*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第二十三夜

 幸せだった夜が明けて、悲劇の朝が幕を開ける。
 動き出した歯車はもう止まらない。
 私の力では…もう無理なのだ。
 この歯車を止める事が出来るのは…、いや、歯車の向きを変える事が出来るのは…ただ一人だけ。
 救いの巫女よ…どうかどうか…。
 私はもう…誰の涙も見たくは無い…のだ…。

 




「――――よ。オレの………を用意……くれ」

 明け方、誰かが自分から離れて行く気配に海馬は目を覚ました。未だ重い瞼を少しだけ開けて視線を巡らすと、薄明るくなってきた部屋の中で一糸纏わぬ姿の城之内が布団から起き上がっているのが見える。そういえば先程城之内が何か言っているのが聞こえたが、夢うつつで聞いていた為、何と言っていたのかはっきりとは聞こえなかった。

「………」

 いつもは目が覚めるとすぐにでも行動出来る海馬だが、今日に限って身体が重くて自由にならない。気を抜くとすぐにでもまた眠りに誘い込まれそうになるのを何とか耐えて、城之内の行動を黙って見詰めていた。
 全裸で起き上がった城之内が枕元に手を伸ばし、そこに用意されていた着物に袖を通す。身に着けられたそれを見て、海馬は自分は未だ眠りの中にいて夢を見ているのだと思った。城之内が身に着けた着物がいつもの黒い着流しではなく、白い着物と青い袴の神官着だったからだ。
 見慣れただらしのない風体ではなくキッチリと着込まれたその姿に、知らず嘆息する。
 昨夜…城之内と初めて純粋に肌を合わせた。多分そのせいなのだろう…と海馬は思う。記憶が千年前の『せと』と混乱しているのだと感じたのだ。

 これは千年前のせとの記憶。多分初めて結ばれた夜の、次の日の朝の光景だ。そうでないと城之内のこの格好の説明が付かない。自分は今、千年前にせとが見ていた光景を夢として見ているだけ…。きっとそうに違いない。

 そう思ったら何故だか少し安心し、海馬は城之内に向かって手を伸ばした。「克也…」と呼ぶと、腰紐をギュッと縛っていた城之内が驚いたように振り返る。そして海馬の顔を確認すると、苦笑しながら近付いて来て枕元に座り込んだ。

「ゴメン…。起こしちゃったな」
「いや…大丈夫だ…」

 ふわりと笑みを浮かべながら首を振って応えると、城之内も同じように笑ってくれる。そして大きな手で前髪を掻き上げられた。現れた額に掠めるようにキスをされ、そのまま掌で視界を隠されてしまう。ひやりとした体温が、寝起きで火照った肌に心地良かった。

「まだ起きるには早い時間だ…。もう少しゆっくり眠っておいで」
「克也…?」
「大丈夫だ。起きたらきっと…全て終わっている。何もかも悪い夢だったんだ…」
「かつ…や…」
「愛してるよ…」
「あぁ…。オレも…だ…。オレも…愛してる…克也…」

 視界が闇に閉ざされている所為だろうか。目覚め掛けた意識がまたウトウトと眠くなる。大きな掌の向こうで城之内が何かブツブツ呟いているのが耳に入ってきた。何だろう…何を言っているのだろう…。海馬には全く理解出来なかったが、その言霊の調べはとても心地が良くてうっとりする。何だかとても安心して、海馬は再び眠りの世界へと引き摺り込まれて行った。
 本当だったらそのまま深く眠ってしまっていただろう。完全に深い眠りに落ちる直前に聞いた城之内の言葉が、海馬の脳裏に届いていなければ…。

「本当に…愛しているよ。おやすみ…瀬人」

 瀬人…瀬人…瀬人…。今、城之内は瀬人と言った。『せと』ではなく『瀬人』と。
 それにいつものあの鈴の音が聞こえなかった。過去の記憶を垣間見る時は、いつも決まってあの鈴の音が頭に響くと言うのに。それが意味する事は…今見た事は全て現実だという事…。
 その事を認識した途端、海馬は落ちかけていた意識を取り戻した。そして急いで目を開けようとしたのだが、それが叶わない事に気付き内心舌打ちをする。
 気を抜けば今すぐにでも眠りに落ちてしまいそうに気怠い。心地良い眠気が海馬の全身を覆っている。だが海馬はそれに全力で抵抗していた。この眠気は自然な眠気では無いと悟ったからだ。
 先程城之内が呟いていた言霊。多分アレが人を眠らす為の術か何かなのだろう。思えば彼は黒龍神に愛されて生まれ、人々を守る神力を持った神官だった。食人鬼に身を堕としたとは言え、このくらいの術は城之内にとっては大した事では無いのだろう。それに寝起きに聞いたあの言葉。普段は着ていない神官着をマヨイガに用意するように言っていたのだったら、話は全て繋がる。

「ふざ…ける…な…っ!」

 ギリギリと歯を食いしばり、大波のように襲う眠気に必死に抗う。黒龍神に仕える神官として、そして贄の巫女としての修行は積んできたが、神力に関しては城之内に遠く及ばない。特別な術など何一つ使えず、ただ城之内の食欲を満たす事しか出来ない。それでも海馬は信じていた。救いの巫女として、自分にしか出来ない事があると…ずっとそう信じてきた。

「くっ…っ!! か…つ…や…っ!! 克也…っ!!」

 閉ざされそうになる意識に反発し、大声で城之内の名前を呼んだ時だった。突然目の前で、パンッという何かが破裂したような音が聞こえ、それと同時に急に意識がクリアになった。先程まであれほど重かった身体も嘘のように軽くなる。バチッと目を開けて慌てて辺りを見回しても、既に城之内の姿は見えない。だがそれ程時間は経っていないようだ。

「くそっ…! 巫山戯おって…っ!!」

 普段余り口にしない汚い言葉を吐きながら、海馬は急いで布団から出て立ち上がった。ふと、枕元に自分用の巫女着が用意されているのに気付く。一瞬無視してそのまま単衣で城之内を捜しに行こうかと思ったが、思い直してちゃんと着替える事にした。
 気持ちが焦って手が震える。それでも海馬は大きく息を吐き、しっかりと巫女着を身に着けた。帯を締めながら「大丈夫…大丈夫…」と自分に言い聞かせるように呟く。

 城之内は…オレを愛してると言ってくれた。オレにありがとうと言ってくれた。そして…優しく抱いてくれた。
 そんな城之内がオレを置いて行く筈が無い…っ!!

 そこまで考えて…海馬はふと手を止めた。そして、今自分が何を考えていたのかを思い返してみる。

「置いて行く…? 城之内がオレを置いて行くと…オレは今、そう考えたのか?」

 何故そう考えたのか分からない。だがどうしてもその考えが頭から離れなかった。
 城之内の存在が遠く離れて行く…。だがそんな事、どうしたって許せる筈が無い。自分は救いの巫女。城之内を救う存在だった筈だ…っ!!
 やはりもたもたしてはいられないと、急いで着付けを終えて海馬は自分の手首を探った。そこに結びつけられていた筈の青い組紐の鈴を、いつものように腰に結わえようとしたのだが…。だがそこには何も無かった。

「………っ!?」

 どこかに落としたのかと思って足元を見回しても、どこにも鈴は落ちていない。

「鈴が…っ!!」

 途端に泣きそうになって、跪いて辺りを探ってみる。だがどんなに捜しても、あの青い組紐の鈴はどこにも落ちていなかった。
 大事なものなのだ。アレはとても大事なもの。あの鈴が無いと何故だかとても恐ろしい事が起きるような気がして、海馬は気が気では無かった。

 チリ――――――ン………。

 無いと分かっていても諦める事が出来ず必死に捜している時に、ふといつものあの鈴の音が辺りに響いた。昨日からずっと聞いていなかった為、妙に懐かしく感じるその音色に海馬は顔を上げる。そして庭先に佇むせとの姿を見て、海馬はクシャリと顔を歪めた。

「せと…っ。克也が…いなくなって…それから…鈴が…っ。」

 半ば混乱しかかって、海馬はせとに助けを求めた。城之内がいなくなり、大事にしていた鈴も無くなり、もはや何から手を付けていいのか分からなくなっていたのである。だが当のせとは落ち着き払って、焦りを隠せない海馬の元に静かに歩み寄って来た。そしてその場に膝を付くと、海馬の顔を覗き込んで真剣な声で言葉を放つ。

『救いの巫女よ…。落ち着いて聞きなさい』
「せ…と…?」
『鈴は克也が持って行ったようだ。そして今、克也は黒龍神社の本殿に籠もって詔を上げ、何かを祈っている。側に行って内容を聞き出したかったのだが、強い結界に阻まれて思念体である私では側に寄る事が出来ない。けれどお前ならその結界を破れる筈…。今から克也の元に行ってあげなさい』
「克也が…祈りを…?」
『そう。黒龍神に何かを懸命に祈っている。それが何かは分からぬが…よからぬ事である事だけは確かだろう』
「よからぬ事って…一体何を…」
『救いの巫女よ…ここが正念場だ。克也を救えるかどうかは…これからのお前の行動一つで決まるのだ』
「っ………!」
『お前のもたらす救いが一体どんな形なのか…それは私にも分からない。この先、克也とどのような決着を迎えるのかも…全く見えないのだ。だけれども…黒龍神の預言は絶対だ。そなたが克也を救うのだよ…救いの巫女、いや海馬瀬人よ…』
「せと………」

 そうだ…。こんなところでパニックに陥っている暇なぞ無い筈だ。三年前のあの日…自分自身に強く誓ったではないか。
 必ず城之内を救ってみせると!!
 第百代目の贄の巫女が救いの巫女となって鬼を救う…それは黒龍神が残した絶対的な預言。けれど救いの形が不明のままで、どういう意味での救いなのかはまだ誰にも分から無い。
 だが海馬はもう何も怖くは無かった。顔を上げて、せとの脇を通り過ぎ、マヨイガを出て本殿へと向かう。

 何が起きても、もう恐れはしない。怯みもしない。ただこの命を掛けてでも城之内克也を救ってみせると…そう強く決意していた。