*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第十五夜

 千年間、私は疑いもしなかった。
 自分が克也を見守る為にここにいるのだという事を…。
 だがしかし、それは間違いであった。
 私はお前に出会って漸く気付く事が出来たのだ。
 ただの思念の固まりである自分が、何故千年もの長い刻をこの贖罪の神域で過ごして来なければならなかったのかという真実の意味に。
 私は間違っていた。そして漸く本当の答えに辿り着く事が出来た。
 そうだ。これからはお前を見守ろう…。
 私の救いの巫女よ…!!

 




 盆の上に載せられた食事を何とか半分ほど胃に収めると、海馬はもういらないとばかりに盆を枕元に置き、そのまま布団の中に潜り込んで目を閉じた。
 本当は食器くらい片付けたかったのだが、身体は未だ重く気怠さが抜けない。今はとにかくゆっくり眠りたいと、暖かな布団の中でうつらうつらとしていた。眠りに落ちる寸前にカタンと木製の食器が何かにぶつかった音がしたのに気付いて薄目を開けると、枕元に置いてあった筈の盆がどこかに消えているのに気付く。あぁ『家』が片付けてくれたのだな…と眠気で重くなってきた意識の中でそう思い、海馬は特に意識する事も無く再び瞳を閉じて眠りにつく事にした。
 こういう不思議な現象にもすっかり慣れてしまった。この贖罪の神域に来てもうすぐ一月になるが、まるでもう何年もここに住んでいるような感じがする。
 僅か一月足らず。それでも自分は大きく変わってしまったと思う。
 マヨイガの世話になる事も、季節感の全く無い不思議な庭も、贖罪の神域特有の濁った空の色も、贄の巫女として城之内と共に過ごす事も、もうすっかり慣れてしまった。そして何より一番に、城之内に対する気持ちが変わってしまった。
 こんな気持ちに気付きたく無かった…と海馬は思う。けれど、気付いてしまったものはどうしようも無いし、気持ちを後戻りさせる事も出来やしない。それに何より海馬自身が、城之内を好きになった事を後悔していなかったのだ。
 相手が決して自分自身を見てくれない辛い恋だと分かっているというのに…。
 それなのにどうしても後悔する事が出来なかったのだ。


 憎くて愛しい城之内の姿を脳裏に思い描きながら、引き摺られるようにして海馬は眠りへと落ちていく。身も心も疲れ切った細い体躯は、結局その後、半日以上も意識を閉ざしたままだった。


 深い深い眠りから海馬が目覚めた時、部屋の中はまだ暗かった。身体が覚えている感覚で、常日頃起きている時間よりもまだずっと早いとは感じていたが、妙にスッキリと目覚めてしまった為に海馬はそのまま布団から身を起こす事にした。
 ずっと眠っていたせいだろう。昨日はあんなに重くて怠かった身体が、今は嘘みたいに軽く感じる。身体の調子も良いし、モヤモヤとハッキリしなかった脳裏も今は霧が晴れたかのようにクリアになっていた。
 海馬はゆるりと立ち上がるとそのまま部屋を出て行き、浴室へと向かう。途中、居間の壁掛け時計で時間を確認すると、いつも起きる時間より一時間以上も早い時間帯だった。
 浴室に辿り着き、いつものように冷たい水を浴びて身体を清める。身体の中心が熱くなるのを感じ取ると、浴室から出て身体の水気を拭いた。そしてそのまま部屋へと戻り、用意されてあった巫女としての衣装に着替える。
 白い着物に腕を通し、赤い袴を履いて帯を締めた。そして枕元に置きっぱなしになっていた青い組紐の鈴を手に取り、暫く逡巡した後、それをそのまま腰紐に結わえる事にする。チリン…という軽やかな音が、まだ暗い室内に美しく響いた。
 その音に至極満足して、海馬は朝の祈りをする為に神社の本殿へと向かう事にする。まだ暗い道に小さな銀の鈴のチリチリという音が、海馬が歩く度に辺りに響いて消えた。

「気持ちを…切り替えないとな…」

 鈴の音を聞きながら歩いていた海馬は、誰にともなくそう呟いた。
 昨日からの悩みは決して消え去った訳では無い。むしろ海馬の心の中に深く根を張っている。けれどその悩みに捕われ過ぎて、雁字搦めになって身動き出来なくなるのは、何よりも海馬自身が嫌う事だった。
 行動有りきが海馬の理念だった。自分の信じる道を突き進むのが海馬の信条だった。
 だから歩みを止めない事にしたのだ。
 色々と考えなくてはならない事がまだまだ沢山あるのだが、とりあえずは目先の事から片付けようと、海馬は気持ちを切り替える。そしていつものように本殿まで辿り着き、そのまま中に入ろうとしたのだが、ふと人の気配を感じてその動きを止めてしまった。

「っ………」

 別に恐れる事は何も無い。いつものように本殿に入ってしまえばいい事なのだ。
 けれど何故だかそれが出来なかった。本殿の中から覇気というか威圧感というか、近寄りがたい空気が満ちているのがハッキリと感じ取れたからだ。肌がピリピリする感覚に、海馬は身体を硬くする。
 無意識に腰に付けていた鈴を音が鳴らないように握りしめた。そしてなるべく気配を消して、そっと本殿の扉を開いて隙間から中を覗き見てみる。
 本殿の中は灯りが付いていて、中の様子がハッキリと見える。あちこちに視線を走らせ、そしてある一点で視点を留めた。
 祭壇の手前。黒炎刀とせとの頭蓋骨が祀られている前で、城之内が立ち尽くしていた。そして置かれてあったせとの頭蓋骨を大事そうに胸に抱きながら、俯いて肩を震わせている。

「ごめ…ん…。ごめんな…っ」

 まるで泣いているかのような震える声が、海馬の耳に届いて来た。

「オレ…、お前を食った…っ。お前にだけはこんな酷い事をしたくなかったっていうのに…。でも…食っちまった…っ。どうしても…飢餓に勝てなかった。勝つ事が出来なかった…っ。情けないよな…本当に…」

 手に持った頭蓋骨に優しく手を這わしている。自分の顔の辺りまで持ち上げて、時折黄ばんだ骨のそこかしこに唇を押し付けていた。

「お前にあんな顔させて…っ。あんな辛そうな…苦しそうな…顔を…。泣いて…叫んで…。あぁ…どんなにか痛くて苦しかっただろうに…っ。せと…っ!!」

 城之内はせとの頭蓋骨を抱いたまま、その場にガクリと崩れ落ちた。
 灯りが反射して、その様子は覗き見ている海馬にもよく見える。城之内の頬には涙が一筋伝っていた。

「アイツと…、お前を犯したあの食人鬼と同じ事なんてしたくなかったのに…っ。でもコレで、オレもアイツと全く同じになっちまった。お前を犯した。お前を犯して…食っちまった…っ! オレは同じだ…っ! アイツと同じだ…っ!!」

 チリ――――――ン………。

 鈴の音色と共に、海馬の脳裏に千年前の映像が流れ込んでくる。
 城之内の目の前で食人鬼に犯されていたせと。それを目の当たりにしてしまった城之内。
 まるでこの世の終わりを見たかのような顔をしていた。
 驚愕、悲しみ、苦しみ、怒り、恐怖、絶望…。そんな負の感情がごちゃ混ぜになったような、酷い顔色だった。いつも明るかった琥珀の瞳からは光が消え、溢れ出る負の感情以外何も読み取る事が出来ない。
 やがて城之内は、手に持っていた黒炎刀を振り上げた。せとを犯していた食人鬼は有無を言わさず切り捨てられ、支えを失ったせとは地面に投げ出された。
 城之内の異様な様子に慌ててその名を叫ぶも、彼の耳には届かず…。地面に投げ出された恋人に見向きもせず、彼はゆっくりと村へ向かって歩いて行った。右手には血に濡れた黒炎刀を携えて。
 黒炎刀の柄に付けられた赤い組紐の鈴が、城之内が歩く度にチリリチリリと鳴っていた。負のオーラに包まれた城之内と対比するように、軽やかで涼やかな音を鳴らしながら、それは少しずつ遠ざかっていく。
 数刻後には、その黒炎刀が最愛の恋人の命を奪う事になると…この時の城之内は果たして分かっていたのだろうか…?

 そうだ…痛いとは思わなかった。
 ただ熱いと…。首筋に何か熱い物が触れたと…あの時はそう思った。

 思わず自分の首に手をやり、海馬は居たたまれない気持ちになる。
 城之内の気持ちが痛い程分かるからこそ、これ以上の同一視は我慢がならなかった。

「城之内!!」

 扉を大きく開け放って、叫ぶようにその名を呼ぶ。
 ビクリと肩を揺らして心底驚いたように振り向く城之内に、海馬はズカズカと近付いて行った。そして城之内が抱えている頭蓋骨を指差し、それを睨み付けながらはっきりとした声で言い放つ。

「何を混乱しているのか知らないが、オレはソイツでは無い! どんなにそっくりでもオレはせとでは無いのだ!! 一緒にするのは止めろ!!」
「か…海馬…?」
「お前が食ったのはこのオレだ! せとでは無い! この海馬瀬人だ!! 貴様は自分の恋人を食った訳では無いんだ!! しっかりしろ!!」

 ズキリ…と、自分が発した言葉に海馬の胸が酷く痛んだ。だがその痛みを無理矢理押さえ込んで、海馬は尚も言い募る。

「貴様の恋人はもう死んでいる! 千年前に自分で殺した事を忘れたのか!? だがオレは生きている…っ! オレは生きているんだ…城之内!!」

 怒りにまかせて城之内の胸ぐらを掴み、グイッと力任せに引き寄せた。そして近付いた顔に自らも同じように顔を近付け…唇を重ねた。
 体温を失った冷たい唇に熱を押し付けるだけの接吻。色気も何も無い、目を見開いたままの口付け。
 やがて城之内が驚きに目を瞠ったのを確認して、海馬は唐突にその身体から手を離した。支えを失った城之内の身体がドスンと本殿の床に尻餅を付くのを見て、海馬は身を起こしながら「ふん」と小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「………っ」

 城之内は本気で驚いたらしく、目を大きく見開いたまま驚愕の表情で海馬の事を見詰めている。ポカンと開いた口からは、何の言葉も出て来なかった。
 その姿を暫く黙って見詰めて、そして海馬は踵を返すとその場から出て行った。


 一度も振り返る事無くズカズカと真っ直ぐ歩き、鳥居の脇に生えている桜の大木まで来て漸く足を止める。未だ暗い早朝の空気の中に、美しいピンク色の花を満開に咲かせているのを見上げて、海馬はその幹に寄りかかった。そして一度だけ、力任せに拳を幹に叩き付ける。

 チリ――――――ン………。

 殴られた衝撃により、桜の木はハラリハラリとピンク色の花びらを幾枚も雪のように地面に落とした。
 未だ真冬のこの季節。不自然に満開になっている桜の花より、雪の方がずっと自然だと感じる。

『桜に八つ当たりをするな…』

 突然背後から掛けられた声に、海馬は驚く事は無かった。いつもの鈴の音が聞こえていたから、彼が来ていたのは知っていたのである。
 殴った幹を見詰めていた身体を返して、海馬は桜の幹に背を預けるように寄り掛かった。そして目の前に立っているせとにふっ…と笑ってみせる。

「おい…。お前に一つ聞きたい事がある」

 せとの瞳を真っ直ぐに見返しそう尋ねると、せとはコクリと一つ頷いて『何なりと』と言い返した。

「今ここにいるお前は、ただの思念の固まりだと…そう言ったな?」
『あぁ…』
「せと本人の魂は、もう疾うに転生しているとも…」
『その通りだ』
「ならば問う。そのせとの転生体とは…このオレか?」

 海馬の問いにせとは答えなかった。静かに瞼を閉じて、桜の花びらが舞う冬の風に吹かれている。
 ただその沈黙が…海馬の疑問を肯定していた。

「そうか…やはりな…」

 同じように桜の花びらが舞う風に身を任せながら、海馬は俯いた。
 何という皮肉だろうか。城之内が愛した魂は今この身の内に内包しているというのに、彼が求めているのはあくまで千年前のせとなのだ。
 とっくに死んでしまっている過去の人物を捜し求め、今を生きている転生体には何の興味も示さない。城之内にとっては、自分など『せと』の身代わりに過ぎないというに…。
 それなのに、こんなにも愛してしまっている。魂が城之内に惹かれてしまうのを止められない。

「馬鹿みたいだ…」

 足元に積もる桜の花びらを眺めながら、ポツリとそう呟いた。余りの虚しさに涙すら出て来ない。
 だがふと…視線の先に白い足が見えて、海馬は顔を上げた。いつの間にかせとが近付いて来ていて、目の前に立っている。そしてニコリと優しく微笑むと、海馬に向かって口を開いた。

『お前まで…過去に捕われるな』

 せとの言葉に海馬は何度か瞬きをして、その顔をじっと見詰めた。

『先程自分でも言っていただろう? 私はとっくの昔に死んでいて、お前は生きているのだ。生きている人間が死んだ人間に負けそうになってどうするのだ…』
「だ…だが…っ!」
『何を恐れている? 確かに魂の働きかけはあったのだろうが、克也を好きになったのは紛れも無いお前自身の心に寄るものだ。私の心に流された訳では無い』
「………けれど…」
『心配するな。お前はお前の信じた道を行けば良い。未来を信じるのだろう? お前にとって、過去は全く必要の無いものの筈だ』
「確かに…。今まではそう思って来たのだが…」
『だったらそれを信じ続ければ良い。何を戸惑う事がある? 未来を掴めるのは生きている人間だけなのだ。死んだ私には決して出来ない。それが出来るのは、生きているお前だけなのだ』
「せと………」
『振り返るな。過去を払拭しろ。そして自分を信じなさい。お前が未来を信じている限り…願いは必ず叶う』

 そう言って、せとは優しげに微笑んだまま海馬に向かって手を伸ばして来た。思念の固まりであるせとの手が海馬に直接触れる事は叶わなかったが、頭や頬を撫でるような動きに海馬は何故かホッと安心する。
 海馬が落ち着いたのを見て、せとも表情を緩めてクスリと笑った。そして何かに気付いたように眼を細める。

『そうか…漸く分かった。私が千年もの長い刻をこの贖罪の神域で過ごして来たのは…お前に出会う為だったのだな。克也を見守る為では無い、お前を見守る為に私はここにいたのだ。その事を漸く…理解した』

 自らの導き出した答えに満足したように、せとはそっと海馬を抱き締めた。
 思念体のせとの身体を直接感じる事は出来なかったが、海馬は何故か優しい熱をそこに感じたような気がする。

「そうだな…。ありがとう…。お前のお陰でオレも漸く気付く事が出来た。もう迷う事はしない。絶対に」

 海馬の言葉にせとも納得したように頷いた。
 桜の花びらに包まれながら、海馬は何があっても城之内を愛し続ける決心をしていたのだった。