこれから海馬と呼ぶから、そのつもりでいろ」
「なっ…!」
「ちなみにお前にもオレの名前は呼んで欲しく無い。その顔で、その声で、オレの名を呼んでいいのはアイツだけだ。オレの事はそうだな…名字でいい。城之内とそう呼べ」
「そ、それは無理です…っ!」

 鬼が放った一言に、海馬は慌てたように詰め寄った。

「城之内と言えば本家の名字…っ。いわばオレ達分家の始祖に当る家です! その名字を呼び捨てになんて出来る筈もありません! しかも貴方は見届けの巫女様の実の兄君。そんな方をそのようには…っ」
「遠慮するな。オレは鬼だ。お前等人間共を貪り食う、最低最悪な食人鬼に過ぎない。せいぜい蔑んで呼べばいい」
「そんな…っ」
「ただ、絶対に名前だけは呼ぶな。絶対だ」
「それは…あの方を思い出すからですか? オレが貴方の名前を呼ぶ事によって、嫌でもせと様の事を思いだしてしまうからですか…?」
「………」
「卑怯です…っ。それに勝手だ…っ! オレは確かにあの方にそっくりだろうけど、全く違う人間なんだ! 勝手に同一視して勝手に拒絶しないで貰いたい…っ!!」
「う…煩い! 黙れ! ただの贄の癖に偉そうな口を訊くな!! お前の役目はただ一つ…っ。新月の晩にオレの飢餓を満たす為にその身を捧げ、後は黙って食われる事…。それだけでいいんだ…っ!」

 鋭く睨まれてビクリと身体が引き攣った。けれども、鬼の勝手な言い草に覚えた怒りがそれを超越する。怒りでフルフルと震える身体に同調したのか、腰に結び付けてある守り袋の中からチリンと小さく鈴が鳴った。
 その音に目の前の鬼は耳聡く気付いたようだったか、それを無視してこちらもキッと鬼を睨み付け、海馬は低く落とした声を出す。

「分かった…。オレの事はもう海馬で構わないし、オレも貴方を城之内とそう呼びます。けれど、こうまでされたらオレの方としても黙ってはいられない。少なくてもオレは、千年もの長い刻を一人で耐えてきた貴方の事を尊敬し、その苦しみに心から同情し、せめて少しでも楽になるようにと誠心誠意仕えようと思っていたが…。だが、それもここまでだ」

 気を抜くと手を出しそうな拳にギュッと力を入れて何とかそれを我慢しつつ、海馬は怒りに滲んだ涙を拭おうともせず、目の前の男に大声で言い放った。

「こうなったらこちらも遠慮等はしない…っ。敬語は一切止めだ! オレも好きな様にさせて貰う!!」

 ハァハァと肩で息をしてそう捲し立てた海馬に、鬼は暫くポカンとした顔をしていた。だがややあって、突然豪快に笑い出した。腹を抱えて肩を震わせて「あっはははははは…っ!!」と大声で笑っている。
 それは先程の状況とよく似ていたが、だが海馬にはその違いがはっきりと見えていた。
 今の鬼は…城之内は本気で笑っていた。自嘲気味な悲しい笑い声ではない。本気で可笑しくて笑っている声だった。滲んだ涙を袖で拭いながら、ヒーヒーと笑い転げている。

「あはははは…っ。面白いな…お前。今まで九十九人の巫女と過ごして来たオレだけど、お前程面白い奴は今まで誰一人としていなかった」
「………」
「気に入った。こっちへ来い海馬。これからお前が過ごす家に案内してやる」

 打って変わって明るい表情になった城之内は、そう言って本殿から出て歩き始める。慌ててその後を追いかけながらも、海馬は釈然としない気持ちに苛まれていた。
 どうやら自分の事は認めて貰えたらしかった。だが、せとと同一視されている事には変わらない。
 自分は確かに千年前のせとの記憶を断片的に持ってはいるが、海馬にとっては、それは何の特別な事でも何でも無い。ただ記憶を持っているという、それだけの事に過ぎないのだ。
 しかも海馬を苛つかせるのは、城之内は自分とせとを同一視している癖に、千年前のせとと一緒にはしたくないと思っている事だった。
 同じに見ている。しかし、同じにはしたくない。
 その矛盾が謙虚に現れていて、海馬は遣り切れない想いにさせられた。

 それからも、城之内は決して海馬を名前で呼ぼうとはしなかった。
 それが互いの悲しみや苦しみを引き起こすだけだと知っていても…尚更に。