一人で見上げる冬の満月は…それはそれは美しいものだ。
彼が…救いの巫女が私を捜しているようだが、今日は彼の前に現れるつもりは無い。
私を気に掛けるより、克也の事を気に掛けなさい。
三年越しの思いが漸く実を結ぶというのに、他人を気に掛けている暇は無いだろう。
月もほら…こんなに美しい。
恋人が結ばれるには丁度良い晩だ。
なのに…何故だろうか。
こんなに美しい満月なのに、見ていると背中にぞくりと悪寒が走るのは…。
幸せな夜の筈なのに…何故こうまで不安になるのであろう…。
少しやらなければいけない事があると言って本殿の方に姿を消した城之内を見送った後、海馬は幸せな気持ちのまま夜を過ごしていた。マヨイガが用意した食事を摂っている間も、心の中はずっと温かかった。いつもは一人寂しく食べている食事も、今日は少しも辛くは無い。今は姿が見えなくても、会おうと思うえばいつでもあの城之内と触れ合える事を知っているからだ。
ただ一つだけ、せとの姿が見えない事だけが気に掛かった。
今日は昼間に別れたきり彼の姿を見ていない。特に最近は海馬が一人で食事をしている時の話し相手になってくれていた為、あの透き通った姿が見えないと少し寂しく感じてしまう。
現れるのはいつも向こうからで、こちらからせとにコンタクトを取る事は出来ない。それでもいつもは自分の気持ちを汲んで良いタイミングで現れてくれるというのに、今夜は一度たりとも姿を現わさなかった。
一瞬ヤキモチを妬いているのかとも思ったが、頭に浮かんだその考えを即座に否定する。せとはそんなつまらない嫉妬をするような者では無い。むしろ思念体として悟りを開いているような奴だ。きっと何か別の理由があるのだろう…と思い至り、海馬はそのまま食事を進める事にした。
食事を済ませ、いつものようにゆったりと湯浴みをしてから部屋に戻ると、冬の冷たい夜風が入り込んでいるのに気付く。そっと覗き込んでみると、障子を開けて柱に寄り掛かっている城之内が、晴れやかな顔で夜空を見上げている姿が目に入って来た。
灯りの点いていない真っ暗な部屋の中。外から差し込む月の光が城之内の姿を照らしていて、海馬の目にはそれがとても幻想的に映る。そのまま月光の中に溶けていってしまいそうな光景に、彼を繋ぎ止めようと声を出して城之内の名を呼んだ。
「じょ…。かつ…や」
海馬の呼び声に振り返り城之内が笑う。つい、いつもと同じように名字で呼ぼうとして慌てて名前に言い変えた海馬に、クスクスと面白そうに笑みを零していた。
「オレの名前、呼び慣れないか? 瀬人」
「心配しなくてもすぐに慣れる」
面白そうに笑う城之内に気不味くなって敢えて強気にそう言うと、城之内はますます声をあげて笑っていた。そして掌をヒラヒラと振って海馬を呼ぶ。それに素直に従って側に寄り、縁側近くの畳に正座をすると、伸びてきた冷たい腕に肩を抱き寄せられ身体を密着させられた。ドキリと高鳴る心臓に気付かないふりをして、城之内の逞しい胸元に頬を寄せる。触れた肌は人間よりも幾分低い体温なのだが、そこに確かな心音が感じられて海馬はほぅ…と安心したかのように息を吐いた。
「何を…していたんだ?」
「ん? あぁ、月を見ていたんだよ。今日は見事な満月だ…」
城之内の言葉につられて空を見上げると、暗い夜空にポッカリと浮かんだ満月が目に入ってくる。もう空の真上まで昇った満月は紅くもなく、真っ白に輝いて影が出来るほどの眩しい光を地上に放っていた。
「綺麗だな…」
美しい月の光に感心してそう呟いたが、それに対する城之内の答えは返って来ない。代わりに闇夜にも明るく輝く琥珀の瞳がじっと海馬の顔を見詰め、やがてそれがゆっくりと近付いて来た。顎先を指でつっと持ち上げられ、次の瞬間には冷たい唇が押し付けられる。軽くキスをしただけで城之内は顔を離し、また真摯な瞳で海馬の事を見詰めていた。けれど、驚いたように目を丸くしてピクリとも動かない海馬の様子を見て取って、我慢しきれずに吹き出してしまう。
「ふっ…くくっ…お前…。何て顔でオレを見てるんだよ。接吻なら三年前に一度しているだろう?」
妙に可笑しそうに肩を震わせて笑っている城之内に、漸く我に返った海馬が眉を顰めて睨み付けた。
「そ、そんなに笑う事は無いだろう。確かに三年前のキスはオレからしたが、今のはちょっと不意を突かれたと言うか…少し驚いただけだ」
「きす…?」
「そうだって言って…あぁそうか。お前はキスの意味が分からないのか」
「きす…。鱚?」
「違う。今、海の魚を思い浮かべただろう」
海馬の問いにコクリと頷く城之内に軽く嘆息して、海馬は今度は自ら顔を近付けていった。城之内の頬に両手を当て、冷たい唇にそっとキスを施す。先程よりは少しだけ長く触れ合って、チュッという軽い音と共に顔を離した。
「これが…キス…だ。接吻とか口吻とかいう意味だな」
「へぇ…。要はこれも外国から入ってきた新しい言葉って事か?」
「そういう事だ」
「そうか…きすか…。ふふっ…何だか可愛い響きだな。他には何か無いのか?」
「何か…とは?」
「口吸いとか」
「は? 口吸い!?」
「あれ? 知らね? 接吻する時に相手の口の中に舌入れたり絡ませたり吸ったり…」
「あぁ…。ディープキス…だな」
「でーぷ?」
「デープじゃなくてディープな。このディープには『深い』という意味がある」
「なるほど! 深いきすって事か。分かり易いな」
「でも余り使わない言葉だな。普通はキスだけで意味が通じるから」
月の光の下で身体を寄せ合って、一見とてもロマンチックな光景なのに何だか会話は全然色っぽく無いと感じ、海馬はそれが妙に可笑しいと思っていた。それでも甘く流れる空気が心地良くて、城之内の身体に擦り寄って雰囲気にそぐわない会話を続ける。
「そういう隠語って、今はもう殆ど外国の言葉になってるのか?」
「そうだな…。隠語に限らず、最近は余り日本古来の言葉は使わなくなってきていると思う」
「他にはそうだなぁ…。例えば身体を交わす事とかにも言葉があったりする?」
「身体を交わす…? あぁ、セックスか」
「せっくす?」
「そう、セックス。肌を重ねる事を『セックスをする』と言うんだ」
「せっくすを…する…か。何かやらしい響きだな」
海馬の言葉に少し考え込んだ城之内は、寄り掛かっていた海馬の身体をギュッと強く抱き締めた。そして青く透き通る瞳を覗き込んで、コクリと喉を鳴らす。海馬には城之内が何を言いたいのかよく分かっていたが、敢えて口を出さずに彼が行動に移すのをじっと待っていた。今はそれが城之内の役目だと思ったから…。
やがて少しの時間の後、城之内が思いきった顔で口を開いた。低く甘い声で、海馬が一番欲しかった言葉を告げる。
「瀬人…。オレ…お前とせっくすがしたい。深いきすも…したい」
ほんの少しだけ戸惑うように告げられた言葉に、海馬は黙って頷いた。そしてその場で立ち上がると、微笑みながら城之内に向かって手を伸ばす。伸ばされた細く白い手に、鬼の冷たい手がおずおずと載せられるのを感じて、海馬はその手をキュッと握り込んだ。
やっと繋がったその手を…もう二度と離したくはなかったのだ。
「克也…。布団へ」
振り返れば部屋の中央には既に布団が一組敷かれている。いつものようにマヨイガが用意している事を、海馬は知っていたのだ。
海馬に手を引かれるまま立ち上がった城之内は、脇に立っている海馬の細い身体をそっと抱き寄せてその布団へと向かって行った。城之内に促されるまま黙って歩いて来た海馬は、布団まで辿り着くと自らその場に仰向けに寝転がる。次いで薄い身体の上にのし掛かって来た城之内に、栗色の前髪をサラリと掻き上げられた。現れた白い額にそっと唇を押し付けられる。
「本当に…いいの?」
思いがけない城之内の言葉に、ついクスリと笑ってしまう。
「今更だろう…? 新月の晩の時は、散々犯している癖に」
「そうだけど…。やっぱ今はアレとは…ちょっと違うと思うから」
「違う…?」
「そう、違う。だっていつもは、あくまでお前を食べる事が主目的だからさ。お前を…瀬人を抱くのは食われる痛みを少しでも軽減する為だってだけだし…。現にほら、見てみろよ。緊張でこんなに手が震えてる」
小さく震える城之内の大きな掌を包み込み、海馬はその手に唇を寄せた。冷たい肌に何度もキスをして頬を擦り寄せる。
「馬鹿だな…。緊張する事なんて無いのに…」
「そう言うなよ。純粋な意味で人を抱くなんて、千年ぶりなんだからさ」
千年前、城之内にはせとと言う恋人がいた。きっとあの悲劇が起こる前までは、彼もただせとが好きだという純粋な気持ちだけで、恋人と肌を合わせていたに違いない。それなのに、たった一晩の悲劇で幸せだった全てが城之内の元から去って行ってしまったのだ。
愛しい恋人も、大事な妹も、平和な村も、優しい村人も、神官としての地位も、黒龍神からの愛も、人間としての彼が持っていた全ての幸せが、この震える掌から零れ落ちていってしまった。後に残ったのは食人鬼になってしまった己の身一つと、贖罪の神域に幽閉されるという長く絶望的な年月のみ…。
それがこの優しい男をどれだけ苦しめたのか…。海馬はそれを考えると、胸がとても苦しくなるのだった。
「離れないぞ…」
掴んだ手の甲にもう一度強く唇を押し付けて、海馬は城之内を見上げた。琥珀の瞳がゆらゆらと揺れている。どこか不安そうな城之内にニッコリと微笑みかけて、海馬は安心させるようにその手を撫でる。ゆっくりと…ゆっくりと…冷たい肌が温かくなるまで。
「大丈夫だ。オレはお前の元を離れない。ずっと…二人一緒だ。約束するから」
海馬の言葉に、城之内は一瞬だけくしゃりと表情を歪めた。まるで泣く寸前の子供の様に。けれど次の瞬間には穏やかな表情に戻って、海馬の細い首筋に鼻先を埋めた。温かい熱を楽しむかのように顔を擦り寄せ、頸動脈に添って舌を這わせる。その行為が、いつも新月の晩に首筋を噛まれる前段階によく似ていて、海馬は思わず首を竦めてしまった。わざとでは無かったが、痛みを覚えた身体が条件反射をしてしまうのは仕方が無い。
「す…済まない…っ! つい…」
城之内の行為が止まったのを感じて、海馬は慌ててそう謝った。だが城之内は怒りもしないで優しく微笑んでいる。
「何もしないよ」
「克也…」
「今日は痛い事は何もしない。ただお前を抱きたいだけだ…瀬人。どうか…オレを信じてくれ。信じる方が無理かもしれないけどな」
苦笑しながら告げられたその言葉に、海馬は首を横にフルフルと振った。せっかく城之内と結ばれようとしている時に、彼にそんな悲しい事は言って欲しく無かったのである。
「信じる…。信じるから…。だからオレがどんなに怖がっても、途中で止めたりしないでくれ…っ」
「うん。止めたりなんか…しないよ。瀬人…お前が欲しいから」
「克…也…。克也…っ」
「愛してるよ…瀬人」
再び城之内の身体がのし掛かってくる。直接感じるその重みを心から愛しく想い、海馬はその首に腕を絡め広い背中をそろりと撫でて、もうどこにも逃がさないように黒い着流しの生地をキュッ…と握り締めたのだった。