黒龍神よ…。
ただの思念体の私が、彼等の幸せを守る為に闘えた事を…心より感謝致します。
心残りはありません。彼等が幸せになる事こそが…我が望みであり、私の存在意義の全てですから。
さようなら、私の愛しい人達。
後は…二人だけで歩んでいきなさい。
この明るい世界で…幸せと共に…。
「海馬君…! 海馬君!!」
瞼の裏が明るくて、目を瞑っていても眩しさを感じる。何か硬い物の上に寝転がっているらしく、背中が痛くて更にヒヤリとした冷たさを感じた。まだ春先の風は冷たい。それでも全身に降り注ぐ太陽の光は温かく、その心地良さに至極安心した。
「海馬君!! 起きて…!!」
ふと、海馬は誰かに揺さぶられている事に気が付いた。誰かが自分の名前を呼びながら、肩を掴んで揺らしている。かなり必死なその声に、未だ重い瞼をそろりと開けてみた。その途端、眼球に突き刺さる程の眩しい太陽の光と、真っ青な空が目に入ってくる。贖罪の神域にいた頃には決して見られなかった明るい太陽と澄み渡った青空…。そしてその青空を背景にして、見知った顔が自分を覗き込んでいる事に気が付いた。
「遊…戯…?」
よく知っている顔。小さい頃から共に神官としての…そして贄の巫女候補として修行に励んだ幼馴染みの姿。最後に別れた時に比べれば大分大人っぽくはなっていたが、それでもそんなに変わっている様子は無い。
昔から、よく明るく笑う子供だった。辛そうな顔を見たのは、あの別れの日が初めてだったかもしれない。それ程までに常に穏やかで…楽しそうにしている遊戯の顔が、今は至極真剣だった。心から心配そうな目で自分を見詰めている。
「海馬君…! 良かった…目を覚ましてくれたんだね」
「遊戯…? オレ…は…一体…?」
「還ってきたんだよ、海馬君! 君はこっちに還ってきたんだ…っ!!」
海馬と目が合った瞬間に遊戯は泣きそうに顔を歪めて、本当に嬉しそうに微笑んだ。実際に眦には涙が浮かび、それを袖口でゴシゴシと拭っている。
だがそんな嬉しそうな遊戯とは別に、海馬の心は全く違うところにあった。
「克也…は…?」
「海馬君…?」
「遊戯…。克也はどこだ…っ!?」
叫ぶように城之内の名を口にし、海馬は慌てて起き上がった。急に起き上がった為に頭がクラリとしたが、額に手を置く事で何とか耐える。未だぐらつく視界の中で辺りを確かめてみると、そこは黒龍神社の大鳥居の真下だという事が分かった。自分は今まで参道の石畳の上に寝転がっていたらしい。
クラクラとする視界に傾ぐ身体を、遊戯が背後から支えてくれた。彼はホッと息を吐きながら、安心したように微笑んでいる。
「海馬君…。本当に…良かったよ。着物の胸元が血だらけだったから焦っちゃったんだけど、怪我もしてないみたいだったしね」
「遊…戯…」
「見届けの巫女様がね、ついさっき黒龍神からお告げを聞いたんだ。今から大事な人達が還って来るから迎えに行くが良いって。僕も丁度神社の方に勤めに来ていたし、それで見届けの巫女様と一緒にここへ来たんだ。そうしたら海馬君が倒れていて…」
「遊戯…っ! 克也は…克也はどこにいる…っ!?」
「か、海馬君…?」
「一緒に還って来た筈なんだ…!! 克也は…克也は…っ!!」
必死の形相で縋り付く海馬に、遊戯は本当に驚いた顔をしていた。そしてパニックを起こしている海馬を宥めるように肩に手を置き、視線を合わせてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ねぇ…海馬君。少し落ち着いて聞いて欲しいんだ。僕は贖罪の神域で何が起こったのか分からないし、この三年間、君が一体どんな風に過ごして来たのかも全く知らない。でも…何となくだけど分かるような気がするんだよ」
ふぅ…と深く溜息を吐きながら、遊戯は少しだけ苦しそうな笑みを零した。
「僕は最初…君が食人鬼から逃げてきたんだと思ったんだ。でもどうやらそうじゃ無いらしい。黒龍神からお告げを聞いた見届けの巫女様もそんな事は一言も言ってらっしゃらなかったし、目覚めた時の君の態度を見れば一目瞭然だ。海馬君…君は…、あの食人鬼と一緒に生きる為に還って来た…。そうだね?」
遊戯の言葉に海馬はただ黙って頷いた。
そうだ。自分は城之内と共に、現世で生きて幸せになる為に還って来たのだ。例え城之内が長く生きられない運命を抱えていたとしても、それでも残された数年を明るい太陽と澄んだ青空の下で生きる為に必死の想いで還って来たのだった。
だからこそ、海馬は先程から城之内の事が気に掛かって仕方無かったのである。共に生き、共に過ごし、共に幸せになる為の男を…。
焦ったような表情を見せる海馬に対し、遊戯はどこまでも落ち着いていた。そして眉根を寄せ、酷く悲しそうに口を開く。
「あの食人鬼は…見届けの巫女様のお兄さんは…、確かに海馬君と一緒に還って来たよ…。だけど…彼には会わない方がいいと思うんだ…」
酷く辛そうに告げられた言葉に、海馬は首を捻った。遊戯が何を言っているのか全く分からなかったのである。
「な…何故だ…?」
「っ………」
不審そうに聞き返す海馬に、遊戯は今度は何も言う事が出来なかった。ただ下唇を強く噛み、悔しそうな表情を見せている。
「僕は生まれた時から三大分家の神官として…そして贄の巫女候補として、ずっと黒龍神に仕える為に修行してきた。黒龍神は決して穏やかな神様では無いけれど、それでも強くて優しい…思いやりのある神だと信じて来たのに…何だか裏切られた気分だよ」
「どういう…事だ…?」
「まさか…ここまで還しておいて…。惨いよ…」
「お兄様…っ」
遊戯の言葉と同時に背後から少女の泣き声が聞こえてきた。恐る恐る振り返ると、少し離れた石畳の上に見届けの巫女が座り込んでいるのが見える。そしてその少女の前には、見慣れた男が横たわっていた。
「克…也…?」
未だふらつく身体を叱咤して、海馬はヨロリと立ち上がった。「海馬君…!」と名前を呼んで止めようとする遊戯を振り切って、一歩一歩城之内に向かって歩いて行く。やがて海馬の気配に気付いた見届けの巫女が振り返り、海馬と視線を合わせた。可憐な少女の顔は涙でグシャグシャになっている。
「瀬人…? あぁ…良かった。目覚められたんですね…」
目を真っ赤に腫らしながら、それでも少女は健気に笑ってみせた。その笑顔を見ながら、海馬も傍らに膝を付く。目の前に横たわっている城之内の身体は、ピクリとも動く気配が無かった。
「貴方だけでも無事に還っていらして…本当に良かった…。兄も…この世界にいられる事を喜んでいるでしょう…」
「どういう意味ですか…それは」
「まだ遊戯に何も聞いていなかったのですね…。兄は…兄は…」
「静香様…?」
「兄は…此方に還って来た時にはもう既に…心臓が止まっておりました。今も全く目覚めようとはしません。多分…もう…死んで…」
「う…嘘です…」
「瀬人…?」
「嘘です…そんなの…嘘です…っ! オレ達は…この世界で一緒に生きる為に還って来たんです!! コイツが死ぬなんて…絶対に有り得ません!! そんなの嘘です!!」
信じられない言葉を聞いて、海馬は頭に一気に血が昇るのを感じていた。先程の遊戯の辛そうな顔や、目の前にいる見届けの巫女の泣き顔が、彼等が決して嘘を言っている訳では無い事を知らしめている。だが海馬は、それでもその言葉を信じる事は出来なかった。
隣に座っていた見届けの巫女の身体を押しのけて、城之内の身体に縋り付く。胸元や首筋の脈を探ってみると、確かに鼓動は感じられない。身体は至極温かいのに、これで心臓が完全に止まってしまっているだなんて、とてもじゃないが信じる事は出来なかった。我慢出来なくて襟元を掴み上げて激しく揺さぶる。それでも何の反応も示さない事に腹が立って、手を振り上げて城之内の頬を強く打ち据えた。
「起きろ…克也!! いい加減起きろ!! 還って来たんだぞ!! オレ達は…還って来たんだぞ…っ!!」
バシッバシッと皮膚を叩く乾いた音だけが辺りに鳴り響く。半狂乱になった海馬に対し、遊戯も見届けの巫女も何も出来なかった。ただ黙って海馬と城之内を見ている事だけしか出来ない。
「克也…っ!! 克也…っ!!」
目を覚まして欲しくて。一目でもこの眩しい太陽と綺麗な青空を見て欲しくて。海馬は必死になって叩き続けた。だがふと…小さな異変に気が付いてその手を止める。
「克也…?」
叩かれた城之内の頬が、じんわりと赤くなっている事に気付いたからだった。そう言えば…先程触った城之内の身体が至極温かかった事を思い出す。
海馬が知っている城之内の体温は普通の人間よりもずっと低くて、触ればいつもヒヤリと冷たく感じていたのだ。それが今は…自分と同じくらい、いやそれ以上に温かい。注意深く…もう一度だけ城之内の首筋に指先を当てた。最初は何も感じられなかった鼓動。それが…微かにだが感じる事が出来る。
「生きてる…」
ポツリと呟いて城之内の胸元に顔を寄せた。左胸に耳を押し付けると、確実に心音が大きくなっていっているのに気付く。その心音を聞きながら、海馬は頭の中に『再生』という文字を思い浮かべた。
現世に還って来た時、多分城之内の身体は一旦作り替えられたのだ。この世界で生きて行けるように…黒龍神の手で。
『それから、黒龍神を信じなさい。決して悪いようにはしないだろうから』
脳裏にせとの言葉が甦る。もし自分の予想が正しければ、彼はもう食人鬼では無い筈だ。それならば…それならば今の城之内は…。
「っ………」
海馬が胸元から顔を上げたのと同時に、城之内の身体がピクリと動き小さく呻く声も口元から漏れた。慌ててその顔を覗き込めば、眩しそうに顔をしかめながらゆっくりと瞳を開けようとしているところだった。何度かパチパチと瞬きを繰り返しながら、そろそろと琥珀の瞳を開けていく。海馬の目の前に現れた城之内の瞳は、もう獣の瞳では無かった。人間と同じ大きな瞳孔。うっすらと開かれた口元にも牙は無く、体温も温かい。金色の髪だけはそのままだったが、城之内は間違い無く人間に戻っていた。
「克也………」
涙ぐみながら見詰める海馬苦笑しつつ、城之内は笑いながら口を開く。
「痛ぇな…瀬人。そんなに叩かなくても生きてるよ…」
「貴様がさっさと目を覚まさないからいけないのだ…」
「仕方無いだろ…。身体の中身を作り替えてたみたいだしな」
「克也…。それならばやっぱり…もう…」
「あぁ。もうこの世界で飢えなくても良さそうだ。黒龍神に…感謝しなくっちゃな」
腫れた頬を擦りながら笑っている城之内と、泣きながら微笑んでいる海馬。やがて城之内が手を伸ばし海馬の肩を抱き寄せたのを切っ掛けに、二人は強く抱き締め合った。明るく眩しい太陽と、どこまでも綺麗に澄み渡っている青空の下で、強く強く互いの身体にしがみつく。
「おかえり…克也」
「ただいま、瀬人」
この明るい現世と、そして人間の身に還れた事を二人で感謝しつつ、温かい春先の日差しに照らされながらいつまでも離れる事は無かった。
数刻後。漸く落ち着いた二人の前に、見届けの巫女と遊戯が何かを持って来た。一つは赤と青の組紐の二つの鈴が結び付けられた本物の黒炎刀。そしてもう一つは…丸くて小さな真っ白い小石だった。
「貴方達が倒れていたすぐ側に、これも落ちていました…」
見届けの巫女が差し出すその小石を、城之内は震える手で受け取った。掌の中にすっぽり収まるその小石を、青い瞳と琥珀の瞳がじっと見詰める。城之内の手の上にある石ころに海馬が指先を伸ばし、その表面を優しく撫でた。
「『要石』…。せと…だよな…コレ」
「あぁ…そうだな」
「こんな姿に…なってしまって…」
「せとは…オレ達を救う為に…この姿になる事を決めたのだ。それが…魂を持たぬ自分の最後の役目だと信じて」
「千年間もずっとオレの側にいたっていうのに…オレはそれに全く気付けなかった」
「それは仕方の無い事だ。お前だけでなく歴代の贄の巫女も誰もせとの存在に気付けなかったのだからな。気付いたのは…オレだけだった」
「ずっと千年間オレと一緒に閉じ込められていて…それで最後にこの姿とは…。余りにも可哀想だ…」
「だがそれがせとの望みだった。オレとお前が幸せになる事が…せとの唯一の望みだったのだから…」
「瀬人………」
「克也、幸せになろうな。せとの分まで…。それがオレ達が出来るせとに対する供養なのだから」
「瀬…人…っ」
その日…。小さな白い石ころを握り締めながら、二人はいつまでも肩を寄せ合って泣いていたのだった。