理想は現実とは違う。
理想はあくまで理想に過ぎない。
迷う事もあるだろう。苦しむ事もあるだろう。道を見失う事もあるだろう。
けれど忘れないで欲しい…。
お前は間違い無く救いの巫女なのだ。
お前が諦めない限り、道は必ず救いへと続いているのだから…。
淀んだ意識が少しずつクリアになってきて、海馬は自分が目覚めようとしている事を知った。気を抜くとすぐに沈みそうになる意識を無理矢理上昇させると、自分の顎の辺りを何かがザリザリと舐めている気配に気付く。瞼は未だ重かったが、それでも何とか目を開けてソレを確認すると、視線の先にいたのはいつぞやの茶寅縞の猫だった。
海馬の胸元に座り込んで、温かい舌で海馬の細い顎を丁寧に舐めている。
「ふふっ…。こら…くすぐったいぞ…」
微かな痛みを伴うくすぐったさに、海馬は布団から腕を出して柔らかな猫の毛並みをそっと撫でた。途端に「みゃぁ」と可愛らしく鳴いた猫の喉からゴロゴロという音が響いてくる。喉元を撫でると、微かな振動が伝わってきた。
「どこから来たのだ…。勝手に家の中にまで入ってきおって…」
クスリと微笑みながら視線を巡らすと、障子戸が少し開いているのが目に入ってくる。丁度猫一匹入れる程度の隙間から、庭の景色が少しだけ見えていた。
外は相変わらず薄暗かったが、それでもすっかり明るくなっているのを見て、海馬は慌てて起き上がった。海馬の身体の上に丸まっていた猫が体勢を崩しつつも、滑らかな動きで畳の上に飛び移る。
少し不満げな顔をして海馬の顔を見上げる猫に苦笑しつつ、布団から這い出て立ち上がろうとした。けれどその途端、激しい目眩を感じて片膝を付いてしまう。
「っ………! なん…だ…?」
グラグラと回る視界に混乱しつつも、掌を額に当てて目眩が収まるのを待った。そしてある程度視界がしっかりしてきたのを確認し、今度は慎重にゆっくりと立ち上がる。
上手く力が入らず覚束ない足元に注意しつつ、障子戸までそろそろと歩いて行った。そして少しだけ開かれた障子戸に手を掛けて、スラリと横に開いてみる。
目に入って来たのは、いつもと全く変わらないマヨイガの庭の風景。様々な花の香りが風に乗り、ふわりと漂って海馬の身体を包んで溶けた。
いつもは夜が明ける前に起床する為に、朝の庭の風景をこんなにゆっくり眺めた事は無い。贖罪の神域特有の濁った空に、それでも高く上った太陽がボンヤリと辺りを照らしている。
寝坊して朝の祈りをさぼってしまった事が頭に浮かび、せめて着替えをして今からでも本殿へ行こうと振り返ろうとして…。だが海馬は、ある事に気付いて身動きする事が出来なかった。
目が…見える…?
そうだ…。確か自分は昨夜の新月のお勤めで、城之内に目玉を食われた筈だった。冬の青空がもう一度見たかったと、残念に思っていた事を思い出す。
けれど今自分の目は、確かに庭の風景を捉えていた。震える手を顔にやり瞼の上からそこを探る。丸い感触は確かに自分の眼球がそこに有る事を示している。
縁側の端の方に手水鉢があった事を思い出して、海馬はそろりそろりとその場所へ近付いていった。そして縁側に屈み込み、恐る恐る水をたたえた手水鉢を覗き込んでみる。水面に浮く落ち葉の隙間から、ゆらりと揺らめく自分の顔が見えた。
そこに映っているのは、間違い無く自分の顔。傷一つ無く、青い両目もそのままそこにある。そっと指先で探ってみても、それは間違い無く自分の両目だった。
「目が…ある…」
そう小さく呟いて、海馬は突如思い出したかのように自分の身体に目を向けた。
身に纏っているのはいつもの白絹の単衣。どこも血で汚れたような痕は無い。さらに襟を肌蹴て自分の胸や腹部を確認してみても、どこにも傷付いた痕は見付からなかった。それどころか身体全体を綺麗に拭われたらしく、血がこびり付いたような形跡も無い。
「………」
乱れた単衣を丁寧に直しながら、海馬は暫くそこから動けなかった。
そうだ…。どうして忘れていたのか。
新月の晩に食われた贄の巫女は、黒龍神の力により自らの生命力を高め、どんなに酷い傷でも一晩で治ってしまうという事に…。
けれど、まさかここまでとは思っていなかった。完全に失ったものまで再生するとは、考えもしていなかったのだ。
「なるほど…。これなら合点がいくな」
生命力を使い果たした贄の巫女は、僅か十年で死んでしまう。
ここまでの凄まじい快復力では、確かに十年ぽっちしか持たないだろう。
そう、自らの出した答えに満足した海馬は、もう一度立ち上がろうとした。さっさと部屋の中に戻って水浴びをし、着替えをして本殿に朝の祈りに行こうとしたのだ。
けれど途端に襲った目眩に耐えきれず、ぐらりと身体を傾けさせた。何とか踏み止まろうとしても、何故だか身体が酷く重くて言う事を聞かない。それどころか受け身を取る事すら出来そうに無く、海馬は来るべき衝撃に備えて強く目を瞑った…のだったが。
「海馬っ!!」
頭上から焦ったような叫び声が聞こえて、次の瞬間、海馬は逞しい腕に抱かれていた。自分の身体を抱き留めた冷たい腕と、濁った空を背景に視界に入ってきた金の髪と、そして酷く心配そうにしている表情に、海馬は何度か瞬きをしてその名を呼ぶ。
「城之内…?」
名前を呼ばれた鬼はホッと安心したように息を吐き、そして少し真面目な顔をして海馬の顔を見詰めてきた。
「何やってんだお前…。大人しく寝てなきゃダメだろう?」
「あ…いや。もうこんなに日が高くなっているし、朝の祈りに行こうかと…」
「真面目なのも結構だけど、今日一日は動くのは無理だぜ。てめぇの生命力使って、あんだけ酷い傷を治しきったんだからな。身体…重く感じるし、何より自由に動かないだろ?」
「そ…そうだが…。何故…だ…?」
「傷は治るが、流石に無事ではいられないって事だ。使っちまった生命力の回復にはほぼ丸一日かかるから、今日は大人しく寝てた方がいい。おまけに酷い貧血になっている」
「貧血?」
「そう、貧血。身体ん中の血が足りなくなるのって、貧血って言うんだろ? オレはそう聞いたけど…」
「あぁ…まぁそうだが…」
「傷は治っても身体の血液が復活するまでは少し時間がかかるから、無理しない方がいいぜ。な?」
言い含められるように同意を求められて、海馬はその場でコクリと頷くしか無かった。現に身体は酷く重く感じ、今は横になってゆっくり休みたいと感じる。
海馬が素直に頷いたのを見て、城之内は満足そうに笑ってみせた。そして海馬の身体を支えたまま、部屋の中へと戻って行く。中央に敷かれている布団に海馬の身体を横たえると、丁寧な手付きで掛け布団を被せてくれた。
「大人しく寝てろよ。今食事持って来てやるからな」
そう言って城之内が立ち上がった時、いつの間にか部屋の隅に居た猫がフーッと毛を逆立てて唸るのが聞こえた。
猫が威嚇しているのは海馬では無い。目線の先は城之内だ。
「何だ。猫を連れ込んでいたのか?」
「オレではない。勝手に入って来たのだ」
「そうか。よしよし、オレは何もしないぜ? ほら…チッチッ」
城之内は姿勢を低くし、舌を軽く打ち鳴らしながら猫に近付いていった。そろそろと手を伸ばして猫に触れようとする。
海馬の目から見ても、それは猫を警戒させないような気を遣った動きだった。けれど本能に敏感な猫がそんな城之内に騙される筈も無く…。
あともう少しで触れるという段階になった時、突然物凄い速さで猫が手を出し、城之内の手の甲に三本のハッキリとした爪痕を付けた。そしてそのまま全速力で障子戸の隙間から逃げ出し、ガサガサという生け垣の音と共にどこかに消えてしまった。
余りに突然の出来事に思わず上半身を起き上がらせて猫が去った方を見ていると、ふぅ…と軽い溜息が漏れる音が聞こえてきた。海馬が庭に向けていた視線を戻すと、城之内が再び立ち上がりながら少し寂しそうに手の甲の傷を見ているのが目に入ってくる。じわりと滲んでくる血を舌でペロリと舐め取って、へへへ…と困ったように笑っていた。
「久しぶりに触ってみたかったんだけどなぁ…。やっぱりダメだったか」
全てを諦めきった寂しい笑顔。
そんな城之内の顔を見て、海馬はふと…先程まで見ていた夢を思い出した。
激しい罵声を浴びせられながら、何一つ言い訳しなかった城之内。救いも奇跡も、何一つ信じられない城之内。今彼が抱えているのは、絶望という諦めの心…それだけだった。
あれだけ酷く罵られながら、城之内はそれでも笑っているのだ。でもきっとそれは、心からの笑みでは無い。何故ならそれは…。
「海馬?」
突如名を呼ばれて、海馬は声のする方に振り返った。すると心配そうな顔をした城之内が、じっとこちらを覗き込んでいる。
「大丈夫か?」
「あ…あぁ…」
「もしかして少し熱があるのか…? たまに居るんだよ。慣れない内は熱を出して寝込む奴が…」
そう言いながら城之内は海馬の顔に手を伸ばしてきた。きっと額か頬を触って、海馬の熱を確かめようとしただけだったのだろう…。
それなのに伸びてきた指先を見て、海馬は昨夜自分が見た最後の光景を思い出してしまった。
闇に光る長い爪。それがどんどん近付いて来て自分の視界を遮り、そして…。
「ゃ………っ!!」
思わず伸びてきた手を、パシンと打ち落としてしまう。
一瞬後にはハッと気付き、慌てて城之内の顔を見上げた。
その時、自分が一体どんな顔をして城之内を見詰めていたのか、海馬には分からない。けれど城之内は特に驚く事も無く、またニコリと笑うとその場から立ち上がって廊下に続く襖を開けた。
「す…すまん…っ!!」
部屋を出て行こうとしている城之内に慌ててそう謝ると、振り返った城之内は苦笑しながら首を横に振るだけだった。
「別に謝る必要なんて無いぜ。一度でもアレを体験すると、オレの事が怖くなるのは当然だからな」
「だ…だが…っ」
「気にすんなって。皆そうなんだ。お前だけじゃ無いんだからさ」
そう言って城之内はヒラヒラと手を振ると、「んじゃ、飯持ってくるからな」と海馬に伝え、そのまま部屋を出て行ってしまう。
後に残された海馬は、酷く遣り切れない気持ちになっていた。掛け布団をギュッと強く掴み、肩を落として項垂れる。
そうだ…。城之内のあの笑みは…、贄の巫女に対しての遠慮の笑みなのだ…。
自分の為に犠牲になってくれる贄の巫女に、少しでも安心して貰おうと、少しでも心穏やかに過ごせるようにと、少しでも波風立たないように付合おうと、そういう気遣いの笑みなのだ。
だがそれは、とても悲しい事だ…と海馬は思った。
本心からの笑みでは無い。一歩引いた場所からの…偽物の笑み。
「ぅっ………っ!!」
情けなくて涙が出てくる。
彼の本心からの笑みを見たいと思った。それなのに…そう思っている自分こそが、城之内にあの気遣いの笑みをさせている事に気付いてしまった。
それが情けなくて悔しくて、涙が止まらない。
「何が…救いの巫女だ…っ!!」
城之内を救いたいと…そう思っていた筈なのに…!!
海馬は城之内を救えると信じていた自らの自信が、足元からガラガラと崩れていくのを感じていた。