『Rising sun』の番外編で、海馬の一人称です。
あの波乱の夏から、丁度一年が過ぎました。
今は幸せな恋人同士の、城之内と海馬です。
それまで気持ち良く眠っていたのに、突然部屋にムッとした湿気が雪崩れ込んできて、その余りの不快感にオレは目を覚ましてしまった。目に入るのは漆黒の闇、耳に入るのはバタバタという大粒の雨音。そして肌に感じる生温い風…。身体に巻き付くタオルケットもそのままに、オレはゆっくりと布団の上で身を起こした。
重い瞼を何度か瞬きをし、部屋の中をキョロキョロと見渡す。すると東側の窓が大きく開かれており、そこに見知った影が窓枠に寄り掛かって外を眺めているのが目に入ってきた。声を掛けようとした瞬間、夜空が真っ青に光る。そして数秒後、鋭い轟音が辺りに響き渡った。雨は時間が経つ程に強くなり、段々と豪雨になっていく。
「城之内…?」
漸く暗闇に慣れた目でじっと城之内を見詰めながらそう声を掛けたら、奴はゆっくりと振り返り…そしてニコリと微笑みを浮かべた。
「何をしているのだ?」
「あぁ…ゴメン。起こしちゃったか」
「いや、それはいいのだが…」
「雷を見てた」
「雷?」
「あぁ。今年の夏の、一番最初の雷雨だ」
そう言って城之内は再び外へと視線を戻した。そして夜空に走った稲妻に感動して「おぉっ!」と声を上げる。その声が余りに楽しそうで、オレも雷雨が見たくなってきた。
タオルケットを身体に巻き付けて、そろそろと城之内の側へと近寄っていく。そして裸の背中にピッタリとくっついて、城之内の逞しい肩越しに外を眺めた。視線を空に上げると、ピカピカと稲妻が走る。そして窓ガラスが震える程の轟音。
「近付いてきたな」
「そうだな」
何とは無しにそんな会話をして、オレ達は真夜中だというのにじっと夜空を眺めていた。雨が吹き込むのも構わずに窓を大きく開け放って、雨と大量の湿気が吹き込んで来ても全く気にせずに、ただただ黙って雷雨を見続ける。
どちらも何も言わなかったが、きっと二人とも同じ事を思っているに違い無い。
まるであの日の再来だと………。
オレと城之内が恋人になってから一年が経とうとしていた。
恋人同士になってからのオレ達の関係は至極良好で、全く問題の無い付き合い方をしている。学生らしく健全なデートをする事もあれば、曰くお年頃らしく身体を重ねる時もある。大抵はオレの屋敷に城之内が来るというスタイルだったが、たまにこんな風にオレが城之内の家に泊まりに来る事もあった。ただしそれは、コイツの父親が帰って来ないという確証がある時にしか出来無い事だったが…。
アル中の父親が無事に退院出来たという話を城之内から聞いたのは、もうその年の秋が終わろうとしている頃だった。肝臓の数値も大分良くなり、入院中の事故(と言っても、この父親の所為なのだが…)で骨折した腕も無事に治ったという事で、漸く退院する事が出来たらしい。
退院出来た事については素直に嬉しいと思っているし、それについては城之内もホッと安心していたらしいのだが、奴はまた新たな心配事に頭を悩ませていた。
要は、父親のアルコール中毒の問題だ。
「せっかく肝臓良くなっても、また酒を飲むようじゃ事態は全く変わらない」
二人きりで昼休みを過ごしていた学校の屋上で、城之内はオレを抱き締めながら不安そうに心の内を吐露した。
「そしたらまた同じ事の繰り返しだ。入院して…退院して…酒飲んで…また身体を悪くして入院して」
「城之内…」
「今はまだ退院したばっかりだから、親父も酒をやめると宣言して我慢してるからいいけどさ…。でも…」
「そうだな。アルコール中毒者が酒を完全にやめるのは、地獄の苦しみを乗り越えないといけないらしいからな」
「うん…そうなんだ。だからオレはまだ安心出来無いんだ」
あの夏の日。自分の悩みを誰にも何も相談する事が出来無かった城之内は、ついに心が壊れて凶行に走った。オレの身体をいたぶり…そして犯す事で、揺らぎ続ける自らの心を安定させようとしていた。
最初はそれで快感を得ていた城之内も、やがて自分がしでかした事に対する罪悪感で押し潰されそうになり、その内自らの心の内で葛藤する事になる。そして自分が酷い事をし続けたオレから罰を受ける事を望むようになった。
だがオレは…その罰を授けなかった。何故ならばこれは、オレが甘んじて受け入れた状況だったからだ。自分で望んで城之内の牙を受け入れたというのに、それに対して罰を与えられる筈が無い。だから、その代わりにオレは城之内を許し…そしてその全てを受け入れたのだ。
そう。丁度こんな嵐の晩だった。
近くに雷が落ちて停電になり、真っ暗な部屋の中には雨と風と雷鳴…そして壁に掛けられている時計の秒針の音しかしない。そんな静かな闇夜の中で、オレは全身全霊を掛けて城之内の心を癒していった。
お互いに裸のままで抱き合い、城之内にオレの心臓の音を聴かせる。
怯えなくていい…怖がらなくていい…。お前は安心していいのだと、ずっと耳元で囁き続けた。
そして一晩掛けて漸く安心しオレの愛を信じた城之内は、翌日の朝日を見て救われたのだった。
それ以来城之内は、どんな些細な悩み事も決して自分の内に溜める事無く、オレに相談してくるようになった。それは間違い無く城之内のオレに対する信頼の証であったし、オレ自身もそれを心から嬉しく感じていた。だからオレはこの時も、城之内の背を優しく撫でながら耳元に囁いたのだ。
「そうだな、心配だな。なら…少し手伝ってあげたら良い」
「手伝う…?」
心配そうにオレを見上げる琥珀の瞳に、オレはコクリと頷いてみせる。
「この童実野町からそう遠く無い場所に、アルコール依存症に苦しんでいる人達の為の病院がある。何度か短期入院を繰り返しながら、少しずつ身体と…そして酒に頼らざるを得ない精神を治していくのだそうだ。その病院を紹介してやるから、今度父親を連れて行ってみるが良い」
「病院…か…」
オレの言葉に城之内が顔を曇らせた。
コイツの言いたい事はよく分かる。せっかく退院したばかりなのに、すぐにまた別の病院に入れる事や、その事で父親がまた暴れる可能性を心配しているのだろう。そして多分、お金の問題も。
だがここで立ち止まっては、それこそ城之内が自分で言っていたループに巻きこまれる事になる。
「入院と行っても短期入院の繰り返しだ。一~二週間入院しては退院し、家での様子を見守りながら治療を続けていくらしい。アルコール依存症専門の病院だから、中毒症状で暴れたり問題行動を起こす患者への対応も完璧だ」
「うん…。それは分かっているんだけど…」
「お金の面も心配するな。この間資料を見たがそんなに悩むような治療費では無いし、どうしても足りないというのだったら、オレが融資してやる事も出来る」
「そ…そんな…っ! それはダメだ!!」
「………? 何故だ?」
「だ、だって…。恋人から金を借りるなんて…。しかも自分の事じゃなく、親の事でなんて借りられないよ」
「あげる訳では無い。貸すだけだ」
「でも…」
「ちゃんと返してくれるのだろう?」
そう言って顔を覗き込んでやったら、城之内は暫く考えた後に渋々といった感じでコクリと一つ頷いた。
こうして数日後、オレの紹介を受けた城之内はそのまま父親を連れてその病院へ赴き、父親のアルコール中毒の治療を始めたのだった。あれから暫く経ったが、城之内がオレに金を貸してくれと言ってくる気配は無い。治療の方も思った以上に順調に進んでいるらしく、城之内も今は大分安心してきているようだった。暴れて殴ってきたり蹴ってきたり、汚い言葉を吐かれるような事も無くなったという。
その報告を城之内の口から聞く度に、オレも同じように安心して息を吐くのだった。
城之内は元々優しい男だったと思う。だが父親の問題で心を痛める事が無くなった今、その優しさは更に増したように思われた。
オレを見詰める強い眼差し、オレに向けて囁かれる言葉、オレに触れる指先…そして唇。それら全てが優しくて…本当に心地良いのだ。そしてその優しさは、肌を合わせる時にも発揮される。
オレの身体のあちこちを愛撫する指先と唇と舌が、優しい熱をじわりとオレの肌に刻み込んでいくのだ。耐えようとしても、声は勝手に漏れ出てしまう。自分の声とは思えないくらいの甘い声に恥ずかしくなって、口元に手を当てて何とか喘ぎを我慢しようとすると、城之内はすぐそれに気付いて手を退かしてしまう。そして至極優しい声で「お前の声が聞きたい。頼む…聞かせてくれ」と耳元で囁くのだ。
その城之内の声にオレは逆らえない。口元に当てていた手を城之内の首に回し、背中に爪を立てながら口を大きく開けて喘ぐしか無いのだ。やがて優しい熱がオレの体内にジワリと広がっていって、二人揃って脱力する。
その瞬間に感じる幸せは…例えようも無い物だった。
「あ、また光ったぜ」
城之内の驚いた様な声と共に、耳を劈くような轟音が鳴り響く。窓ガラスがビリビリと震え、心なしか部屋全体が揺れたような気がした。雷はいつのまにか、自分達のほぼ真上にまで来ていたのだ。
「近いな…」
「オレ達の頭上だよ。ほら、光った」
今度は城之内の放った「光った」という台詞と共に轟音が鳴り響いた。時差が無い。雷雲は本当にオレ達の真上にいるらしい。
雨も風も酷くなって、冷たい大粒の雨が容赦なく部屋の中に吹き込んでくる。仕方無く窓を閉め、オレ達は湿った布団の上に寝転がった。一枚のタオルケットを二人で被る。少し冷たい夜の空気も、城之内がいれば全然平気だ。常人より少し熱い体温を求めて擦り寄ると、首の下に腕を回されてそのまま肩を抱き寄せられた。途端に熱い体温に身体全体が包み込まれる。
「まるで…あの日みたいだな…」
しっかりと筋肉の付いた胸元に頭を載せて深く息を吐くと、城之内がオレの頭を撫でながらそんな事を言ってきた。その言葉にクスリと笑いつつ、オレも口を開く。
「やはりな…」
「ん? 何?」
「いや。やはり同じ事を考えていたのだなと…そう思っただけだ」
「そっか…。お前も同じ事を考えてたのか」
「あぁ…」
窓の外は未だに青い稲光が輝いている。その光が余りに美しかったので思わず「綺麗だな…」と声に出したら、すかさず城之内も「うん。綺麗だ」と賛同してくれた。胸元に頭を載せている為に、その声は直接耳に響いて聞こえる。鼓膜を震わせるその声に、オレは嬉しくなった。
低くて深くて…そして何より優しい城之内の声。その声に至極安心して、オレはウトウトと眠たくなってきた瞼を閉じる。頭上では既に規則正しい寝息。どうやら城之内も眠りの世界に落ちたらしい。
人によっては恐怖の対象である雷も、オレ達にとっては心から安心出来る子守歌のようだ。
青光りする稲妻と響く轟音の子守歌に見守られながら、オレ達はゆっくりと眠りに落ちていった。