*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第十八夜

 覚悟というものは、人が生きていく意味ではとても大切なものなのだ。
 例えそれが良い意味であろうと、悪い意味であろうと…。
 鬼になった克也は、その覚悟をすっかり忘れてしまっていた。
 だが救いの巫女よ、お前がそれを思い出させてくれたのだ…。
 ありがとう…。本当に…感謝している。
 だからこそ、私は信じているのだよ。
 お前が…きっと克也を救ってくれるという事をな…。

 




「せ…と…」

 バラバラになった骨を掻き集め、それを両手で掬い取った城之内は、呆然としたまま石畳の上に座り込んでいた。涙はもう流れてはいなかったが、その目には何も映っていない。琥珀の瞳はただ白い骨の破片を見詰めている。
 海馬はそんな城之内に軽く溜息を吐いて目を伏せた。そして振り返るとそのままマヨイガまで帰って行く。
 せとの頭蓋骨を壊されて城之内がショックを受けている事はよく分かっている。こんな状態で話の続きをしようと思っても無駄なのだという事も。
 今は城之内を一人にして、彼に考える時間を与える事…。それが一番大事だと思われた。
 振り返らず真っ直ぐにマヨイガに辿り着き、庭に入り込むと手水鉢の水に差してあった白椿の枝を手に取る。そしてそのまま部屋に上がり込んで、用意してあった一輪挿し用の花瓶にその枝を活けた。辺りに冬らしい澄んだ爽やかな香りが満ちる。
 その香りは、海馬の心を静めてくれた。先程まで怒りや苛立ちで荒んでいた心が、今は嘘のように落ち着いている。畳の上に正座をし、海馬は目を瞑って深く息を吸い込み…そして吐き出した。
 先程までの動の時間とは全く違う…静の時間がここには流れている。
 白椿の花の香りに包まれながら、海馬の心は至極穏やかだった。もう何も怖くは無い。何が起きても平気だと思う。これで城之内が救われるなら…彼にどんな事をされても耐えられると思った。
 やがて我に返った城之内が怒りに任せてここに来るだろう。その怒りをきちんと正面から受け止めよう…。そう思って海馬はじっと待っていたのだが、日が暮れても城之内がマヨイガに遣って来る事は無かった。



 マヨイガが用意した夕食を済ませ湯浴みをしていても、未だ城之内がここへ来る気配は無かった。その事に流石の海馬も些か不安になる。
 この三年間、贖罪の神域で城之内と一緒に過ごした間に知ったのは、彼は基本的に喜怒哀楽のはっきりした性格だという事だった。長い年月をずっと閉じ込められて過ごして来た為、その傾向は大分抑えられてしまっているようだったが、それでも嬉しいときはパッと顔を綻ばせ、悲しい時は辛そうに眉根を寄せ、楽しんでいる時はケラケラと声をあげて笑うという…至極分かり易い感情表現を持っている事は知っている。
 その中でも特に分かり易いのが、城之内の『怒り』だった。
 何らかの理由で城之内を怒らせてしまった時の彼の恐ろしさは、普段物怖じしない海馬でさえ全身に震えが走る程だ。普段は明るい琥珀色の瞳が爛々と真っ赤に燃え、そこから視線を外しただけで息の根を止められるような…そんな錯覚さえ覚える。
 些細な事でもそう言った怒りを露わにする城之内が、大事にしていた恋人の頭蓋骨を壊されて怒らない筈が無い。それなのに城之内は怒鳴り込んでくるどころか、その気配さえ全く感じさせなかった。

「流石に…やり過ぎたか…?」

 温かな湯の中で僅かな後悔を覚え始めていると、庭に面した窓からサーッという水が落ちる音が聞こえてきた。庭に植えられている木々や植物の葉が、パタパタと水滴を弾く音に雨が降ってきた事を知る。
 この贖罪の神域は現世から切り離された独立した空間ではあるが、天候や気候などは現世に多分に影響される。濁った空の下でも季節が巡るのはそのせいだ。
 現世で風が吹けばこちらでも風は吹くし、雨が降れば雨が降る。春の雨、夏の嵐、秋の木枯らし、冬の雪も、現世と全く同じようになる。
 ただ海馬は…この贖罪の神域での雨が酷く苦手だった。
 この世界で降る雨は、見届けの巫女から話を聞いていた時に垣間見た過去の映像を思い出させる。
 黒炎刀によって燃え盛る黒龍村。人や家を焼くその炎を、黒龍神は自身の神力が宿った雨を降らせて沈静化した。その雨によって食人鬼になってしまった城之内も理性を取り戻す事が出来たのだが、人外に変化してしまった身体は神聖なる雨に耐える事が出来ず、皮膚や肉を焼いて城之内を苦しめていた。
 黒龍神の降らす雨に打たれ、石畳の上で苦しそうにのたうち回る城之内の姿が脳裏に甦る。苦しそうに呻き声を上げながら、それでも城之内は石畳の上をズルズルと這って恋人の首を抱き締めに行った。

『せと…っ。せと…っ! オレが…オレが殺した…っ!! オレが…せとを…殺した…っ!!』

 悲痛な叫びが耳元で甦る。
 あんなに大事にしていたせとの首。城之内の心の拠り所だった恋人の頭蓋骨。自分はそれを壊してしまった。いくら城之内に覚悟を迫る行為であったとはいえ、彼のショックを考えると胸が痛む。だがそれでも、海馬は後悔はしていなかった。
 ふぅ…と大きな溜息を吐き、海馬はザバリと湯の中から立ち上がった。そして浴室を出て身体の水気を拭き、用意してあった白絹の単衣に着替える。少し考えて、手首に青い組紐の鈴を付けた。大きく腕を振ると、チリリリ…と軽やかな音が鳴り響く。
 その音に勇気を貰い、海馬は城之内の元に行く為に一歩を踏み出した。



 マヨイガが用意したであろう唐傘が玄関に立てかけてあったが、海馬は敢えてそれを無視して外に出た。冬の冷たい雨が細い身体を濡らしていく。湯浴みで温まった熱があっという間に冷えていくのが分かる。それでも海馬は真っ直ぐに歩き続け、そして鳥居の側まで遣って来た。
 暗闇の中で視線を彷徨わせると、案の定…鬼は未だそこに座り込んでいる。冷たい雨に打たれて、黒い着流しは濡れそぼっていた。

「城之内…?」

 流石に心配になってその名を呼んだ時、海馬の耳に聞き慣れない音が入り込んできた。
 カリッ…ポリッ…と、何か堅い菓子でも食べているかのような音が聞こえる。その音の発信源は…確認しなくてもすぐ城之内だという事が分かった。石畳の窪みに出来た水溜まりをバシャリと踏んで、海馬は座り込んでいる城之内の目の前に回り込む。そして音の正体を自分の目で確かめて、その余りに悲しく辛い光景に眉を顰めた。

 城之内は…砕けた骨を食べていたのだ。

 痩せ細った腕をのろりと動かして、手の中から小さな骨の破片を摘み口に運ぶ。ガリリッ…と奥歯で骨を噛み締め、細かくなった破片を口中でポリポリと砕き、そしてゴクリと飲み込む。城之内の喉仏が上下に動く様を見て、海馬は何も言えなくなった。

「海馬…」

 新たな破片を口に運びながら、城之内は静かな声で海馬を呼んだ。

「ゴメン…。オレは確かに…甘えていた…」

 全身が雨でずぶ濡れになっていて、滴り落ちる水滴が城之内の顔を濡らしている。だが海馬は確信していた。雨による水滴の中に、城之内の涙が隠れている事を…。

「百人の人間を殺して…村を焼き…オレは食人鬼になった。自分の恋人まで殺してしまって…本当に酷い事をしたと思う。だけど黒龍神によって理性を取り戻して…オレはどこかで自分はあの食人鬼とは違うと…思い込んでいたんだ」

 カリッ…と、また一つの破片が噛み砕かれ、城之内の胃の中へ消えていく。

「確かに恋人をこの手で殺しはしたが…食ってはいない。他の人間だって…無闇矢鱈に食ったりなんかしていない。贄の巫女だけだ。オレに食われる為に存在する贄の巫女だけを食っている。だからオレはアイツとは違うと…ずっとそう思い込んできた」

 ポリッ…ガリッ…と、まるで煎餅か何かのような音を起てて、城之内は骨を食べ続けていた。

「自分で殺しちまった恋人の頭蓋骨を大事に取っておいて、それを祀る事によって自分が理性有る人間であると思い込もうとした。人外に変化してしまっても、オレは極悪非道な食人鬼とは違う…。心はまだ人間のままなんだと…そう信じていた」

 ゴクリと…口内に溜まった骨の破片を飲み込んで、城之内は空を見上げた。どんよりとした雨雲が覆う空には、いつものように煌めく月や星は見えない。ただ冷たい雨がサーサーと降り注ぐだけだ。その雨に全身をグッショリ濡らしながら、城之内は全てを諦めたかのようにうっすらと笑っていた。

「でもそれは…間違いだったんだなぁ…。オレは鬼である自分を、ちゃんと受け止めなくちゃならなかったんだ。恋人の存在に甘えて、人間であった頃の思い出に甘えて、自分を取り巻く逆境に甘えて、たまにオレを慕ってくれる贄の巫女に甘えて…」

 クスクスと小さな笑い声と共に、城之内は泣いていた。涙は雨水に隠れて見えなかったが…彼は確かに泣いていた。

「ずーっと甘えてばっかだったんだな。それで罪が許されるなんて…ちゃんちゃら可笑しい事だ。自分の存在すら認められていない男が、自分がやらかした罪を本当の意味で理解出来る訳無いんだよ。でもやっと…それに気付いた」

 大分少なくなってしまった骨の破片を掌でギュッと握り締めて、城之内はそのまま仰向けにパタリと倒れ込む。冬の冷たい雨が彼の全身を無慈悲に打っていた。

「お前のお陰だよ…海馬。お前のお陰でオレは鬼である自分を受け入れる事が出来たんだ。千年経って…やっと…」

 雨に濡れた掌を開くと、白い骨の破片がザラザラと石畳の上に零れていく。だが城之内は、もはやそれを掻き集めようとはしなかった。細かい骨の破片が雨水に流れて、地面へと消えていく。

「オレはもう言い訳出来ない。せとの骨を…食っちまった。あんなに大事に想っていた恋人ですら食べてしまう…人を食うしか脳のない極悪非道の食人鬼だ」
「城之内…」

 石畳の上で大の字になっている城之内の側に、海馬はカクリと膝を付く。全てを悟ったかのような城之内の顔が辛かった。

「覚悟を決めたよ…海馬。オレは食人鬼だ。罪を犯した…鬼だ。鬼は鬼として、自分の罪を受け入れるよ」
「城之内…お前…」
「あぁ…それよりも何よりも…腹…減ったな…。食べてもいいか…?」
「勿論だ。その為にここに来たのだ」

 海馬の答えに城之内が首を横に傾げて視線を向けた。そして目に入ってきた海馬の姿にクスリと笑いを零す。

「何だお前…。びしょ濡れじゃねーか…。単衣…張り付いてるぞ」
「そんな事言ったら貴様の方がびしょ濡れだ」
「ははっ…。そりゃそうだな。つーかここまで濡れたらどっちも変わらねーだろ…」
「そうだな」

 至極久しぶりに見た琥珀の瞳が、楽しげに輝いている。城之内が鬼としての覚悟を決めた瞬間だった。
 冬の雨に打たれ、冷たさに身体は細かく震え、吐く息は白い。それでも二人はそこにいた。そこから動こうとはしなかった。

「新月じゃないのに…いいのか? 快感が気を紛らわしてはくれないから、多分物凄く苦しいぜ?」
「その分、貴様が愛撫に力を入れてくれるのだろう?」
「あははっ…! 言うねぇ…。場所は? ここでいい?」
「どこでも。我慢しきれないのなら、今すぐここで食えばいい」
「んじゃここで…頂こうかな」

 ニヤッと笑った城之内が手を伸ばし、海馬の腕を掴んで引っ張った。腕が大きく揺れた事により、手首に巻き付けた青い組紐の鈴がチリリ…と雨の中にも関わらず澄んだ軽やかな音を鳴り響かせる。その音を聞きながら、海馬は城之内の力に逆らわず仰向けになった彼の身体の上に覆い被さった。身体の力を抜き城之内に全てを任せる事にする。目を閉じて深く息を吐き出した。

「あっ…。城之内…」

 冷たい手が単衣の合わせに伸び、グイッと襟元を乱される。現れた白い喉元にいつもより短い牙が突き刺さるのを、海馬は幸せな気持ちのまま感じ取っていた。