千年近く存在していても、全く気付かない事がある。
最近漸くそれに気付き、自分の不甲斐なさに呆れてしまった。
私が気付いたもの…それは克也が救いの巫女を見る視線である。
一体いつからなのだろうか…。その視線が救いの巫女自身を見詰めていたのは。
救いの巫女よ…そなたも気付いているのだろう?
あの視線に籠もる熱は…お前と同種のものだ。
その事実に気付いた時に、私は克也が完全に『せと』の幻影から解き放たれたのを知ったのだった。
心から克也と救いの巫女の関係を喜び…そして同時に感じる胸騒ぎに苦しむ。
やっと訪れた幸せに…どうしてこんなに不安なのだろうかと…。
冬の到来と共に起こった城之内の事件も年が明ければすっかり落ち着き、三年前と同じような生活を送る事が出来るようになっていた。今は二月。風はまだまだ冷たいが、明らかな春の足音が近付いているのが分かる。…と言っても、マヨイガの庭の木々に季節感などまるで無いのだが。
あの日、あの冷たい雨の中で海馬が城之内に食われてから二月程が経っていた。次の新月の晩からは今までと同じように儀式を行なう事が出来るようになり、もう二度程食されたが、城之内は三年前と同じように海馬の身体を食べている。もう血を啜るだけで吐き気を催すような事も無く、すっかり回復して明るい様相を見せるようになった城之内に海馬も安心していたのだった。
そしてそれと同時に、今まで気付かなかった事にも気付くようになっていた。
それは城之内の視線だった。
二ヶ月前までの城之内はすっかり弱りきっていて、その視線に気付く事は出来なかった。だがきちんと海馬を食する事によって体力を回復し、三年前に出会った頃のように普通に接するようになってからは、海馬は確実のその視線の強さを感じるようになっていたのである。
それは城之内が海馬自身を見詰めている目だ。自分の外観を通してせとを見ている視線では無い。間違い無く海馬自身を見詰めている琥珀の瞳。
「お前には悪いと思うが…だがそれが凄く嬉しいと感じるのだ」
縁側に座り、春先の冷たい風に吹かれながら海馬はポツリと口にした。その言葉に隣に座っていたせとが嬉しそうに微笑みコクリと頷く。
『ただの思念体である私に遠慮する事など、何も無いと言っているだろう。良かったな』
「あぁ…。漸く認めて貰えたんだと…嬉しくて仕方が無いのだ」
頬を薔薇色に染めながら、海馬は垣根の向こうに目を向ける。ここから鳥居の方を見ると、側に映えている桜の木が少しだけ見えるのだ。そして太い枝に横たわって昼寝をしている城之内の金髪を見て取って、幸せそうに微笑んだ。
三年前に城之内を愛している事を知ってから、海馬はずっとこの気持ちを諦めて来た。この気持ちが報われる事は無い。愛されてもそれは『せとの身代わり』としてであり、自分が『海馬瀬人』として愛される事は絶対に無いと…。ならばせめて救いの巫女として彼を救う為に存在しようと、そう強く心に願い続けてきた。
だが知らず知らずの内に、その気持ちが城之内の心を動かしていたのだ。
「最近は全て上手くいっている」
桜の木の枝の上で目を覚ました城之内は、大きく背を伸ばして欠伸をしている。そして何かを思い立ったように、ひらりと地面に飛び降りて姿を消した。その軽い身のこなしを見て、海馬は安心したようにホッと一息吐く。二ヶ月前まで本殿の床にぐったりと横たわって、起き上がる事も辛そうな程弱りきっていた彼が嘘のようだ。
普通あそこまで弱ってしまったら、人間だったら数週間の療養を余儀なくされるであろう。けれど、そこは流石に鬼と言ったところか。城之内は最初の食事でかなりの体力を回復し、その後の二度の新月で更に海馬を食する事により、今はもうすっかり元通りに回復していた。
「城之内はオレの存在を認め…鬼としての覚悟を決めてくれた。最近では新月の晩もしっかりと食べてくれるし、何の問題も無い」
『あぁ…。そうだ…な…』
にこやかな顔でそういう海馬に、せとは苦笑しながら頷く。そんなせとの態度に、海馬は些か不快そうに眉を顰めた。
「何だ…。まだ心配しているのか」
せとは何も答えない。だが深刻そうなその表情が、海馬の問いを肯定している。
「もうあれから二ヶ月経っているのだぞ。城之内の様子に変わったところは無いし、それどころかむしろ以前より元気になっているでは無いか。何を心配する事がある」
『そう…なのだが…』
「お前は千年もずっとここに閉じ込められて城之内の側にいたからな。心配するのは分かるが杞憂というものだ」
『分かっている。けれどどうしても…胸騒ぎがして…』
「それはただの気のせいだ。お前は意外と心配性なのだな」
『そうだな…。きっとそうなのだ…』
困ったように笑いながら無理矢理納得したせとに、海馬も少し引っかかりを感じた。
もしかしたら自分もせとと同じような事を心配しているのかもしれない。ただ城之内が当初の頃のように自分を食べてくれる安心感と、彼の視線が自分に向けられているという嬉しさで、それを感じないだけなのかもしれないと思う。感じないのか…それとも感じないようにしているだけなのかは分からなかったが。
だが海馬はそこでフルフルと首を横に振った。
違う。絶対に違う。きっとただの気のせいだ。こんなに何もかもが上手くいっているのに、間違っている事なんて何も無い。城之内は立ち直った。もう何も不安に思う事なんて無い。だからこの胸騒ぎは、気のせいに過ぎないんだ…っ!!
そう強く思い込もうとする。けれど何故かそれが上手くいかなかった。魂が震える。魂が何かを訴えている。
「どうしてくれる。魂が貴様の思いと同調して、オレまで不安になってきてしまったぞ」
感じる不安を打ち消そうと、わざと強がるような台詞を吐いた。ギロリと隣に座るせとを睨み付けると、せとは『それは済まないな』と苦笑しながら言って、その姿をスウッと消していった。
数刻後。日が暮れてきて少し強くなってきた風に寒さを感じ、海馬は部屋に上がり込み障子を閉めた。長い間外にいた為に身体が冷えている。温かいお茶でも飲む為に居間に行こうと振り返ると、その途端に廊下に面した襖がスラリと横に開かれたのが目に入ってきた。暗い廊下からヒョコリと覗いた金の髪に、海馬は城之内の来訪を知る。「よぉ!」と明るく振る舞うその姿に、先程までの不安感が嘘のように消え去っていくのを感じた。
「元気?」
「お陰様でオレはいつでも元気だ。貴様も調子が良さそうだな。先程、桜の上で昼寝をしていただろう」
「何だ…見てたのか。話しかけてくれりゃ良かったのに」
「あんまり気持ち良さそうに寝ていたのでな。起こしそびれた」
こういう何気ない会話を城之内と楽しむ時間が、海馬は一番幸せだった。こうしている時が一番強く城之内の視線を感じる事が出来るから…。
幸せそうに微笑んでいる海馬に、城之内も笑いかける。そして持っていた木の枝を海馬に差し出した。それを受け取って、途端にフワリと鼻先を擽った爽やかで濃厚な香りに笑みを深める。
「これ、やるよ」
「ほう…白梅の枝だな」
「もうすぐ春が来るからな。この季節だったらやっぱり梅の花だろ」
「良い香りだな。貴様にしては趣味が良い。だがこのマヨイガの庭では、そういうのは余り関係が無いがな」
「それは言っちゃダメだって。こういうのは気分の問題だろ?」
「そうだな。それはそうと紅梅の方はどうした? 一緒に咲いていただろう」
「あぁ、咲いてたよ。だけど紅梅は何かお前の印象と違っててさ。白梅の方だけ切って持って来た。紅梅はどちらかというと…」
それまでベラベラと喋っていた城之内の口が急に止まった。何か不味い事を思い出したかのように、渋い顔をして視線を反らす。だから海馬は敢えてその先を口にした。別にもう何も気にする事は無い。城之内の目がちゃんと『海馬瀬人』を見ていると知っているから…。
「どちらかというと、せとのイメージだな」
せとの名前に城之内が慌てて顔を上げる。
「いめーじ…?」
「印象の同義語だ。ここ百年余りの間に外国から入ってきた新しい言葉だな」
「そうか」
「あぁ」
「あ…うん。まぁ…そういう事…だよ」
「何を気落ちしてるのだ。オレは別に何も気にしていないぞ」
「………本当…に?」
「当たり前だろう」
「そ…そっか…。良かった…」
気落ちした城之内を安心させるように海馬が微笑みかけると、漸く城之内も笑ってくれる。最近、二人の間にはこういう遣り取りが増えていた。
城之内が海馬をせとを違う人間として見るようになってから、彼は二人を一緒にしないようにする気遣いを見せるようになっていたのである。海馬にとっては最早気にするような事でも無かったが、少なくても海馬とせとを同一視していた自分を恥じているような城之内の態度に好感が持てたのは確かだった。
「気に入ってくれたんだったら、それでいいんだ。あとこれ…美味そうなのを選んで持って来たんだけど…」
漸く安心したらしい城之内が、今度はこんもりと果物が盛られている笊を差し出した。そこに乗っている果実を見て、海馬は呆れたように小さく嘆息する。その笊を受け取って思わず苦笑した。
「お前…。花は季節に添っているのに、どうして果物はちぐはぐなんだ? 枇杷とあけびなんて、初夏と秋の果実だろう」
「今日はコレが一番美味そうに見えたんだから仕方無いだろう?」
「まぁ…確かに美味そうではあるが。ところでこのあけびはどうした? 枇杷はマヨイガの庭に成っているのを知っているからいいが、あけびなんて…生えていたか?」
「あけびはオレが裏山の入り口で見付けたんだ。どうやらあそこら辺もマヨイガの力が働いているらしくて、時々山の恵みが手に入るんだよ」
城之内は得意げにそう言って笑っている。
あの雨の夜が明けてから、城之内は時々こうして海馬に贈り物をする事があった。店も何も無いこの世界では、贈り物と言っても花や果物くらいしか無いが、それでも海馬は城之内の気持ちが嬉しかった。
多分、これが城之内なりの侘びと礼なのだ。贈り物に付随する言葉は無いが、その気持ちをひしひしと感じる事が出来る。
「ありがとう。ではこれは水に漬けて来る事にしよう。冷やした方が美味しそうだからな」
そう言って笊を持ったまま城之内の脇を通り過ぎ、開けっ放しの襖から部屋を出て行こうとした時だった。
「瀬人」
城之内の声が海馬を呼んで、耳に入って来たその名前に驚いてピタリと足が止まる。
瀬人…瀬人と呼んだ。ずっと名字しか口にして来なかった城之内が海馬の名前を口にした。『瀬人』と『せと』。イントネーションは全く同じ。けれど海馬には分かっていた。何故だかは知らないがそれが『せと』ではなく、自分の名前が呼ばれた事を理解したのである。
恐る恐る振り返ると、城之内は至極穏やかな顔をして海馬の事を見詰めていた。そして再び口を開いて、海馬の名前を音に出す。
「瀬人…。本当に…ありがとうな。お前のお陰でオレは…立ち直る事が出来た。心から感謝してる」
「じょ…のう…ち…?」
「今ならはっきり分かるよ。お前とせとが全然違う人間なんだって事。こんな簡単な事が…どうして分からなかったのかなぁ」
「じょ…」
「そして…どうして気付かなかったのかなぁ…。こんなに…お前に惹かれていたっていうのに」
「っ………!」
「いや、本当は気付いていたのかもしれない。お前に惹かれていく自分の気持ちを…とっくに知っていたのかもしれない。でも、オレは気付かないふりをした。お前を愛する事はせとを裏切る事になると…ずっとそう思って来た。だからせとの思い出に縋り付いて自分を誤魔化していたんだ」
城之内は穏やかな顔をしたまま喋り続ける。海馬はそれをただ黙って聞く事しか出来ない。驚き過ぎて…声が全く出なかった。
「海馬に惹かれるのは、お前がせとに似ているから。海馬が苦しむのを見る度に辛くなるのは、過去のせとに重なるから。だからお前自身に惹かれている訳じゃない。お前がせとに似ているから気になるだけなんだって…そう思い込もうとした。でもどうしても上手くいかなかった。苦しくて…食えなくなった」
目を瞠ったまま呆然と立ち尽くす海馬にクスリと微笑んで、城之内は眩しいものを見るように目を細める。その琥珀の瞳はどこまでも優しくて…そして確実に自分を見ていた。『せと』では無く『瀬人』を。
「でもあの日、せとの頭蓋骨をお前に壊されたあの時。オレは漸く気付いたんだよ。そして認めさせられた。お前に惹かれていたんだって…好きなんだって気付かされた」
「だが…お前…」
「ん?」
「せとは…? 愛していたのだろう…?」
漸く絞り出した声でそう尋ねると、城之内は微笑んだままコクリと一つ頷いて答える。
「愛していたよ。世界で一番愛していた。アイツとずっと幸せに生きたかった。でもな、せとは…アイツはもう千年も前に死んでいるんだ。オレがこの手で殺したんだから。もう過去の人間なんだよ。もうどこにも…いないんだ」
チリ――――――ン………。
どこかであの鈴の音が聞こえる。自分はもう千年前に死んだ人間なのだ…というせとの声が聞こえるようだった。
「でもお前は生きている。生きて…ちゃんとここにいる、触れられる。温かい体温を持っている。オレに言葉を掛けてくれる。笑ってくれる。泣いてくれる。怒ってくれる。その事がどんなに幸せな事か…オレは漸く気が付いた」
「城之内…っ」
「瀬人…。今までごめんな。それから…ありがとう。大好きだよ」
「城之内!!」
今まで見た事が無いような笑顔で名前を呼ばれ、海馬はもう自分を制する事が出来なくなった。持っていた笊を取り落とす。盛られていた果物がバラバラと足元に散らばっても、海馬はそれを拾おうとはしなかった。ただ大きく足を踏み出して…そして駆け出して。
「城之内…っ!!」
夢中でその身体に抱き付いた。首元に腕を絡めて、冷たい身体を自分の体温で温めるかのようにギュッと強く抱き締める。ややあって、自分の背に城之内の腕が回って同じように強く抱き締められるのを感じ、海馬は自ら身体をすり寄せた。
「城之内…っ。城之内…っ!」
「瀬人…。今更だけど…名前で呼んでいいか?」
耳元で囁かれる城之内の言葉に、コクコクと頷く。
「お前も…名前で呼んで? オレの名前を…お前の声で聞きたい」
「城之内…?」
「オレの名前、忘れちゃった? 克也だよ…瀬人」
「かつ…や…」
「うん」
「克也…」
「うん」
「克也…っ!」
「うん。ありがとう…瀬人」
何度も何度もお互いに名前を呼び合い、二人はいつまでも強く抱き締め合う。ふと…城之内の広い肩口から海馬が視線を上げた時、いつの間にか部屋の隅に立ち尽くしているせとと目が合った。せとは心から嬉しそうに微笑みながら、目が合った海馬に強く頷いてみせる。
『おめでとう、救いの巫女よ。それで良いのだ』
優しい声が耳に届く。その言葉にそれまで耐えていた涙が一気に溢れて来て、海馬は泣き顔を隠すように城之内の黒い着流しに顔を埋めた。
海馬とせとが心から幸せを感じていた頃。外はもうすっかり日が沈み、東の空からは満月が昇っていた。
部屋の障子を閉め切っている為に海馬にはそれは見えなかったが、その月はまるで血のように真っ赤に染まり大きく膨張している。まるでこれから起こる不幸を予言するかのように…月は悲しげに紅く光るのだった。