*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第十九夜

 克也が…鬼としての自分を受け入れてくれた。
 あの琥珀の瞳に再び生気が戻って来た事を、とても嬉しく感じる。
 だが、どうしてだろうか…?
 何故こんなにも不安なのだろうか…?
 私には…克也が何かしてはいけない覚悟をしてしまったような…そんな気がするのだ。
 気のせいだと思いたい。そんな不安な事、考えたくも無い。
 だがとうしても、その考えが頭から離れない。
 これは一体どういう事なのだろうか?
 私は…どうすればいいと言うのだろうか…救いの巫女よ…。

 




 チチチ…、チュンチュン。

 少しずつ浮上していく意識の中で、海馬は小鳥の鳴き声を聞いていた。それと同時に瞼の裏が明るくなって、未だ重い瞼を無理矢理開いてみる。
 最初に目に入ってきたのは、マヨイガの寝室の天井。いつものように部屋の中央に敷かれた布団で眠っていたのだと知って、そのまま視線を庭の方向に向けてみる。障子戸は開かれ、外からくすんだ陽の光が部屋に入り込んでいた。その光を認識すると同時に、敷居の柱に寄り掛かるようにして庭を見ている城之内の姿が目に入ってくる。
 雨上がりの庭。屋根の上や木々の葉から、ポタポタと雨水が水滴となって地面に落ちているのが見える。贖罪の神域特有の濁った太陽でも、光を反射している水滴はとても美しく海馬の目に映った。

 チッ…チチッ…。チュンチュン…チュン。

 目を覚ました海馬の耳に、今度はハッキリと小鳥の鳴き声が聞こえてきた。その声に布団の中でゴソリと身体を動かすと、気配に気付いた城之内が振り向いてニコリと笑う。その顔に昨日までの悩みや辛さはどこにも見えなかった。

「起きたか」

 今まで海馬が見た事の無いような笑顔で微笑みながら、城之内は優しく言葉を発する。
 明るい部屋で見る城之内はすっかり血の気が戻り、未だ頬は痩せているが健康的な顔色をしているのが見て取れた。琥珀の瞳も輝いて生気が漲っている。
 強い城之内が再び戻って来た事に海馬は純粋な喜びを感じ、一安心してホッと息を吐き出した。

「具合はどうだ? 昨夜は情欲の手助けも無かったから辛かっただろ」
「あ…いや…、大丈夫…だ」

 答えた声は掠れている。昨夜、あの冷たい雨の中で無意識に叫んでいた為、喉がやられたらしい。覚悟していたとはいえ、新月の晩以外に食されるという事は、相当な苦痛をもたらすのだという事を海馬は改めて知った。
 たかが快感。されど快感。いつもは苦しくさえ感じるあの情欲が、どれだけ苦痛を軽減していたのか身を持って知ったのだった。

「悪かったな。久しぶりだから、全く手加減出来なかった」

 眉根を寄せてそう謝る城之内に、海馬はフルリと首を横に振る。覚悟して自分から身を差し出したのだから、その事で謝られる必要は無い。
 昨夜、あの冬の冷たい雨の中で、海馬は城之内に食われていた。覚悟を決めた城之内の食欲は凄まじく、久々に腹を割かれ内臓の類も殆ど食されてしまった。血を啜られ、肉を食まれ、骨を囓られて、余りの苦痛に絶叫を漏らす。
 けれど海馬は全く後悔していなかった。痛みと苦しみの中に、何とか自分の気を紛らわそうとしている城之内の愛撫を感じていたから…。
 普段海馬が城之内に食される時は、身体が新月の理によって情欲を起こす。黙っていても海馬の身体は快感を感じ、城之内も敢えて性的な意味で触れて来る事は無かった。そんな事をしなくても、城之内が触れるだけで海馬は勝手に感じてしまうからだ。
 だが昨夜は新月では無いので、そんな事は起こらない。海馬の身体は至って普通に痛覚を受け入れ、快感によってその苦痛を紛らわす事が出来ない。
 だから城之内は、海馬の身体を愛してくれた。自身の食欲を満たしながら、丁寧に愛撫を施してくれたのである。勿論普段とは全く違う状況下で、そんな愛撫など大して効きはしない。一瞬感じた快感はあっという間に苦痛に取って変わられ、海馬の口からは喘ぎの代わりに悲痛な叫びしか出て来なかった。
 それでも、その一瞬に感じられる快感を、海馬は幸せだと思っていたのである。

「何とか…快感を与えてやろうと思ったんだけどさ。やっぱり新月の晩じゃないと上手くいかないな」
「いや、いいのだ。オレだって覚悟していたのだから…。美味かったか?」
「あぁ、美味かった。凄く…美味かったよ」
「ちゃんと満足するまで食べたのか…?」
「勿論。お陰様で腹一杯になった」
「そうか。それならいいのだ」
「まぁ、もう二度とこんな事は無いから心配するな。今度からはちゃんと新月の晩に食うからよ」

 そう言って城之内はもう一度庭に目を向けていた。途端にチュンチュンと騒ぎ出す小鳥達に苦笑している。

「雀…?」

 目の端に映るいくつもの茶色い小さな固まりに海馬が疑問符を投げかけると、城之内は後頭部をガシガシと掻きながら困ったように口を開いた。

「あぁ。鬼であるオレが怖い癖に、お前の事が心配でここから離れないんだ。ずっと遠巻きに見守って、さっきからチュンチュン煩いのなんの。どうせ『鬼め。そこからどけ』って言ってるんだろうけどさ」

 クスクス笑いながらそんな事を言った城之内は、ゆるりとその場で立ち上がった。途端に地面をチョンチョン蹴っていた雀達がパッと舞い上がり、近くの木の枝に飛び移る。そして葉の陰に隠れながら、また文句を言うようにチュンチュンと騒がしく鳴き始めた。

「うるせーよ。海馬にもお前等にも、もう何もしないから大人しく柿でも食ってろ」

 乱暴な言葉の割りには楽しそうにそう言って、城之内は廊下から部屋の中へと戻って来た。そしてそのまま海馬の足元を素通りして、廊下に続く襖を開ける。

「久しぶりに本気で食ったからさ、貧血酷いんだろ? 今朝食持って来てやるから…」

 優しげな笑みで海馬に伝え、城之内はそのまま部屋を出て行った。廊下の向こうに遠ざかっていく足音を聞きながら、海馬はそっと自分の身を起こしてみる。途端にクラリと視界が全回転するような酷い目眩を感じ、再び枕に頭を載せた。
 グラグラと回る天井に深く息を吐き出し、額に手を載せる。既にどこの傷も塞がっていたが、自分の指先がいつも以上に冷たいのを感じ取って軽く嘆息した。

 チリ――――――ン………。

 ふと、耳元で聞こえたいつのも鈴の音に視線を巡らすと、いつの間にかせとが枕元に座っているのが目に入ってきた。彼の顔は非常に穏やかで満足気であったが、いつも以上に心配しているのが海馬にも分かくらい戸惑っている。

「何だ、そんな顔して…。オレはそこまで酷い食われ方をしたのか」

 試しにそう聞いてみると、せとはコクリと頷いてみせた。

『翌日には傷は全快すると知っていても…本当に死んでしまうのでは無いだろうかと心配する程の食べられ方だった。見ているだけなのに、まるで痛みが伝わってくるようだったぞ…』
「ほう…それは凄いな。オレは途中で気を失ってしまったから、よく覚えていないのだが」
『気を失って正解だったのではないか? 正直あの時は、弱っていた克也の事なんか忘れてお前の心配しかしていなかった』
「フフフ…。それはよっぽどだな」
『笑い事では無いぞ。腹の中がほぼ空っぽになっていたくらいだからな』
「空っぽか。いい食べっぷりでは無いか。それだけ奴の食欲が戻ってきたという事だろう?」
『そうだ…な。鬼としての覚悟も決まったようだし』
「あぁ」
『だが…それがまた心配でもあるのだ』

 突然低くなったせとの声に、海馬は布団の中から彼の顔を見上げた。せとは何故か難しい顔をしながら、城之内が去って行った廊下の向こう側をじっと見詰めている。

『救いの巫女よ。克也がお前を食わず、衰弱して死んでいく心配は無くなった。だが…私はまだ安心はしていない…出来ない』
「どういう意味だ?」

 せとの言っている事が理解出来ず、海馬は疑問をぶつけた。それに対し、せとは視線を海馬に戻しながら心配そうにポツリと言葉を零す。

『確かに…克也は鬼としての自分を受け入れたようだった。だがそれと同時に、何かしてはいけない覚悟をしたような気がするのだ』
「してはいけない…覚悟…? 何だそれは」
『それがよく分からないのだ。ただ何となく…そう感じるのだ。これで良いと思っているのに、何故か心がざわつくのだよ…救いの巫女よ』
「心が…ざわつく…?」

 何か訳の分からない物に怯えているようなせとに、海馬も彼の言葉を繰り返してみる。だが海馬にはそういったものは何も感じられない。ただ城之内が食欲を取り戻し、ちゃんと自分を食べて回復してくれた喜びしか感じられなかった。
 不可解なせとの言葉に迷っていると朝食を盆に載せて持って来た城之内が現れ、いつの間にかせとは消えてしまっていた。枕元に盆を置き「今日は梨を剥いてきた」と嬉しそうな顔で果物が入った器を差し出す城之内に、海馬はクスリと笑みを零す。
 考え過ぎだ。きっとせとは考え過ぎなのだ。千年間も悩み苦しむ城之内を見続けて来たのだから、突然訪れた希望に疑いを持ってしまうのは仕方の無い事なのだ。

「よいしょっと…。大丈夫か? 頭起こしても気持ち悪くなってないか?」
「大丈夫だ」

 城之内の冷たい腕が海馬の背を支え、布団から起き上がらせてくれる。その腕に安心して体重を掛け、海馬は上半身を起こして城之内から器を受け取った。盆の上にある他の食事には目も向けず、まず最初に城之内が切ってくれた不格好な梨に手を付ける。
 楊枝を刺して梨を口に運ぶと、シャクリという瑞々しい音と共に海馬の口の中に爽やかな甘さが広がった。

「甘くて美味い」
「だろ? もっと食えよ」

 海馬の言葉に城之内が至極嬉しそうに微笑んだ。
 新月明けで弱っている海馬に食べさせる為に、城之内が自分で選んで切ってくれる果物。盆に載せられた果物の器に一番最初に手を付けるようになったのは、一体いつからだっただろうか。少なくてもかなり以前からやっていたような気がする。
 城之内が海馬を余り食べなくなり、寝込んでいる海馬の為に朝食を運んでくれなくなった時に、「そういえば最近アイツの果物を食べてないな…」と考えていた時期があった。その事を考えると、自分が贄の巫女としての役割を果たすようになってからすぐにやり始めた可能性が高い。
 不器用ながらも、とびきり甘い果物を切って持って来てくれる城之内。その果実を一番最初に食べて「美味い」と言うと、本当に嬉しそうに笑う城之内の顔が海馬は大好きだった。

「本当に美味いな」

 シャクシャクと梨を食べていると、それを見ている城之内の顔が破顔する。心の底から嬉しそうなその顔を見ながら、海馬は次の梨に楊枝を刺した。
 久しぶりに味わえた城之内の不格好な果物。上機嫌で甘い梨を口に運びながら、だが海馬は先程のせとの言葉が気になって仕方が無かった。気にしたくなど無いのに、どこか不安に感じてしまう。だがそれを無理矢理思考の端に押しやって、目の前の城之内に微笑みかけた。不安に感じるだけ無駄だと思ったのである。

 不安に感じる事など…何も無いと信じていたのだ。