*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第十四夜

 それは…魂の選択。
 確かに抗いきれぬ何かがあったに違いない。
 けれど、それだけでは無い筈だ。
 自分を…信じておくれ。
 これから先の未来は、お前がその手で作り出すんだ。
 お前まで過去に捕われるな。
 そして克也を未来に導いてくれ。
 過去に捕われてそこから抜け出せぬのは…私だけで十分だ。

 




 城之内が海馬の食事を取りに行ってから数刻後。盆に食事を載せて戻って来た城之内は、海馬の泣き顔に一瞬驚いた表情をした。けれど特に何も言わずに、部屋に入ると枕元に盆を置いてニコリと微笑む。

「ほら、腹減っただろ? これ食べて今日はゆっくり寝てな。起きられるか? 手伝ってやるから…」

 だるそうに身体を動かす海馬に気付いて、城之内が手を伸ばして来た。冷たい腕を背に回して、海馬の身体を起こしてくれる。そしてその背を支えたまま、器用に片手で盆を持ち上げて海馬の膝の上に食事を置いた。
 ニコニコと微笑みながら海馬を見詰めている城之内に、海馬は軽く溜息を吐く。けれどそのままでいる訳にもいかず、重い腕を持ち上げて塗り箸を手に取った。そして小鉢に盛りつけられた蕗の煮付けを掬い取ると、小さな口を開けて銜え込む。あっさりとした味付けとサリサリとした食感が好みだと思ったが、余り食欲が無い為、そこまで美味しいとは感じられない。
 盆の上には蕗の他にも、竹の子と若布の若竹煮と、根菜と干し椎茸の汁物、白菜の浅漬け等が載っており、その他に不格好に切り分けられた瑞々しい桃が小鉢に入っていた。上品に盛りつけられている他の料理とは違うデザートに、海馬は桃の小鉢を指差しながら城之内に視線を向ける。

「これは…?」

 一言だけで尋ねると、皆まで言わなくても城之内は海馬の意図に気付いたようだった。眉根を寄せて苦笑しながら、片手で自分の後ろ頭をガシガシと掻く。そして少し照れ臭そうに笑いながら口を開いた。

「それは…オレが切ったんだ。庭で一番熟してた奴をもぎ取って来てな。切るのは余り上手くないけど、味は保証するぜ。まぁ、この家が用意している果実だから、美味いのは当たり前なんだけど」

 ニコニコと笑いながら海馬にそう告げる城之内は、一見するととても人懐こそうに見える。けれど、海馬には隠された裏の表情が見えていた。
 自分の為に犠牲になってくれた贄の巫女に配慮し、少しでも嫌われないようにご機嫌伺いをしているのだ。その証拠に背を支えている腕が、ほんの少しだけ震えている。
 コイツは一体、今まで何人の巫女に対して同じ事を繰り返して来たのだろう…と、海馬は少し悲しくそう思った。

「今までの贄の巫女にも、このような事を?」

 なるべく感情を載せないように淡々とそう聞くと、案の定、城之内はますます困った顔をしてしまう。けれど、その場でハッキリと頷いて答えてくれた。

「うん…まぁ…。身体がだるい時って甘い物が美味しいらしいからさ。何十代か前の贄の巫女が新月明けの朝に果物を欲しがって、オレが持って行ってやった事があったんだ。その時に甘い物を食べると落ち着くって話を聞いて、それ以来他の奴にも持って行くようにしてた。中には甘い物が嫌いだったり、余計な事をするなって怒る奴とかもいたけどな」

 最後の一言に海馬は思わず眉を潜めてしまう。けれど城之内はそれに気付いているのか気付かないのか、ただ「へへへ…」と笑っているだけだった。
 その笑顔を間近で見て、海馬は何だか自分が苛ついている事に気が付いた。
 城之内の笑みは偽物の悲しい笑み。だが、それと同時に彼自身に対してとても卑屈な笑みだった。

 自分は人間では無いから。自分は食人鬼だから。何より自分は大罪人だから。
 そんな自分が本当の意味で好かれる訳はない。
 だったら少しでも嫌われないように…嫌がられないように…。常に笑っていればいい。

 そういう城之内の心が、その笑みには滲み出ている。
 これは元々の性格や好みがあるのだろうが、海馬はそういった卑屈な態度を取られる事が大嫌いだった。何故ならそれは自分のマイナス面に目を背け、真っ向から立ち向かっていない事と同意義だったからである。
 海馬が城之内に心底同情したのは、彼が千年もの長い刻を、自分が犯した罪や幽閉されているという逆境に対して真っ正面から闘っていると信じていたからだ。贄の巫女に媚びへつらうような笑みを浮かべる奴だとは、微塵も思っていなかった。
 確かに城之内を取り巻く状況は過酷だと思うし、それによって彼がひねくれてしまうのも仕方が無いとは思う。現に、多少自信を喪失してしまったが、自分は未だに城之内の事を救いたいと思っているし、彼の力になりたいと願っている。
 けれど当の本人がこれでは、海馬がどれだけ強く願ってもその想いは届かないのだ。
 城之内自身が変わらなければ全く意味が無いのである。

 だけれども、一体どうすればいいと言うのだろう。

 城之内の卑屈な笑みを横目で見ながら、海馬は小さく嘆息した。
 千年という時間はとてつもなく長い。その長い刻の中ですっかり凝り固まってしまった城之内の精神を溶かすのは、決して容易な事ではないだろう。何故ならば、今城之内が信じている価値観を根底から引っ繰り返さなければならないからだ。

 そう…。
 自分には何の価値も無いと思っているその心から、変えていかなければならない。

 それがどれだけ大変かという事も、海馬にはよく分かっていた。だから心が重くなった。自分が酷く不甲斐なく感じた。
 それなのに、そんな海馬の心に全く気付かずに、城之内はニコニコと卑屈な笑みを浮かべ続ける。だから余計に苛々して気分が悪くなっていったのだ。

「あ…。えっと…海馬。これを…」

 海馬の機嫌が急激に悪くなっていったのに、流石の城之内も気付いたようだった。慌てて取り繕うように、城之内は自分の懐に手を忍ばせる。そして何かを掴んで、海馬の目の前で掌を広げてみせた。
 そこにあったのは、青い組紐の付いた小さな銀の鈴。
 無骨な掌の上に転がる鈴を見て、海馬の脳裏に既視感が浮かんだ。

『これを…お前に』

 見届けの巫女からこの鈴を貰ったあの時に、脳裏に浮かんだ映像が思い出される。

『持っていて欲しいんだ。オレ達は男同士だから、どうせ結婚は出来ない。けれどオレが永遠にお前を愛する証として…これをお前にあげよう』
『もう片方はオレが持っている。これでオレ達は対の鈴だ』

 明るい笑顔。心から幸せそうに笑って、城之内はそれをせとに手渡していた。
 今城之内が浮かべているような卑屈な笑みでは無い。幸せを信じ、自分の価値を知っていた頃の、心からの本当の笑みだった。

 あの時の、城之内が浮かべていたあの明るい笑顔は一体どこに消えてしまったというのだろう。城之内自身は今ここに間違い無く存在しているというのに。

 海馬は、城之内のあの笑顔が欲しいと思った。
 それもせとに向けられた千年前の笑顔では無く、まさに今ここで、自分に対して微笑んで欲しいと思った。

 体温を失った冷たい掌から小さな鈴を受け取る。組紐を摘んで少し揺らすと、それはチリン…という軽やかな音を響かせた。
 辺りに響き渡る透き通った音色に、沈んだ心が癒されていくのを海馬は感じた。それまで感じていたモヤモヤする気持ちを払拭するかのように、海馬はまた鈴を振る。するとまたチリンチリンと綺麗な音が鳴り響いた。

「この鈴、どこかに落としてしまっていたのか」
「いや、違う。お前をここに連れて来て身体を綺麗にする時に、オレが腕から外しておいたんだ。守り袋は汚れてたから捨てちまったけどな」
「身体を綺麗に…? そういえば着替えはお前がしてくれたのか?」
「あぁ、うん。だって血まみれのままじゃ気持ち悪いだろ? だからいつもこうやって家に連れて帰って来て、身体を拭いてから着替えさせるんだ。迷惑…だったか?」
「いや、助かった。ありがとう」
「良かった。迷惑だって怒る奴もいるからさ」

 そう言って城之内はまた卑屈な笑みを浮かべるが、鈴の音色のお陰で先程よりは腹が立たない。
 チリリチリリとまるで小鳥の囀りのような音に、海馬は知らず笑みを浮かべていた。

「なぁ…海馬」

 ふと…。暫く鈴を揺らして漏れ出る音を楽しんでいた海馬に、側で見ていた城之内が遠慮がちに呼びかけてきた。その声に城之内の方を向くと、彼は至極真剣な瞳で海馬の顔を見詰めている。
 そして海馬が指先で摘んでいる銀の鈴を指差して、少し震える声で問い掛けた。

「その鈴…。どこで手に入れたんだ…?」

 城之内のその一言で、鈴の音色で穏やかになった筈の自分の心がスッと冷めていくのを海馬は感じていた。まるで暖かな春の日差しの中で微睡んでいたのに、突然氷の張った池に突き落とされたような気分だった。
 海馬の顔色が変わった事に城之内は気付いていない。ただじっと、海馬が答えを返すのを待っていた。

「それを聞いて…どうするつもりだ」

 発せられた自分の声が随分と硬い事に海馬は気付く。
 唇をキュッと強く噛み締め、青い組紐の鈴を掌の中にギュッと握り込んだ。まるで城之内の視線から隠すようだ…と、自分でも少しおかしく感じる。

「別にどうもしないけど…。ただちょっと気になって…」
「これはオレがこちらに来る時に、見届けの巫女様から頂いたものだ」
「うん、それは分かるよ。でもオレが聞きたいのはそういう事じゃなくて」
「ではどういう事だ?」
「つまりお前が…じゃなくて、静香がどうやってそれを手に入れたのかって事が気になったんだ。アイツ何か言ってなかった?」

 珍しく余裕の無い表情で必死にそう問い掛けて来る城之内に対して、海馬は自分がどんどん冷静になっていくのを感じていた。
 ここで見届けの巫女から聞いた話を城之内に伝えるのは簡単だ。だが海馬は、それを素直に伝える気にはならなかった。
 城之内は…せとを見ている。自分と、そしてこの鈴を通して、千年前に自分が殺してしまった最愛の恋人を見ている。捜している。

 チリ――――――ン………。

 そうだ…。忘れていた。
 この男は、千年経っても未だせとの存在に捕われたままだった。
 それが酷く…憎いと思う。

 何も言わずただじっと城之内を睨み付ける海馬に、やがて城之内は諦めた様に深く息を吐き出す。そしてまた困ったような笑みを浮かべながら、「ごめんごめん」と明るく謝罪の言葉を口にした。

「何も聞いてないんならいいんだ。悪かったな、変な事聞いて…」
「去れ…」
「え? 何か言った?」
「一人でゆっくり食事をしたいのだ。もうあっちに行ってくれ」

 金色の髪をガシガシと掻きながらそう謝る城之内に、海馬は横目で睨み付けながら冷たい声でそう伝えた。そんな海馬の様相に城之内は気落ちしたように笑みを収める。「しまった…」という城之内の内心の声が海馬にも伝わって来るようだった。
 それでも何も言わずに睨み続けていると、城之内がまたヘラッと笑って立ち上がった。ただし、先程までの笑みよりもずっと弱々しいものだったが…。

「ご、ごめん。オレ邪魔だったよな。オレなんかが側にいたら安心出来ないし、ゆっくり休めもしないもんな。悪かった。もう行くから…」

 そう言って大股で部屋を出て行き、襖を開けて廊下に出る。そして「ごめんな。本当にごめんな」と何度も謝りつつ、ゆっくりと襖を閉めた。直後に少し急ぎ足で廊下を歩いて行く足音が聞こえ、やがて何も聞こえなくなった。

「………。は…ぁ………」

 静かになった部屋の中で、海馬は深く嘆息した。そして掌をそっと開いて、青い組紐の鈴を眺めてみる。
 掌で転がす度にチリチリと軽やかな音を出す鈴と、膝の上の盆に置いてある不格好に切られた桃を交互に見詰めた。
 本当は、一体誰にこの桃を食べさせたかったのかと…そんな事を思ってしまう。

「お前もだ、せと」

 振り返らず、鈴と桃を見詰めたまま海馬はそう口にした。
 いつの間にか背後で海馬と城之内の様子を見守っていたせとに、海馬は淡々と語りかける。

「一人でゆっくり食事がしたい…と言っただろう? お前だって例外では無い。どこかに行っててくれ」

 海馬の言葉にせとは悲しい表情を浮かべ、だが深く一礼をし、その姿をどこかに隠してしまった。
 完全に静かになった部屋の中で、海馬は酷い自己嫌悪に陥ってしまう。
 分かっていたのだ。これがただの八つ当たりだという事を。
 自分がせとに対してただ嫉妬しているのだという事は、嫌っていう程理解していた。

「何故だ…っ」

 気付いてしまった。気付いてはならない事に気付いてしまった。

「どうして…?」

 同一視される事があんなにも苦しかった。
 自分を通してせとを見詰めている城之内が憎かった。

「救わなければならないのに…っ!」

 余計な感情はいらないのに。自分の使命を果たさなければならないというのに。
 それなのに…こんなにも…。

「城之内…っ!!」

 あの鬼が憎くて…、そして何より愛しいと感じるなんて…!!



 魂が震える…。
 海馬はいつの間にか城之内に恋をしている自分に…気が付いてしまっていた。