*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第十夜

 昔から…太陽のような男であった。
 いつでも明るくて、側にいればこちらまで温かくなるような熱を持っていた。
 それなのに、その太陽は地に堕ちてしまった。
 今では輝く事も忘れて、薄闇の世界で僅かな光を放つに過ぎない。
 その僅かな光でさえ、本人には放っている事すら分かっていないのだろう。
 けれど…貴方なら分かってくれるだろう?
 それでも彼は太陽なのだ。
 地に堕ちてなお、あんなにも眩しい…太陽なのだ。

 




 その日は朝から体調がおかしかった。

 いつものあの夢は見なかったが、身体が熱に浮かされたように妙に熱く、いつも以上に汗びっしょりになって目を覚ました。
 トクン…トクン…という自分の心音がやけに強く感じられ、身体の中心に熱が溜まっていくのが分かる。
 朝五時の時計の音を聞いて布団から這い出るものの、ぐったりと身体全体が重く感じて、いつものようなスッキリとした目覚めにはならない。頭の中心も霞掛かったようにはっきりせず、満足な思考すら出来なかった。
 額に手を置いて深く溜息を吐き、それでも海馬は何とか立ち上がって、浴室へと向かった。そして冷たい真水を頭から何度も浴びる。
 凍るような冷たい水を浴びて一時身体は楽になったものの、着替えを済ます頃にはまた気怠さを訴えるようになっていた。それを無視するように本殿に赴きいつものように詔を唱えるが、全く集中する事が出来ない。
 結局最後まで精神を統一する事が出来ず、海馬は肩を落として深く息を吐き出した。

「何なのだ…一体…」

 トクトクと高鳴る心臓を押さえつつ、海馬はゆるりと立ち上がって振り返る。そしてそのまま本殿の扉を開け放ち、外に出て履き物を履いた時だった。「海馬」という静かな呼び声に気付いて、海馬は動きを止め声のした方に視線を向けた。
 本殿のすぐ側に生えている大きな桜の木。その太い枝の上に、黒い着物姿の城之内がいた。幹に背中を預け、腕を組み俯いて座っている。
 いつもは琥珀色の瞳を真っ直ぐこちらに向けて話しかけてくる癖に、今日に限って城之内はこちらに視線を向けようとはしてこなかった。

「大分キテるようだな。大丈夫か?」
「………?」

 戸惑っている自分を見透かすように放たれた城之内の言葉に、海馬は何度か瞬きをして首を傾げる。何故城之内が自分の体調の異変に気付いているのか、理解する事が出来なかったからだ。
 思わず口から漏れ出た「何故…?」という疑問に、城之内がこちらに向き直った。
 一瞬目が合ったが、その途端、城之内はふいっと自ら顔を横向けて再び視線を外してしまう。そして口元にだけ笑みを浮かべて満開の桜を見上げつつ、軽い溜息を吐きながら言葉を放った。

「いや、そりゃ気付くだろうよ。何年同じ事を繰り返してると思ってるんだ」
「は………?」
「まぁ…仕方無いか。お前にとっては初めてだからな、一応教えといてやる。日が沈むまでは今まで通りにしていても構わないが、日が暮れたら準備を始める事。朝食や昼食は摂ってもいいが、夕食は食わない方がいいぜ。オレは別に構わないが、お前の方が吐くかもしれないからな。それから、巫女としての正式な衣装は着て来なくてもいい。風呂に入って身体を清めたら、単衣を羽織るだけで構わない。そのまま夜半になったら本殿まで来い」
「ま…待ってくれ…っ。一体何を…言って…」

 次々と飛び出す城之内の言葉に、海馬は完全に混乱してしまった。彼が一体何を言おうとしているのかが分からない。
 そんな海馬の態度に、城之内は逆に驚いたように目を瞠り、次の瞬間には呆れたように言い放った。

「何だ。気付いて無かったのか」
「は…? 何を…だ…?」

 心底驚いたような溜息混じりのその言葉に、海馬はますます混乱してしまう。
 何とか城之内の真意を探ろうと彼の方をじっと見詰めていると、再びこちらに向き直った城之内が、クスリと笑いながら答えを弾き出した。

「今日は新月だぜ、海馬」
「っ………!!」

 城之内の口から漏れ出た『新月』という言葉で、海馬は漸く自分に課せられた本当の使命を思い出した。
 そうだ…。自分はこの食人鬼の飢餓を満たす為に、ここにやって来たのだった…。
 慣れない生活に戸惑い、毎日を必死に暮らす内に一番大切な事を忘れてしまっていた。
 忘れてはいけなかったのだ。
 自分は…贄の巫女だった…。

「身体…熱いだろ。それ欲情してんだよ」
「欲…情…? 何故…?」
「それが黒龍神の慈悲だからだ。細かい事は本番迎えりゃ嫌でも分かる」
「っ………!」

 城之内の言葉にすっかり動揺してしまった海馬をチラリと見遣り、彼は三度視線を外してしまう。そして枝の上で身を起こすと、ひらりとその場から飛び上がり本殿の屋根へと着地した。
 まるで風に舞う羽のような軽い動き。人間には有り得ない跳躍力。
 余りにも人間らしく振る舞うものだから、海馬はすっかり忘れていたのだ。目の前のこの男が人間では無く、食人鬼なのだという事を。
 いや、忘れていた訳では無い。城之内が『鬼』だという事は常に頭のどこかにあった。獣のような瞳孔も、闇夜に煌めく金の髪も、本能的に感じる恐怖も、その全てが彼がただの人間では無いという事を嫌と言う程教えてくれていた。
 それなのに、海馬はいつの間にかそれらを意識する事を止めてしまっていたのだった。
 何故だかは分からない。けれど一つだけ分かる事がある。それは…。

 自分はいつの間にか、この城之内という男の存在を受け入れてしまっていた。

 という事だった…。

 屋根に飛び移った城之内の動きを追い、彼の方をじっと見詰める。
 海馬の視線に気付いている筈なのに、城之内はもう振り返ろうとはしなかった。ただ暫く黙って冷たい風に吹かれ、そして「じゃあ…夜に」と一言だけ残してその場から姿を消した。その後ろ姿を見送った次の瞬間、海馬は己の身体が震えている事に気付いて蹌踉めいてしまう。

「っ………! ふっ………っ」

 誰の気配も無くなった神社の境内で、海馬は己の身に腕を回して蹲ってしまった。
 覚悟はしてきた。それが己の大切な役目だという事も、分かり過ぎる程に理解している。
 それなのに…今になって…ここまで来て…、まさか恐怖を感じるなんて思いもしなかったのだ…。

 怖い…怖い…怖い…怖い…怖い…っ!!

 ガタガタ震える身体をギュッと抱き締めて蹲っていると、突然側の生け垣からガサリと葉が揺れる音がした。
 城之内が戻って来たのかと思って恐る恐る振り返ってみると、そこにいたのは見覚えのある茶寅縞の猫であった。現世の黒龍神社の境内を縄張りにしている野良猫で、海馬も何度か会った事がある。
 海馬の姿を目に留めた猫は暫くキョトンとしていたが、やがて「ミャア」と可愛らしい声で鳴くとそのままゆっくり近付いて来て、海馬の足元に顔をすり寄せてきた。
 グリグリと額を押し付けてくる猫に海馬は笑みを零し、その猫を抱き上げながら立ち上がり、本殿の階まで歩いて行く。そしてそこに腰を下ろして、膝の上で猫を抱き締めた。

「慰めて…くれるのか?」

 静かな声でそう囁くと、猫はまるで返事をするように「ミャア」と鳴いた。そして海馬の胸元まで伸び上がると、琥珀の瞳をうっすらと細めてゴロゴロと喉を鳴らす。
 綺麗な琥珀色の瞳。まるで太陽のような輝かしい色。明るい茶色の毛の先は、見方によっては金色にも見える。

「あっ………」

 まるで小さな太陽のようなその色を見て、海馬はふと城之内の事を思い出した。
 昼間でも夕闇のように薄暗く太陽なんて見る事が出来ないこの贖罪の神域で、あの金髪と琥珀の瞳はまさしく太陽の代わりだった。光の差さない薄闇の世界で、あの男こそが太陽そのものだったのだ。
 それなのにあの太陽は、自らが犯した罪に縛られて輝く事を忘れている。いや…忘れているのではない。多分…きっと…知らないのだ。輝ける事を知らないまま、千年もの長い時間を過ごして来たのだ…。
 そこまで思い至って、海馬は先程まで感じていた恐怖が少しずつ薄れていくのを感じていた。
 そうだ…もう怖くない。己の『本当』の使命を思い出せ。自分はただ食われる為だけに、ここに来たのでは無い。あの悲しい食人鬼を、千年の呪縛に捕われたあの男を救う為に来たのだと、その事を今こそはっきりと思い出せ…っ!!
 その為だったらどんな苦痛にも耐えてみせる。その自信が自分にはある。
 救いの形がどういうものだかは未だ分からない。けれども、彼を救いたいと…そしてあの太陽を輝かせたいと決心したこの気持ちだけは、きっと間違ってはいないと思う。

「ありがとう、お前のお陰だ。もう怖くはない」

 柔らかな猫の毛を撫でながら、海馬は静かに優しく囁いた。その言葉に猫はピクリと耳を揺らし、再び愛らしい声で「ミャア」と鳴いて返事をした。
 己の膝の上で丸くなりゴロゴロと喉を鳴らし続ける猫を優しく撫でながら、海馬は薄闇の濁った空を仰ぎ見る。
 いつかこの空に明るく輝く太陽を取り戻してやると…そう強く思っていた。