*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第十二夜

 千年もの長い刻の中で、誰も私の存在に気付く者は居なかった…。
 男も…女も…、恋人であった克也でさえ…。
 克也も私も、千年という刻をずっと孤独に過ごして来た。
 だからこそ、奇跡だと思ったのだ。
 そう…お前の存在は確かに奇跡なのだ。
 お前の存在こそが奇跡の始まりなのだ。
 私はそう…信じている。
 信じさせてくれ…『救いの巫女』よ…っ!!

 




 ゆらゆらと…。まるで波間に漂う小舟に乗っているような感触に、海馬はそろりと瞳を開けた。
 鈍く霞んだ視界の中、まだ暗い夜空を背景に金色の髪が揺れているのが分かる。

「………じょ…ぅ…ち…?」

 掠れた喉から何とか声を絞り出して名前を呼ぶと、それに気付いた城之内がこちらを向いた。視界は相変わらず霞んでいて、城之内の顔がよく見えない。

「気が付いたか?」
「………」
「今、家まで連れて行ってやるからな。寝ててもいいぞ」
「………い…え…?」

 頭がボーッとして、城之内の言葉が理解出来ない。ただ、寝ててもいいんだという事だけはしっかり理解出来たので、海馬はその言葉に従って再び瞼を閉じた。
 逞しい腕が自分の身体を抱き上げてくれているのが分かる。その腕の強さに心から安心し、けれどまるで氷のような体温の冷たさにとても悲しくなった。

 この腕が…もっと熱ければいいのに…。

 そう願いながら、少しだけ浮上した意識がまた深く潜っていくのを感じていた…。



 チリ――――――ン………。

 どこかであの鈴の音が鳴っているのが聞こえて、海馬はそっと瞳を開いた。色の無い真っ白な空間に驚いて視線を辺りに巡らすと、数メートル先に二人の人物が立っているのが見える。
 一人は黒い着流しを着た城之内。そしてもう一人は巫女姿の人間だった。
 自分では無い、別の人間だ。長い髪を一つに纏めて背中に垂らしている。小柄な体型から女性だという事が分かるが、誰かという事までは分からなかった。
 城之内はこちらを向いている為に顔が見えているが、手前に立っている巫女はその城之内と向き合う形の為、表情が一切見えない。背中を向けたままの巫女は、必死に何かを城之内に訴えている。そしてそれを聞いている城之内の表情は、どんどん重くなっていった。

「近寄らないで!! この…化け物!!」

 ふいに、女性の怒鳴り声が海馬の耳に入ってきた。その声にハッとして城之内の方を見ると、彼は酷く辛そうな表情をしながら、けれど決して反論する事無く黙して俯いている。
 女性の声は、恐怖で酷く震えていた。そして城之内に指をさし、また何か煩く喚いている。
 城之内が余りに辛そうに女性の言葉を聞いている為に、海馬は罵声を浴びせ続けている女性を留めようと思わず一歩を踏み出した。ところがその途端、城之内の目の前にいる人物の映像が切り替わった。
 先程とはまた違う人物。今度もまた女性のようだった。

「家に帰りたい…。お父様とお母様にお会いしたい…」

 両の掌を顔に当て、肩を落として泣いている。泣き続ける巫女を前に、城之内はまた辛そうな表情をした。けれど決して声をかける事は無い。
 暫くその様子を見守っていると、海馬の目の前で次々と巫女が入れ替わっていった。そして城之内に対して自分勝手な事を次々と言っていく。

「化け物め…っ!! 私の側に来ないでくれ…っ!」
「こんな風に死ぬ為に生まれて来た訳じゃないのに…っ!! 誰か助けて…っ!!」
「新月の晩には必ずお勤めを果たします。けれどそれ以外では…貴方の顔など見たくもありません…っ!」
「もう嫌…っ!! あんな痛くて苦しいのは…もう嫌よ…っ!!」 
「鬼になった時点でさっさと死ねば良かったのに…。子孫にまで迷惑をかけるなよ…っ!」
「元は黒龍神に仕える神官だったのでしょう? こんな事をしてまで生き続けて、恥ずかしくないの?」
「救いなんか訪れるものか…! お前に待っているのは地獄落ちだけだ!!」
「黒龍神様…助けて下さい…っ!! 私はこんな処で死ぬのは嫌です…っ!!」
「死ね…っ!! お前が今ここで死ねばいいんだ…っ!! そうすればこっちは現世に帰る事が出来るのに…っ!!」
「お前のせいで、俺の人生は滅茶苦茶だ…っ!! どうしてくれるんだ!!」
「帰して…っ!! 私をもう…家に帰して…っ!!」

 様々な事を言っては消えていく歴代の贄の巫女達。「死ね」「化け物」と何度も蔑まされても、城之内は言い訳一つしなかった。ただ黙って彼等の言葉を聞いている。辛そうに表情を歪めても、涙一つ見せない。けれど、硬く握った拳が細かく震えているのを、海馬の目は見逃さなかった。
 酷い暴言の数々に、海馬は思わず自分の耳を押さえたくなる。

 もう止めてくれ…っ。

 そう思って顔を上げると、ふと、その暴言の中に少しずつ優しい言葉が混じっていくのが分かった。刻が経つに連れて、城之内に対する同情の念が増えていったらしい。
 暴言は相変わらず止まない。けれど時折現れる、城之内を心配する巫女達。決して多くはないが、彼を心から同情する者達は確かに居たのだ。そして暫く経った頃…。

 チリ――――――ン………。

 鈴の音と共に、海馬の目の前にどこかで見た事のある女性が現れた。
 どこか憂いを帯びた表情の、優しそうな美しい女性。

「困った人…。どうしても奇跡を信じられないのですね」

 深く優しい声で城之内に語りかけるその女性は、海馬がこちらに来る前に黒龍神社の本殿で対面した…漠良の叔母だった。

「本当は私が救って差し上げたかったのですけれど…。残念ながら私は九十九代目ですから。あと一代…惜しかったわ」
「何代目だろうと関係無い。オレを救えるヤツなんている訳が無い」

 それまでずっと黙っていた城之内が、ここに来て初めて口を開いた。
 全てを諦めきってしまったかのような…重い口調だった。

「またそんな事を…。黒龍神が自らそう予言なさったのですよ?」
「それは本当に予言だったのか? ただの気休めだったんじゃないか?」
「龍神がそんな意味も無い気休めを言うとは思いませんけどね。貴方は…黒龍神を信じてはいないの?」
「信じるも何も…。今のオレに、神を信じろと言うのか?」
「だって貴方も昔は、黒龍神に仕える神官だったではありませんか。黒龍神の御力はよく知ってらっしゃるのでしょう?」
「あぁ、知っている。嫌って言う程知っているさ。だから奇跡なんて信じられないんだよ…」

 城之内はそう言うと、その場にしゃがみ込んで俯いた。

「あれだけの事をしたオレを、黒龍神は決して許さない…。本当はオレを殺すつもりでいたんだからな。だから救いなんて来ないし、救うつもりも無い。オレを救う事は、黒龍神の本心じゃないからな。オレは…救われてはいけない…」

 蹲った城之内に、困った顔をしたままの漠良の叔母が近付いて行って、そっとその背を撫でた。白く細い手で何度も何度も、優しく…。

「本当に救う気が無いのなら、黒龍神だってそんな事は仰らないわ。貴方はきっと救われる…。次の贄の巫女によって…必ず。だからどうか、百代目の贄の巫女を…救いの巫女を信じて差し上げて。そして貴方も…自分の救いを求めて下さい」

 チリ――――――ン………。

 城之内を見詰める彼女の視線は慈愛に満ちていた。その光景から目を離す事が出来ずに立ち竦んでいると、三度あの鈴の音が辺りに響いた。そして海馬の目の前でまた人物が入れ替わる。
 力無く本殿の前の石畳に倒れ込んでいる城之内。返り血で染まった神官着をそのまま着ていて、身体を丸めるように倒れている。血は既に乾いていて、着物はバリバリになっていた。
 余りにもピクリとも動かないので、海馬は恐る恐る城之内の側に近付いてみた。
 長い前髪が影を作って、城之内の表情は見えない。ただ腕の中に、何か黒い固まりのような物を大事そうに抱えている事だけは分かった。

「城之内…?」

 呼びかけてみても反応すら無い。ふと、まるで死んだように寝転がっている城之内の身体の上に影が出来たのに気付いて、海馬は目線を上げる。そこにはいつの間にか巫女姿の一人の女性が、自分と同じように城之内の事を見下ろしていた。

「………?」

 今まで海馬が見てきた歴代の贄の巫女達は、一人一人がとても若かった。大体が十代後半から二十代後半くらいの間だっただろう。
 だがこの女性は、その中でも一番年上のようだった。少なくても十代や二十代では無い。多分三十代前半から四十代前半にかかる位の年齢だろう。ただ、年の割にはとても美しい女性だった。穏やかな笑みを浮かべて、漠良の叔母と同じ慈愛の瞳で城之内の事を見下ろしている。
 暫く城之内を見詰めていた女性は、その場でしゃがみ込むと城之内の腕の中に手を伸ばした。そして大事そうに抱えられていたものを、抜き取ってしまう。

「っ………!?」

 女性が城之内から取り返した物を見て、海馬は思わず後ずさってしまう。女性の手の内にあった物…、それはせとの生首だった。
 季節は冬。冷たい空気が腐敗を遅らせていたのだろうが、もうその首はとても見られた物では無い。白い肌はドス黒く変色し、あちこちの肉が腐り落ちている。目玉もすっかり溶けてしまって、あの美しかった青い瞳はもうどこにも見られなかった。
 醜く腐った生首。けれど女性は不快な表情一つせず、その首を大事そうに胸に抱いた。

「くっ………!!」

 自らの懐からせとの首が消えた事に気付いた城之内が、一拍遅れて反応する。慌てて瞳を見開き、上半身を持ち上げて女性に向かって手を伸ばした。

「せと…っ!! 返せ…っ!! オレのせとを返せ…っ!!」

 必死に起き上がろうとしているが、身体がぐらついてまた地面に倒れ込んでしまう。ゼェゼェと荒く息を吐きながら、それでも何とかせとの首を取り戻そうとしている城之内の姿に、海馬は泣きそうになった。完全に弱り切っている城之内から側の女性に視線を移すと、彼女は未だ慈愛に満ちた瞳で城之内の事を見詰めていた。そしてせとの首を城之内から隠すように袖で覆ってしまう。

「お可哀想に…。こんな姿を晒され続けて、せと様もどんなにか恥ずかしくて哀しい思いをなさっている事でしょう」

 せとの首を城之内の視線から隠した女性は、とても優しい声でそう呟いた。
 聞いている者が心から安心するような…そんな素晴らしい声だった。

「ましてや貴方はせと様の恋人であった筈。大好きだった貴方にこんな姿を晒すのは、せと様にとっては何よりも辛い事だと思いますよ」
「か…えせ…っ。せとは…オレ…が…殺した…ん…だ…っ! オレが…側…に…いて…やらないと…泣いちまうだろ…っ!」
「克也…よくお聞きなさい。こんな事をしていては、せと様を辱めるだけですよ。せと様に…これ以上哀しい思いはさせたくないでしょう?」
「っ…! うぅっ…! せ…と…っ! せと…っ!!」
「三年…。三年間だけ土に埋めて差し上げましょう。三年も経てば、大地の浄化によって骨だけになる筈です。そこまでになれば…きっとせと様も恥ずかしくは無いでしょうから」
「嫌だ…っ! せと…!! せとぉ…っ!!」
「聞き分けなさい、克也。今の貴方では私を止める事は出来ませんよ。もう一月以上もこんなところに寝転がっていて…。最初の新月の晩も何も食べていないから、こんなに弱り切ってしまっているではありませんか」
「ふっ…うっ…! うっ…!! せ…と…っ!!」
「えぇ…そうよ。泣いてもいいんですよ…。これから…一緒に罪を償っていきましょうね…。私も母親として…貴方の罪を共に背負う覚悟があります」
「っ…!! うっ…! 母…上…っ!!」

 二人の会話を見ていた海馬は、「そうか…」と小さく呟いた。
 この美しい中年女性は、城之内によく似ていたのだ…。
 城之内が食人鬼に堕ちて最初の百年は、三大分家からでは無く城之内本家から巫女が選ばれていた。そうなると、特に初期の巫女は城之内自身と何かしら繋がりがある人物だとは思っていたが…。

「まさか…母親だったとはな…」

 黒龍神の慈悲も何も無い…全くの零から始めなくてはならなかった初代贄の巫女。後の巫女達がある程度の慈悲を受ける事が出来ているのは、全てこの人のお陰だった。
 基本的に処女童貞が原則とされている巫女に、既に母親となっている彼女が選ばれたのは、きっと黒龍神の思惑があったのだろうと思う。そうでなければ…こんな大役はとてもじゃないが務まらないだろう。

 チリ――――――ン………。

『この方は…私を隠してくれたのだよ…』

 突然、鈴の音と一緒になって背後から聞こえてきた声に海馬は振り返った。
 そこにいたのは白い着物を着た、せと本人だった。

『日に日に醜く腐っていく私の首…。私は…そんな自分を克也に見られたく無かった。ずっと見るなと…私をもう見ないでくれと叫んでいたのに、その声は克也には届かなかったのだ…』

 悲しそうに顔を歪め、せとは自らの首を大事に抱える城之内の母親を見詰めていた。

『けれどこの方が…私の首を隠してくれた。縋る克也を振り切って、土中に埋めてくれたのだ。お陰で三年後に掘り返された時には、すっかり醜い姿ではなくなっていた。本当に…感謝しているのだ』

 泣き縋る城之内とそれを押し留める母親の映像が少しずつ薄れていって、やがて綺麗に消えてしまった。この白い空間に残されているのは、今は海馬とせとだけだ。
 城之内と母親が消えていったその場所をいつまでも見詰めているせとに、海馬は身体ごと向き直った。そしてこの贖罪の神域に来てからずっと疑問に思っていた事を口に出す。

「お前は…何物だ?」

 海馬の質問にせとは振り返り、視線が合わさるとフッと微笑みを浮かべる。

「ここに残った魂なのか?」
『いや…魂では無い…』

 海馬の問いに、せとはゆるりと首を横に振って答えた。

『私の魂は輪廻の方式に則って、疾うに転生済みだ…』
「では何だ? 何故意志を持ってここにいられるのだ?」
『思念だ』
「思念?」
『そう…。私はただの思念の固まり。克也の事が心配で放って置けなくて、側にいたいと強く願ったせとの思念の固まりだ。余りに強い人の願いは、思念を有る一定の場所に繋ぎ止める。それが私。克也の側にいて、ただ見守る事しか出来ない無意味な存在だ』
「………」
『誰にも存在を認められる事無く、ただずっとここにいた。千年もの長い刻を…克也が苦しむ様だけを見続けて来た。何かしてあげたくても何も出来ない。何故なら私はただの思念の固まりに過ぎないからな』
「お前………」
『ところが奇跡が起こった。今まで誰一人私に気付く者はいなかったというのに、お前だけが気付いてくれた。私の姿を見、声を聞き、意志を交わす事が出来る。お前は何とも思っていないようだが、これは本当に奇跡なのだよ。千年の贖罪の中で、初めて起こった奇跡なのだ』
「奇跡…?」
『そう、奇跡だ。だから私は信じている。救いの巫女よ…どうか克也を救ってやってくれ…。私も出来うる限りの協力をしよう』
「アイツを救う? そんな今更な事を言われても困る。オレはここに来る前から、あの鬼を救ってやると決めていたのだ」

 せとの頼みに、海馬は胸を張ってそう答えた。まるで「何を馬鹿な事を聞いているのだ」とでも言うように。
 そんな海馬の答えを聞いて、せとは心底嬉しそうに破顔した。そして美しい笑顔を浮かべたままコクリと一つ頷いて口を開く。

『宜しい。では、そろそろ目覚めなさい…』

 チリ――――――ン………。

 最後にもう一度だけ澄んだ鈴の音が響き渡り、海馬の意識は浮上していった。