克也が私を見詰めている。
この千年間…ずっと側にいたというのに、全く気付かれる事無く日々を過ごして来た…ただの思念体の自分。
触れる事も語りかける事も、何かを手助けする事も叶わず、ただ見守る事だけしか出来ないこの身。
それをどれだけ疎んで来たか…。
だがそんな私でも、たった一つだけ出来る事があったのだな。
それは克也と救いの巫女をここから解放する事。
さぁ…克也、それに瀬人。
今からお前達を解放しよう。
別れは辛いが…きっと大丈夫だ。
私はお前達の事を…信じている。
まるで時間が止まったようだった。真っ直ぐに立ち尽くし黒炎刀の切っ先を城之内に突き付けているせとと、そしてその刃越しにせとを見上げる城之内。彼等はどちらもピクリとも動かず、黙ったままじっと見つめ合っていた。静かで…そして息の継げないような緊張した時間が過ぎる。少し遠くからその様子を見ている海馬にも、二人が感じている緊張感が伝わってきた。
やがて…驚きで目を丸くしていた城之内が、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。琥珀の瞳をスッと細め、至極真剣な表情でせとの事を見詰めている。そして深い溜息を一つ吐くと、一旦瞼を閉じた。何かを思い込むように深く呼吸をし、そして再び瞳を開ける。
その瞳を見て、海馬はハッとした。今まで見た事の無い色がそこにあったからだ。
贄の巫女としてこの贖罪の神域に来てからの三年間、海馬はずっと城之内の事を見続けて来た。よって、彼の持つ琥珀色の瞳に浮かび上がる様々な色も一杯見てきたのだ。海馬を思いやる時は、明るくて優しい色に。彼の逆鱗に触れた時は、赤く燃えるような色に。そして全てを諦めていた時は、悲しく沈んだ色に…。『目は口ほどにものを言う』と言うが、城之内の瞳は本当に素直だった。城之内がどんな嘘を吐いても、あの琥珀の瞳を覗き込めば全てが窺い知れる程に正直だったのである。
「克…也…?」
城之内の瞳が浮かべる色を、海馬はもう既に全部知っていると思い込んでいた。だが、今目の前で彼が見せている色は、海馬が全く知らない色。ただただ強く…真剣な光を放つ金色の瞳だった。
「せと…」
眩い程に琥珀を金色に染めながら、城之内は深い声でせとの名を呼んだ。
「せと。お前と初めて会った時の事を、オレはまだハッキリと覚えているよ。あの頃はオレもお前も、まだ数えで九つだったな。春先の…まだ風が冷たい頃だった。それでも日中は少しずつ暖かくなってきて、水の入っていない水田には蓮華の花が満開に咲いていたっけ」
うっすらと…ほんの少しだけ口角を上げて城之内が微笑む。遠い昔を懐かしむその顔も、海馬は見た事が無かった。ほんの少しだけズキリと胸が痛む。
「父上と一緒に春先の村の様子を見て回ってたんだよな。そしてそこにお前がいた。田んぼのあぜ道に座り込んで、蓮華の花を摘んでいた。一瞬女の子かと思ったけど、着ていた着物から男だと分かって…父上があそこの邸の息子だよって教えてくれて…」
城之内が優しく微笑みながらせとを見ている。その笑顔を見て海馬は胸が痛くなり思わず視線を外そうとしたのだが…何故だかそれが出来なかった。城之内が称えている瞳の色が、ただ優しいだけでは無い事に気付いたからだ。
「オレはあの瞬間から恋に落ちたんだ。好きだったよ…本当に好きだった。心から愛していた。例え正式な結婚は出来なくても、終生を共に過ごしたいと願っていた。あの悲劇の晩に…オレがこの手でお前を殺してしまってからも、ずっと愛していた。千年の長い刻の中で、オレのこの気持ちは全く変わらなかったんだ。そう…コイツが現れるまでは」
そう言って城之内は少し離れた場所にいる海馬に視線を向けた。真剣な光を称えた琥珀の瞳が海馬を見詰める。その視線を受けて、海馬は自らの心臓がドキリと高鳴るのを感じた。顔に血が昇って熱くなっていくのが分かる。それでも視線を外さないでいると、城之内がニッコリと笑ってくれた。まるで何も心配するなとでも言うように…。
「コイツが…瀬人が現れてから、オレの気持ちは一変した。気付いたら本気で愛していた…コイツ無しじゃいられなくなっていた」
ふぅ…と深く息を吐きながら、城之内は再び視線を目の前のせとに戻す。
「せとを愛していたのは本当だ。千年間全く気持ちが変わらなかったのも本当だ。だけど瀬人は、オレが千年間大事に抱き続けて来た気持ちをあっさり壊してくれたんだ。そりゃ…最初は戸惑ったさ。オレが愛していたのはせとの筈なのにって思って…な。だから瀬人に惹かれるのは、せとに似ているからだと思い込もうとしたんだ。それも全くの無駄だったけどな」
全く決意の揺らがない声で言葉を紡ぎながら、城之内はその場でゆっくりと立ち上がる。そしてせとと向かい合わせになり、強い視線で目の前の男を射貫くように見詰めていた。せともその視線を受けながら全くたじろがない。それどころか、少し嬉しそうにしているように海馬には見えた。
「せと…。オレは今、瀬人を愛している。だからこの命を捧げても、コイツを解放して現世へ還してやりたいと思っていた。けれど…その決意もお前が現れて揺らいでしまった…」
「それは一体どういう事だ?」
城之内の声がほんの少しだけ揺らぐ…。決意は全く変わっていない。相変わらず琥珀の瞳が強い金色の光を帯びている事からもそれが分かる。ただ…感情を抑える事が出来なくなっているようだった。少しずつ俯いていく城之内に、せとは疑問を投げかける。相変わらず冷たくて硬い声。だが海馬には…それが先程より和らいでいるように感じていた。
「克也?」
完全に俯いてしまって何も喋らなくなった城之内に、せとは促すように名前を呼ぶ。その声にもう一度顔を上げた城之内は目を真っ赤にして泣いていた。眦から零れ出た涙が頬を伝い、唇の端から口内に入り込む。それをコクリと喉を鳴らして飲み込んで、城之内は震える声で言葉を紡ぐ。
「生き…た…い。死を…覚悟していた筈だったのに…。それなのに…生きたいと…思ってしまった…」
涙をボロボロと零しながら、城之内は小さく震えていた。握られた拳に力が入って血管が浮き出る。
「本当は…死にたくなんてない。瀬人と共に現世に還りたい。そして一緒に生きていきたい。もう一度明るく輝く太陽と…美しいどこまでも澄み渡った青空が見たい。そして何より、その太陽と青空の下で微笑んでいる瀬人が見たい。オレは生きて…還りたいんだ」
「だがお前は食人鬼だ。人を食わねば生きてはいけまい」
あくまで冷静にそう言い放つせとの前で、だが城之内は瞳の輝きを無くさなかった。
「人間は…もう食べない」
「新月の飢餓はどうするのだ」
「どこかに閉じ込めておいて貰うか…動けないように繋いで貰う」
「飢餓は苦しいぞ。人間のようにすぐ死にはしないだろうが、この間のように衰弱しきってやがては死んでしまうだろうな」
「それでもいい。これ以上こんな場所で過ごすくらいなら」
「それでは海馬瀬人と終生を共にする事など無理なんじゃないのか?」
「いいんだ。ほんの数年でいい…。あの明るい世界で瀬人と共に過ごしたい。あの眩しい太陽と綺麗な青空の下で瀬人に見守られて死ねるんなら…それが本望だ」
城之内は微笑んでいた。ホロホロと泣きながら満足そうに微笑んでいた。その笑みにせとはコクリと一つ頷くと、黒炎刀の刃をもう一度鞘に戻してくるりとひっくり返し、持ち手の部分を城之内に差し出す。城之内は暫く黙って黒炎刀を見詰めていたが、やがて手を伸ばしてしっかりとその手に柄を握り締めた。チリンチリンと二つの鈴が美しい音を奏でる。まるで城之内とせとの決意の固さを知らしめているように…。
「そうか。ならば自らが成すべき事をするが良い」
城之内が黒炎刀を受け取った瞬間、せとははっきりとそう口にした。その言葉を聞きながら、城之内は黒炎刀の刃を鞘から抜き去る。血に濡れた白刃が怪しく光っていた。その刃を捻るように持ち上げ、鋭い切っ先をせとの胸元に突き付ける。そして流れる涙を拭おうともしないまま、悲しそうに笑って口を開いた。
「許してくれ…せと。オレは自分が生きたいが為に…自分が幸せになる為だけに、もう一度お前を殺す」
城之内の言葉に、せとはもうそれ以上何も言う事は無かった。ただ幸せそうに笑って頷き、目を閉じて立ち尽くす。そんなせとに向かって城之内が一歩を踏み出したのを見て、海馬は慌てて立ち上がって駆け出した。
「克也…っ!!」
夢中で叫んで城之内の腕に縋る。そして黒炎刀を握る手に、自らの掌を重ねた。白く細い指がキュッと城之内の節くれ立った指に絡み付く。
「瀬人…?」
「克也…。一人では…無いから…」
城之内と同じようにボロボロと泣きながら、海馬は城之内の掌越しに黒炎刀を握る手に力を込めた。
「お前の罪も…苦しみも…哀しみも…全てオレが受け止めるから…。共に…背負うから…。だからお前一人に辛い想いなんて…もうさせない」
「瀬人…お前…」
「オレは救いの巫女だ。お前を救う為に生まれて来たのだ。だから、もうお前一人に全てを押し付ける事なんてしない。共に罪を犯して共に還ろう。あの明るい世界へ…」
「瀬…人…っ。共…に…? 共に…か…?」
「あぁ、そうだ。共に…だ」
「そうか…。ならば…連れて行ってくれ。オレを…あの明るい世界へ。お前のその手で…導いてくれ」
チリ――――――ン………。
お互いに涙で顔をグシャグシャにしたまま頷き合い、強く黒炎刀を握り締める。その時にふと…いつものあの鈴の音が脳裏に響いて、海馬は慌てて顔を上げた。目の前には覚悟を決めたせとの姿。相変わらず目を閉じたままだったが、その口元は優しく…そして満足げに微笑んでいる。
『それで良い。それで良いのだよ…救いの巫女よ』
声が…響いてくる。穏やかで優しい…いつものせとの声が。城之内と海馬の事を心から想い、いつも優しく見守っていてくれた彼の本当の声が…聞こえる。
『これからは…お前が克也の事を見守るのだ。彼の事を…頼んだぞ』
「せと…っ」
『それから、黒龍神を信じなさい。決して悪いようにはしないだろうから』
「っ…! せ…と…っ」
『今まで本当にありがとう。お前のお陰で私も楽しかったよ。最後にお前達を救う役目も果たす事が出来たし…もう何も思い残す事は無い。満足だ』
「っ…ぅ…! ふぅ…くっ…! せとぉ…っ!」
『泣くな…。現世に還ってからが本当の闘いだと思え。お前にはまだやる事があるのだぞ…瀬人』
「せと…っ! せと…っ!!」
『さぁ、さようならだ瀬人』
目の前のせとが大きく深呼吸をし、両手を広げた。まるでそれが合図だったかのように、黒炎刀の刃がせとの身体に呑み込まれていく。城之内と海馬…どちらが先に動いたのかは分からない。ただ黒炎刀は確かにせとの身体を貫き、そして彼の身体は大量の花びらに覆われて掻き消された。
その花吹雪は一度ザーッと辺りに広がり、そしてもう一度固まってまるでつむじ風の様に渦を巻きながら城之内と海馬の身体を巻き込んでいく。余りの激しい風に、息を継ぐ事も目を開ける事も出来ない。ただ間近にいた城之内の身体にしがみついて、海馬は少しずつ意識を失っていった。
『さようなら…二人共。私の愛する者達。さぁ…還りなさい。お前達が生きる場所へ』
最後に風の音に混じって遠く聞こえた優しい声に海馬は新たな涙を流しながら、意識を闇に落としたのだった。