千年もの長い間、私は克也の側にいた。
私はずっと克也は罪に溺れ…縛られているだけだと思っていた。
だがこの贖罪の神域に来てまだたった三年のお前が、克也の本質に気付いてくれた。
そうか…。そうだったのか…。
私は克也の逃げ場に…なっていたのだな…。
中途半端に逃げるくらいならば、逃げ場なぞいらぬのだ。
克也には…そう、覚悟が必要だ。
自らを救う為の…強い覚悟が。
そして克也にそれを与えられるのはお前だけなのだ…救いの巫女よ。
気怠い身体を叱咤し、薄闇の中を海馬は本殿へと歩いて行った。途中一旦立ち止まり、濁った空を見上げて溜息を吐く。贖罪の神域の空は、今日も酷く淀んでいた。
三年間ほど贖罪の神域で暮らして来たが、この空の色にはいつまで経っても慣れない。強い願いも明るい希望も、全て無慈悲に飲み込まれて掻き消されるかのようだ。こんな世界に千年間も暮らしていれば、いくら食人鬼とはいえど精神が疲弊していってしまうのは仕方の無い事だと思う。
「それでも…お前は耐えていたのだな…」
誰にも聞こえぬ言葉をポツリと零して、海馬は嘆息した。三年前、自分に対してまるで子供の様な無邪気な笑みを向けていた城之内を思い出し胸を痛める。
あの笑みは偽りの笑顔であった。けれど城之内は笑う事を忘れはしなかった。いずれ自分は疎まれると知っていながら、贄の巫女に対して笑い続けていた。それが新月の度に自分に食われ、十年後には生命力を使い果たして死んでしまう贄の巫女達に対しての彼なりの気遣い…そして優しさなんだと気付いた時は、酷く悲しくなった事を思い出す。城之内の偽りの笑みが悲しかったのでは無い。自分の無力さが悲しかったのだ。
あの頃の自分は、城之内に変わって欲しいと願っていた。偽りの笑みなんかではなく…彼の本心からの笑みが見たいと強く思っていたのだ。だがあれから三年経った今、海馬の思いは別方向に向いている。
「アイツに変わって欲しければ…、まず自分が変わらなければな」
待っているだけではダメなのだ。向こうに変わって欲しければ、まず此方が手を差し伸べなければならない。そして今、海馬はその一歩を踏み出そうとしている。
嫌われてもいい。疎まれてもいい。憎まれてもいい。ただ城之内を救いたい…。
それだけが海馬の望みになっていたのだ。
本殿に上がり込んでそろりと扉を開いてみると、床に何か黒い固まりが転がっているのが目に入ってきた。何の事は無い、それは黒い着流しを着ている城之内だったのだが。
背を丸めて小さく縮こまって、グッタリと横たわっている。その姿に三年前に感じたような、鬼としての威圧感は微塵も感じられない。わざと足音を起てて近付いて背後に跪いても、城之内はピクリとも反応しなかった。
「おい…」
流石に心配になって、幾分細くなった肩に手を掛けてその身体を揺さぶってみる。着物越しに彼特有の冷たい体温が伝わって来て、思わずザワリと肌が粟立った。城之内がまだ生きている証が欲しくて掴んだ肩をユサユサと揺らしていると、それまで硬く瞑られていた瞳がゆっくりと開いていく。光を失った琥珀色の瞳が現れ、ちろりと視線を動かして海馬を見た。涙すら乾いた眼球が痛々しい。
「何だ…。海馬か」
ひび割れた唇から掠れた声が漏れ出る。小さなその声を聞き取る為に、海馬は身を屈めて城之内の顔を覗き込んだ。その際に大事そうに胸元に抱き込んだ黄ばんだ頭蓋骨が見えて、知らず舌打ちをする。
「新月明けだろ…。身体辛いんだから…寝てろよ…」
「悪いがそんなに辛くはない。貴様が全くオレを食わんからな。再生もあっという間だったぞ」
「食ったぜ…ちゃんと」
「アレを食ったと言うのか、お前は。全然足りて無いじゃないか。現にこんなに弱ってしまって…」
「別に死にはしねーから大丈夫だよ…。オレは…こんな事じゃ死にはしない。死ねない。ただちょっと…怠いだけだ」
「いくら不老の鬼でも、食わなければ死ぬんだ。こんな下らない事で死んで…貴様はずっと耐えてきた千年を無駄にするつもりなのか?」
海馬の問いに城之内は答えない。ただ辛そうに再び瞼が閉じるのを、海馬は絶望的な気持ちで見ていた。
城之内は自分に対して心を閉ざしてしまっている。やはりせとじゃないとダメなのか…と一瞬思いかけたが、慌てて首を横に振ってその考えを消し去った。
自分は生きている…。生きている自分にしか出来ない事がある筈だ。その為にここに来たのだ。
そう強く心に念じ、海馬は自分の左手を持ち上げた。青く走る血管が透けて見える手首を見据え、思い切ってそこに噛みつく。ガリッと嫌な音がして、次いで温かな鮮血がポタポタと零れ出て来た。口の中に残る自分の血液の不味さに閉口しながらも、血が滴る手首を城之内の口元に寄せる。そして半ば無理矢理にそこに押し付けた。
「飲め…っ!!」
慌てて嫌がるように首を振る城之内の顔を押し付けて、零れる血液を口の中に流し込む。弱り切った鬼は簡単に海馬に組み伏せられ、ポタポタと落ちてくる血を口の中に溜める事しか出来なかった。
「ゲホッ…! やめ…ろ…っ! 今日はもう…新月じゃ…無い…っ!!」
「いいから少しでも飲め…っ!!」
「やめろ…っ!!」
口内に溜る血液を何度も嚥下し、咳き込みながら城之内は反論する。それに対しても海馬は全く焦る素振りをみせなかった。
城之内は食人鬼だ。別に新月じゃ無くてもいつでも人肉は食える。ただ黒龍神によって人間としての理性を取り戻した城之内は、普段はその食欲を抑える事が出来ているだけだ。その食欲の抑えがどうしても効かない日…それが新月の晩だという事だけなのだ。
自らの血によって乾いた唇が潤っていく様を見て、海馬はホッと息を吐いた。だがそんな海馬とは逆に、城之内はずっと眉を顰めたまま不快そうにしている。そして一安心した海馬がほんの少し力を抜いた瞬間に、城之内の身体はそこから抜け出て行った。床に四つん這いになり、口に手を当ててゲホゲホと咳き込んでいる。
「吐くな」
苦しそうに咳き込んでいる城之内に向かって、海馬は努めて冷静にそう言った。そう言わないと、城之内が本当に吐いてしまいそうな気がしたのだ。
その言葉が効いたのかどうかは分からないが、城之内は涙ぐみながらもゴクリと喉を鳴らして、口内に残っていた血液も飲み込んだようだった。
「無茶な…事を…。新月でも無いというのに…」
「新月であろうが無かろうが、貴様はオレを食えるし、オレの傷はこの世界の理によって簡単に治す事が出来る。この程度の傷…貴様が心配する事では無い」
「確かにそうだけど…痛みを紛らわす為の快感が無いだろうが…」
「そんな事は問題では無い。オレの事を心配する前に、まずは自分の状況を心配する事だな」
ズキズキと痛む手首を懐から取り出した手ぬぐいで押さえ付けながら、海馬は城之内に向かって言い捨てる。反論される事を覚悟していたのだが、いつまで待っていても城之内の言葉は無い。伺うように視線を向けると、城之内は口元に手を当てたまま呆然としていた。そして「オレは…やっぱり…食人鬼なんだな…」と小さく呟く。
「食いたくないと思っていても…やっぱり美味いんだよ…。血が…甘く感じられるんだ」
「何を今更…。千年間、ずっとそうやって過ごして来たのだろう?」
「そう…なんだけど…」
一瞬何かを言い淀んで、そして城之内はホロリと涙を零した。傍らに転がっていた頭蓋骨に手を伸ばし、それを大事そうに胸に抱える。慈しむように何度も何度も優しく頭蓋骨の表面を撫でつつ、城之内は薄く微笑みながら静かに泣いていた。
「黒龍神は…何だかんだ言ってもやっぱり…神様なんだよな…。千年近く閉じ込められて…予言された最後の贄の巫女が来て…、漸く終わる事が出来ると思っていたのに。それなのに黒龍神はまだオレを許してはいなかったんだ。千年の間に忘れかけていたオレの罪を…こうしてまざまざと見せ付け…思い出させる。自分の罪を…オレがしでかした大罪を忘れるなと…そう言っているんだ」
「………」
「凄ぇよ…本当に…。効果覿面って奴だ。オレはお前を食えない…。お前を見ているとせとを思い出すんだ。食人鬼に犯されて苦しんでいる顔を…そして自分が最後に殺した瞬間のせとの顔が脳裏に浮かぶんだ。それを思い出してしまったら…もう食えない」
「だが…っ。食わなければお前が死んでしまう…っ!!」
思わず詰め寄って海馬が強く叫んでも、城之内は頭蓋骨を抱いたままゆるりと首を左右に振るだけだった。
「食えないんだよ…。身体がもう…受け付けないんだ。美味いと感じる反面で吐き気がする。それに気付いた時に、オレは漸く悟ったんだよ。きっとこれが黒龍神の本当の罰だったんだとな…。千年を掛けて忘れた罪をもう一度思い出させて、絶望の中で…息絶える事。それが…」
「巫山戯るな!!」
淡々と語られる城之内の言葉に、海馬は途中で耐えきれなくなって大声でそれを遮った。
この贖罪の神域に来る直前に見届けの巫女が言っていた言葉が脳裏に甦ってくる。
『あのせと様と良く似た貴方を食べねばならないという事は…兄にとってはどれ程の苦痛となる事でしょう。もしかしたら、それが黒龍神が兄に対して下した本当の罰なのかもしれませんね…』
あの時の見届けの巫女の言葉が、今目の前で現実のものとなっていた。だが海馬はそれを認めたくは無かった。そんな罰があって堪るかと思う。
確かに城之内は大罪を犯した。それに対して罪を償う事は必要だったのであろう。だが黒龍神がそこまで酷い罰を下すとは、どうしても考えられなかった。ましてや城之内は黒龍神自らが愛した子だと言うではないか。
黒龍神にとっては自らの子供と同じような存在の筈。そんな愛すべき子に…こんな惨い死を与える筈が無い。城之内が罪から救われる事をこそ望み…彼が死ぬ事は本意では無い筈だ。
「城之内…っ。貴様は…甘えている…っ!」
怒りを覚えた為に震える声を何とか押さえ付けて、海馬は城之内をキッと睨み付けながら口を開いた。
「何が罪を思い出す…だ。貴様はそう言って罪を受け入れているふりをしながら、罪人である自分という状況に酔っているだけだ…っ。罪に流され、抗おうともしない。貴様の本当の罪とは、自分の罪と正面切って闘えない…お前自身の弱さにあるのだ!!」
「海…馬…?」
「いつまで罪人のつもりでいるのだ! この辛かった千年間を…どうして無駄にしようとしているのだ!! 何故救いを求めない!! 救われようとしない!!」
「だ…だって…っ! だってオレは…っ!!」
城之内はいつの間にかボロボロと大粒の涙を零して泣いていた。衰弱し、力の入らない手でせとの頭蓋骨をギュッと抱き締めながら、海馬に向かって悲痛な叫びを訴える。
「オレは…せとを殺した…っ!! この世で一番大事な…愛していた恋人を殺した…っ!!」
黄色く変色した頭蓋骨に城之内の涙が零れ落ちる。ポタリポタリと落ちた涙は、骨のひび割れに吸い込まれて消えていった。
ヒックヒックとしゃっくり上げる城之内を、海馬は暫く黙って見詰めていた。だが次の瞬間、先程からずっと決意していた事を行動に移す為に、その場ですっくと立ち上がる。
嫌われてもいい。疎まれてもいい。憎まれてもいい。オレはただ…コイツを救いたい。
そんな強い想いだけが、今の海馬を動かしていた。足を振り上げ、泣き続ける城之内の肩の辺りを蹴りつける。弱り切った鬼の身体は簡単に後ろに倒れ、その拍子に持っていた頭蓋骨がコロリと床に転がった。手を伸ばしてそれを掴むと、海馬はせとの頭蓋骨を持ったまま扉を開けて表に出る。
「海馬…?」
酷く心配そうなか細い声が背後から聞こえて来たが、海馬は敢えてそれを無視した。
「何を…するつもりだ…?」
焦ったような声をあげた城之内が、慌てて起き上がって自分を追いかけてくる気配がする。それでも海馬は無視して歩き続けた。
階を降り履き物を履いて、砂利を踏んで鳥居の辺りまでスタスタと歩く。そんな海馬の後ろを蹌踉めきつつも城之内が付いて行く。砂利道はやがて石畳になり、背後からペタペタと裸足のままの城之内の足音が近付いて来るのが分かった。
「海馬…? 海馬…おい…待てよ…」
体力が落ちているせいと、そして海馬がこれから何をしでかすのか分からない恐怖で、城之内の声は細かく震えている。その声に海馬はようやっと足を止め振り返った。たかが人間の歩くスピードにも付いて来られない程衰弱しきった鬼を、哀れむかのような瞳で見詰める。
「城之内…。もう一度言うぞ。貴様は自分の罪に甘えている」
「………?」
「そしてそれと同時に、自分の罪から眼を背け逃げている。罪を認めているつもりで罪から逃れ、救われようとしてもまた罪に引き戻される」
「海馬…?」
「こんな中途半端な状態で千年を過ごして来たのだったら、黒龍神だって呆れるというものだ。だがオレはもう甘やかさない。お前を逃がしもしないし縛り付けもしない」
「何を…言って…?」
言っている意味がまるで分からないとでも言うように首を傾げる城之内に、海馬は強く睨み付けたままハッキリと言い切った。
「貴様が『コレ』によって罪に縛り付けられ…そして罪から逃げているというならば、その元凶をオレは今から打ち砕く。お前には覚悟を決めて貰う」
「っ………!! や、やめ…っ!!」
海馬の言葉によって、城之内には海馬がこれから何をしようとしているのかが分かった。慌てて掛けだして海馬を止めようとするが、筋肉の落ちた足が絡んでそれを阻んだ。皮肉にも自らの罪から逃げ続けた結果、その逃げ場を救い出す事が出来なかったのである。
倒れ込む城之内を気にも止めず、海馬は大きく腕を振り上げて、手に持っていたせとの頭蓋骨を思いっきり石畳に叩き付けた。
パキャン…ッ。
酷く軽い音がして、古い骨は簡単に粉々に割れてしまった。石畳の上に倒れ込んだ城之内の鼻先に、白い破片がバラバラと散らばる。黄ばんでいると思っていた骨は、存外に白いままだった。
「あっ…あぁ…ああぁっ…!! せと…っ!! せとぉ…っ!!」
淀んだ世界に城之内の悲鳴が響き渡る。
「うっ…あっ…あぁぁぁぁぁ―――――――――――――――――――――っ!!」
チリ――――――ン………。
石畳の上で泣き叫ぶ城之内の事を、ハァハァと肩で息をしながら見詰める海馬の横に、いつの間にかせとが並んで立っていた。口内に溜まっていた唾液をゴクリと飲み込んで海馬が横に視線を走らせると、せとは穏やかな顔をしたまま眼下の光景を眺めている。そして自らの頭蓋骨の骨を必死で掻き集める城之内を見ながら、静かな声で海馬に話しかけた。
『よくやった…救いの巫女よ。これで良いのだ』
せとの言葉に海馬はただ頷くだけだった。