*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第二十八夜

 春が終わり…夏が過ぎ…秋の次には、暗く寒い冬が遣ってくる。
 長く辛い季節は、すっかり彼を変えてしまった。
 私はその事をずっと悲しく思っていて、いつか彼に春が来るようにと…必死で願っていたのだ。
 そしてその春が、今ようやっと…来ようとしている。
 私はもう何も出来ない。
 ただ…この新しい春を見届ける事だけは出来る。
 見届けてみせよう…この春を。
 瀬人と克也の幸せを。

 




 海馬と城之内が現世に還って来てから丁度三年後…。季節は冬から春に移り、今日も朝から春先の優しい雨が降っていた。春と言ってもまだ温かい季節では無く、雨が降ればヒンヤリと冷たい空気に包まれるのだが、それでも真冬の頃の芯から冷える様な寒さはもう無い。午後からは雨も上がって、雲間から暖かい日差しも差して来ている。
 未だ雨水に濡れている石畳を一歩一歩踏みしめて、海馬は黒龍神社の大鳥居を潜った。そしてそのまま奥へ入り込み、隣接する城之内家のインターホンを押した。

『はい?』
「海馬です。ご挨拶に上がりました」
『お待ちしていました。お入りなさい』

 インターホンの向こうから聞こえて来た見届けの巫女の声に頷いて、海馬は扉を開き家の中に入っていった。



 三年前の春先、現世に戻って来た海馬と城之内は、そのまま暫く離れて暮らす事を決めた。むしろ海馬としては城之内と一緒に暮らそうと考えていたのだが、その提案に城之内自身が首を横に振ったのである。その決断に納得出来ない海馬の前で、城之内は自らの考えをしっかりと伝えて来た。曰く…。

『オレはこの世界では赤子のようなものだ。静香から度々話を聞いていたにしろ、実際にこの目で見たり触ったりするのは初めての事だらけだからな…。その事に対してお前に迷惑をかける訳にはいかないし、オレ自身も色々と考えたい事があるから、暫くは本家で今の日本の常識を学ぶ事にするよ。それから…神官としての修行も一からやり直したいんだ。自分の罪を悔やんだり、その罪に捕われたりするのは、もうしないって決めたんだよ。オレはオレの出来る事をしたい。神官として修行を積み直して、黒龍神に仕えて失われた御霊を敬う…。それがオレに出来る唯一の事だって思ったんだ』

 だからお前とは離れて暮らす。暫くは個人的にも会わないと…城之内は海馬に伝えた。
 城之内の強い決意を感じ取り、そして理解した海馬はその場で頷き、その事を了承した。それ以来城之内は本家で、海馬は自宅で暮らし、お互いに修行をする日々が続いている。月に二~三度程、海馬が本家に寄った時に顔を合わせる以外には会う事も無くなり、お互いの身体に触れる事も一切無くなってしまった。ただしそれもあと一月程の事。丸三年間続いた離れ離れの生活も、春からは一変する事が決まっていた。

「貴方と兄が幸せになってくれるのは嬉しいですけれど、貴方がこうして本家に顔を出す事も少なくなると思うと…それもまた寂しいですわね」

 客間に座っている海馬にお茶と茶菓子を差し出しながら、見届けの巫女…静香はニッコリ笑いながら言った。それに対して海馬も微笑みながら、軽く会釈をする。

「いえ…別に遠くに引っ越す訳でも無いですし、克也を連れて遊びに来ますよ。いつでも連絡を下さい」
「街外れの…一軒家でしたっけ?」
「えぇ。小さな家なのですが、二人で住むには丁度良いかと。それに、贖罪の神域で暮らしていた家に良く似ているので安心出来るんです」

 一月程前、海馬は城之内から連絡を貰った。慣れない電話でしどろもどろ告げられたのは、ある程度現世に慣れた事と修行が一旦落ち着いたのでそろそろ一緒に住めそうだという事だった。次の日、早速二人は揃って出掛け、春から二人で住む家を見付けて来たのだった。
 約三年ぶりのゆっくりとした二人だけの時間。手を繋いだのもキスをしたのも三年ぶりで、酷く緊張した事を思い出して海馬は顔を赤くしてしまう。そんな海馬を見詰め、大分大人っぽくなってきた少女は嬉しそうに微笑んでいた。

「本当に良かったわ。三年という時間が掛かりましたけれど、これで私も安心出来ます。兄も人間に戻り、私も不老不死の力が解けて、漸く人並みの生活が出来るようになりました」
「その事で思い出したのですが、お身体の具合は大丈夫なのですか? この間酷い風邪をひかれたと聞いたのですが…」
「フフフ…そうなのよ。兄と二人揃って風邪を引いてしまったの。しかもインフルエンザだったのよ」
「それは…辛かったでしょう…」
「そうね。とっても辛かったわ。でも凄く嬉しかったのよ。不老不死の力を手に入れてからの千年間、私はどんな病気や怪我とも無縁だったから…。具合が悪くなる事や、怪我をして痛みを感じる事がとても幸せに感じるの。他の人には変に思われるのでしょうけどね」

 クスクスと笑いながら少女は至極楽しそうにしていた。この千年間、少女が抱き続けてきた悩みを海馬は完全に理解する事は出来ない。けれど『普通』に戻れた事を喜んでいる事はよく分かっていた。
 普通の人間に戻ったという事は、彼女の寿命はあと数十年で終わってしまうという事だ。だが静香はそれが本当に嬉しいのだという。人間としての寿命を真っ当出来る事が、何よりの幸せだと言っていた。
 それに変わってしまったのは城之内や静香だけでは無い。海馬もこの世界に還って来てから変わってしまった事がある。
 贄の巫女に選ばれた者として、海馬は幼い頃から他人に疎まれて過ごして来た。ところがこっちに還って来てからというもの、そういう事は一切無くなったのである。勿論いい事ばかりでは無く、悪い事も並行して起きている。今まであんなに好かれていた鳥や動物が全く側に寄らなくなり、海馬自身も彼等の気持ちを理解する事が出来なくなっていた。それは同時に、自分が贄の巫女としての役目を解かれた事を指し示していた訳なのだが、海馬に取っては少々寂しい出来事でもあったのだ。
 城之内も海馬も静香も、自分の身に起きた変化に慣れるまで暫く掛かった。だが、誰もその事を後悔していないのも事実であった。

「兄も漸くこの世界に慣れてきて、もう心配する事もありません」

 心から安心したようにそう言う静香に、海馬も頷いてみせる。

「最初は酷かったですからね…」
「そうですね。私もまさか兄があそこまで敏感な人だとは思わなかったものですから…。昔から細かい事を気にしない剛胆な性格でしたので、とても意外でした」

 城之内が現世に還って来たばかりの頃、彼はしょっちゅう具合を悪くして寝込んでいた。その原因は空気や水の汚さと、人工的な臭いに適応出来なかった為だった。例えば駐めてある車の側を通っただけでも、城之内はその臭いで気持ちが悪くなり嘔吐いてしまう。ゴムや塗装、ガソリンや金属等の臭いに耐えきれなかったのだ。それから空気の汚れに対しても彼は敏感だった。
 この黒龍神社近辺は緑も多くそんなに酷くは無いのだが、少し街の中心部に連れて行っただけで、城之内は淀んだ空気や濁った水の臭いに過敏に反応しては顔を真っ青にして蹲っていたのである。

「最近は漸く慣れてきたみたいですけれどね…」

 そう言って静香はお茶を一口飲んでホゥ…と息を吐き出した。

「車に乗って酔わなくなっただけでも大進歩です。まだまだ都会へは連れて行けなさそうですけどね」
「そうですね。でもこの街の中心部くらいでしたら平気で歩けるようにはなったみたいですよ」
「お兄様も成長しているという事ですね。最初は本当に大変で…何せ洋服を嫌がっていましたから」
「ボタンが嵌められなかったのにはオレも驚きましたけど…」
「そうなのよ。だから着物ばっかり着たがっていたのですけれど…、最近は洋服の良さが分かって来たみたいです。今日もジーンズとパーカーを着て歩き回っていましたもの」
「パーカーやTシャツは着物より着心地が良いと言っていましたよ」
「えぇ、お気に入りみたいです。それに最近は数字も読めるようになって来て、カレンダーも見る事が出来るようになりました」
「アルファベットはまだまだみたいですけれどね。数字どころか、最初は太陽暦と太陰暦の違いも分からなくて、説明するのが大変でしたよ」
「ある程度此方の情報は流していたにしろ、兄としては千年前から突然タイムスリップしてきたようなものですからね…。混乱するのも無理はありませんね」
「そうですね…。現世の常識を一々説明するのも大変でしたが、それを理解しなければならなかった方はもっと大変だったと思います。でも、よく頑張っている方だと思いますよ」
「全くですわ…」

 見る物触る物全てが、城之内に取っては未知の物だった。贖罪の神域にいた頃、一応静香から現世の情報を教えて貰ってはいたが、今まで頭に思い浮かべて来た物と実際に目の前にある物が一致せず、混乱して頭を痛くする事もしょっちゅうだったのである。その度にパニックに陥る城之内を、海馬と静香は根気よく宥めて落ち着かせていた。
 無理も無いと思う。もし自分が同じ立場だったらと考えると同じように混乱していただろう。だが城之内はもう全てに目を背ける事はしなかった。具合を悪くしながらも、辛抱強くこの世界に慣れていったのである。海馬はそんな城之内の事を、素直に偉いと感じていたし尊敬していた。そして彼が頑張っているのは全て自分の為だという事も知っていた為、心から嬉しいと思っていたのだった。

「それはそうと…その克也は今どこに?」

 そう言えば城之内の姿が見えないと思い目の前の少女に疑問を投げかけると、静香は「いつものところです」と言って視線を窓に向けた。その視線を追って海馬も同じ場所を見詰める。窓の向こうに見えるのは黒龍神社の本殿だったが、二人の視線が向かう先はもっと奥の方だった。
 窓から視線を戻し、海馬は静香に向かって「では…」と軽く頭を下げる。それに対して少女もニッコリと笑い、何も言わず部屋から出て行く海馬の背を黙って見送るだけだった。



 黒龍神社の本殿を通り過ぎると、脇に逸れる小道が現れる。その小道に沿って進むと、裏山の手前に建てられた真新しい小さな社が目に入って来た。まだ目に鮮やかな朱塗りの鳥居と社の前に、目的の人物が立ち尽くしているのに気付く。じゃりじゃりと小石を踏んで歩いていけば、金髪に白いパーカーを着て、藍色のジーンズとスニーカーを履いたその人物がくるりと振り返った。そして海馬の姿を確認すると、嬉しそうに微笑んでみせる。

「よぉ。来てたのか」
「ついさっきな。お前はやっぱりここにいたのだな」
「あぁ…。春からお前と暮らす事をせとに報告していたところだった」

 そう言って社に目を戻す城之内の側に寄り、海馬も同じように社を見詰めた。
 この小さな社には、丸くて白い小石が祀られている。この小石がこの社の神…つまり黒龍神により神格化を許されたされたせとの姿だった。
 今から三年前。城之内と海馬が現世に還って来たばかりの頃。二人の訴えを聞き届け、静香が黒龍神に接触を図った事があった。黒龍神は静香を通してせとを祀る事を許し、それを確認した二人は早速この場所に社を建てたのである。日当たりも良く、白椿と沈丁花の木に囲まれたこの静かな場所はせとの雰囲気に良く似合っていた。
 春先のこの季節、丁度沈丁花の花が満開で辺りに清らかな香りを漂わせている。それはまるで、城之内と海馬を祝福しているせとの気持ちが表れたかのようだった。

「せとは…喜んでくれてるのかな?」
「勿論だ。オレ達の幸せこそがせとの望みだったと…そう言っただろう?」
「そうだな。でもまだオレは…自分がこの世界にいてもいいんだろうかと…ずっと疑問に思ってるんだ」

 ジーンズのポケットに両手を突っ込みながら、城之内は困ったように笑っている。

「夢を見るんだよ。怖い夢だ。以前に比べればまだマシになったけど…それでも月に二~三回は必ず見る。現世に還って来たばかりの頃なんか毎晩見てたんだぜ。それこそ眠るのが怖くなるくらいに…」
「夢…?」
「そう、夢。オレがまだ贖罪の神域にいた頃の夢だ。オレがこの手で殺した村人や、食い続けた歴代の贄の巫女達が、あの贖罪の神域でオレを責めるんだ。何で自分ばっかり平和な世界に還って来て幸せになろうとしてるんだって。自分が犯した大罪を忘れたのかって。お前はずっとここにいて、罪を償い続けるべきだって…そう責め続けるんだ」
「克也………」
「その夢を見ると決まって叫んで飛び起きてさ、その度に静香に迷惑を掛けちまって…。その内自分に嫌気が差したりしてな」
「克也、それは…」
「分かってる。これはただの夢だ。オレの罪悪感が見せる夢だ。静香もそう言っていた。ただ…だからこそオレは、未だに自分で自分を許せて無いんだなぁ…と感じるんだよ」

 ふぅ…と肩で大きく息をし、城之内は身体を反転させて海馬に向き直った。そしてポケットから手を出して、海馬の白くて細い手を掴んだ。温かい掌で海馬の冷えた手を強く握る。今や二人の体温差は逆転していた。
 包み込んだ細い手を大事そうに撫で擦り、その手を持ち上げて城之内は海馬の指先に軽く唇を押し付けた。そして心から慈しむような目をして海馬を見詰め、優しく海馬の指先にキスをしたまま城之内はハッキリと言葉を放つ。

「なぁ…瀬人。オレを助けてくれ」

 その言葉に、海馬は驚きに目を瞠った。今まで何度も城之内の事を助けて来た海馬であったが、本人からここまでハッキリと救いを求める言葉を聞いた事は初めてだったのである。
 驚きで固まったままの海馬にクスリと微笑み、城之内は言葉を続けた。

「オレは未だこの世界では異端の存在だ。一人では生きていけない。情けないけど、誰かの助けが無ければ生きていく事が出来ないんだ」
「克…也…?」
「千年の罪は未だオレを捕らえていて、オレはまだ自分の罪の大きさに恐れ震えている。完全に立ち直るのに、一体何年掛かる事か…」
「克也…っ」
「だけどな。もう自責の念で押し潰されるのは御免なんだよ。幸せになりたい。瀬人と一緒に幸せに生きたい。ずっとそう思ってるんだ」
「っ………! 克也…っ!!」
「罪は忘れない。自分のした事は一生抱えて生きる覚悟がある。それでも…お前と一緒に幸せになりたいんだよ…瀬人。お前の事を…愛しているから…っ!」
「克也…っ!!」

 城之内の告白に感極まった海馬が彼に抱き付くのと、城之内が海馬の身体を引き寄せたのはほぼ同時であった。春の夕闇の中、二人は強く強く抱き締め合う。

「だから瀬人…。オレを助けてくれ。罪の縁からオレを救い出してくれ…!」
「助ける…っ! 助けるから…克也!!」
「お前が救ってくれるのなら…オレは…オレ達は絶対幸せになれるから…。そう信じているから…瀬人!!」
「分かっている…!! 必ず幸せになろう…克也…っ!」

 コクコクと何度も頷きながら、海馬は城之内の背に回した腕に力を込めた。



 春先の風はまだ冷たく、日が暮れればまた冬に戻ってしまう。けれど春は確実に近付いている事を、沈丁花の香りが教えてくれていた。
 長かった冬が終わり温かな春が来る。それはまるで城之内の事のようだと海馬は思った。
 せとと愛し合った人生の春、村人を守る強い神官という栄光の夏を越し、悲劇の夜を迎えて食人鬼に身を堕とした秋の落日。そして罪を償う為に幽閉された千年の冬が彼を変えてしまった。だがどんなに冬が長かろうが、春は必ず遣って来る。
 そしてその春が、今まさにやって来ようとしている事を海馬は感じ取っていた。

 そうだよな…せと。オレと共に、克也に春を届けてやってくれ。

 城之内の肩越しに見える社に、海馬は心の中でそう願う。まるでその願いに呼応するかのように強くなった沈丁花の花の香りに満足しながら、海馬は城之内に身を委ねていった。

 上空には春の満月が、白く清く…そして美しく輝いている。その月の光に照らされながら、二人はいつまでも離れる事無く…幸せを感じていたのだった。