違う世界から来た大人の海馬がオレの家に住むようになって二週間。オレ達は結構上手く一緒に生活をしていた。回復した治癒能力を使って身体の怪我を全て治した海馬は、次の日から度々出掛けるようになった。ちょっと悪いとは思ったけど、家に届いた海馬の荷物から着替えを拝借して(まぁ…思っていた以上に大量にあったから、ちょっと借りてもバレないとは思うけど)、早朝から夜中まで帰って来ないことも度々あった。
海馬自身からは何も言われて無いけど、オレにはよく分かっていた。多分逃げた『影』を捜し出そうとしているに決まっている。
『オレは必ず奴を探し出さなければならない。そして今度は確実に殺さなければならない…。それがオレの…使命だ』
『無理はしない。約束する。でもこれは…オレがやらなければならない事なのだ。それだけは分かってくれ…城之内』
別の世界からやってきて、それを追いかけてきた海馬に大怪我を負わせて逃げた『影』。海馬はその影を捜し出す事に躍起になっている。でもよく考えれば、その影が操っているのは海馬の仲間の身体の筈だ。話に寄れば、その取り憑かれた奴も結構な能力の持ち主らしい。最初に海馬を見付けた時の惨状を考えれば、再びあのような大怪我をする事になるのは簡単に想像出来た。
そしてもう一つ。その影の性質もオレの心配の種だった。
その影は、自分が取り憑いた宿主を殺した奴に取り憑き直すのだと言う。後日詳しくその話を聞き直した時、海馬はこんな事を言っていた。
「多分…その影の性質の一つなのだろうな…。トラブルを起こし、殺人を楽しみ、そしてその行ないに怒り狂った人の意識を自分に向けさせる。相手をも狂気に導き、そして自らの宿主に手を掛けさせるのだ」
「そんな事して…何の意味があるんだよ」
「多分意味なんぞ一つも無い。影という物はそういう物なのだ。奴らは自分の性質にただ素直に従っているだけ。あの影は『人の命を弄ぶ』という本能を、ただ楽しんでいるだけなのだ。だから質が悪いと…放って置けないと言っているのだ」
海馬は真剣な目をしてそう言い放ち、その日も逃げた影を見付ける為に出掛けて行った。
懸命の捜索にも関わらず、その影は一向に見付かる気配は無い。酷くがっかりした顔で戻って来る海馬を見る度に、だけどオレはほんの少しだけホッとしていた。影が見付からないのは海馬に取っては一大事なんだろうけど、オレはもうあんな風に大怪我した海馬を見たくは無かったんだ。治癒能力である程度早く治るとは分かっていても、やっぱりあの惨状は慣れるものじゃ無い。出来る事なら…もう無理はして欲しく無かった。
そんな事をつらつら考えつつ、オレはその日の夜遅く家に帰って来た。世間は夏休みに入っていて、オレもコレ幸いとバイトに精を出して稼いでいた。相変わらず影を捜し回っている海馬にはスペアキーを渡してあるし、オレがいない時にいつ帰って来ても問題無いようにしてある。だから帰って来た自分家の窓が真っ暗なのを見て、オレは小さく溜息した。
家の灯りが付いていない。それはつまり、海馬がまだ帰って来ていないという事を示している。
「アイツ…。今日はどこまで探しに行っているんだよ…」
影が見付かっていない為、海馬も怪我を負うような事は無い。だけど四六時中神経磨り減らして影を探し回っている所為か、帰って来た時は酷く疲れてグッタリしている事が常だった。
それにここは童実野町。海馬の顔を知らない奴なんている筈が無い。なるべく目立たないように、それでいて影の存在をしっかりと探らなくちゃいけないんだ。そりゃ海馬じゃなくなって疲れるってもんだろう。
現にここの所、海馬は帰ってくるなり黙って風呂に入り食事をして、その後はパッタリと倒れ込むように寝込む事が多くなった。心配して小言を言うと、ちょっとムッとした顔をして「オレの任務の邪魔をするな。いくらお前でもそれは許さない」と口答えをし、それ以降は何言っても無視し続ける。こういう無駄に頑固な所は、本当にオレの海馬と同じだなぁ…と思わずにはいられなかった。
「それでもなぁ…。やっぱり心配なんだよ…」
この気持ちは、やっぱりあの海馬がオレの海馬とよく似ているから湧いてくるんだろうか。それとも、あの海馬自身を想っているからこそ出て来るのかはオレには分からない。だけど…それでもどうしても心配だって言う気持ちは消えなかった。
なるべくなら無理して欲しく無いなぁ…と思いながら、団地の階段を一段ずつ上がる。そして…ドアの前に寄り掛かっている長身の影を見付けて驚いた。
「………っ? 海馬…?」
オレの呼びかけに、そいつは寄り掛かっていた身体を起こしてオレの方を見た。階段の灯りに照らされているその姿は、まさしく海馬だ。
何だ、お前鍵どうした。どこかで落としたのか…と聞こうとして、オレは慌てて口を噤んだ。今オレの目の前に立っている海馬は、あの別世界から来た大人の海馬じゃない。十七歳の…オレと同い年の…つまり今はアメリカにいる筈の『オレの恋人』の海馬だった。白いカッターシャツに、濃いグレーのスラックス。海馬が以前送って来た着替えと同じような私服だったから、最近その服を着ているあの大人の海馬と見間違えた。
………ほんの一瞬だけだったけど。
「海馬…? お前…何で…? 今アメリカにいるんじゃ…?」
オレの呟きに、海馬はフッと笑ってみせる。
久しぶりに見た、オレに『心を許していない』海馬の笑み…。
そんなオレの複雑な気持ちに気付かないまま、海馬は余裕の笑みを浮かべつつオレに一歩近付いた。
「この間電話しただろう。一度日本に帰ると」
あぁ、そうだ。確か二週間前のあの日、そんな電話を貰っていたっけ。その時は確かにそれを嬉しいと思っていたし、今も久しぶりに会えた海馬に素直に喜んではいる。でも、オレに何の連絡も寄越さず自分の都合だけで物事を勝手に進める辺りは全く変わっていないんだなぁ…と、ちょっと残念に思ったりもした。
「何だよ。帰って来るなら連絡してくれよ」
「オレもそのつもりだったのだが、忙しくてなかなか出来無かった」
「楽しみに待ってたんだぜ。電話の一本くらい出来るだろ?」
「お前が簡単に考える程、オレが今抱えている仕事は軽くは無い。電話一本だと? その一本の為に、どれだけの集中力が削がれると思っているのだ」
誰もいない夜遅くの団地の階段で、再会を喜ぶ声は途端に口喧嘩に発展する。
馬鹿だな…。本当に馬鹿だな…オレ達。どうして「ただいま」とか「おかえり」とか「久しぶりだな」とか、そういう温かい言葉でお互いの心を癒す事が出来無いんだろう。こんなに海馬の事を愛しているのに、二週間ぶりに出会えてこんなに嬉しいと思っているのに、会えばすぐ喧嘩になってしまう。
薄暗い団地の階段で、オレは真っ直ぐに海馬の顔を見詰めてみた。青い瞳がギラギラ光って、強くオレの事を睨み付けている。恋人の筈なのに…そこに愛は感じられなかった。あの大人の海馬から感じるような温かさとか安心感とか癒しとか…そういう物は一切感じられず、あるのは絶対に自分を曲げないという強い意思表示だけ。
「………はぁー…。取り敢えず…中入れよ」
深い溜息と共にオレはポケットから鍵を出して、玄関の鍵穴に突っ込んだ。こんな所で大声で喧嘩してても仕方無いし、何か冷たい物でも飲めばお互いに落ち着くだろうと思ったんだ。
鍵を回してドアを開き、オレは一歩家の中に入る。そのすぐ後から海馬もついてくるのを感じて、オレは背後に意識を向けつつ靴を脱いだ。家の中は真っ暗で人の気配はしない。もう一人の海馬は、やっぱりまだ帰ってはいないらしい。
廊下の電気を付けつつ振り返ると、海馬は何故か神妙な顔付きで玄関に突っ立ったままだった。その姿を見てオレは二週間前の出来事を思い出す。確かあの海馬も、こんな風に黙って玄関に突っ立っていたっけ。
「どうした。早く入って来いよ」
いつまでも黙って立ちっぱなしなので、オレは台所の電気のスイッチを押しながらそう話しかけてみた。だけどオレの言葉に海馬は眉を顰めるだけで、一向に入って来ようとしない。
何なんだよ…ったく…! 海馬の気持ちが何一つ伝わって来なくて、オレは少し苛々して来たのを感じていた。
「汚い家だとか思っているのか? 悪いけど、結構綺麗にしてるんだぜ」
「………違う」
「じゃー何? オレと一緒にいるのがそんなに嫌?」
「そうでは無い」
「それじゃ何だってんだよ。お前、オレん家に泊まりに来たんじゃねーの?」
「………そのつもりだった」
「じゃあ…」
「誰と間違えた?」
じゃあ一体お前は何をしたいんだ。そう言おうと思ったオレの耳に、妙にキッパリとした海馬の言葉が飛び込んできた。
え…? 誰とって…。コイツは今、一体何を言ったんだ…?
「貴様…。今誰か他の奴とオレを間違えただろう」
「………っ。え…? お前…何言って…」
「さっきのドアの前でもそうだ。貴様は一体誰とオレを間違えたのだ」
「っ………!?」
海馬の言葉に身体が固まる。
いや、誰とも間違える訳が無いじゃないか。オレは海馬は海馬としか見ていない。そう…オレはちゃんと海馬の事を…っ!!
そう思った瞬間、脳裏に大人の海馬の姿が浮かんだ。優しい笑みを浮かべて、オレと話をしてくれる海馬。オレを頼ってくれて、素直に好意を受け止めてくれる海馬。強い信念を持ち、オレを信じてくれる海馬…。
「ほら、まただ!!」
突如響いた強い叫び声に、脳裏の海馬がパッと霧散していく。
「今一体誰を思い描いた? オレがアメリカに行っている間に…いつ新しい恋人を作ったのだ!?」
「こ、恋人って…!! そんなんじゃねぇよ!!」
「ほう…。少なくても心当たりがある人物がいるようだな…」
「っ………!!」
「見損なったぞ城之内。たった二週間で早々に浮気とはな…。所詮は駄犬か。残念だ」
「………。な…何が…っ。何が残念なんだよ…!!」
狭い玄関で腕を組み、フフンとさも呆れたような顔付きをしている海馬を見ている内に、オレの方も腹が立ってきた。
恋人になって二ヶ月弱。オレは懸命に海馬を愛して来た。だけどその愛を足蹴にして、常に興味無さそうにしていたのは…海馬の方じゃ無いか…!!
「残念なのはお前の方じゃねーか!! オレの想いを全て無視しやがって…!! オレがどんだけ傷付いていたと思っているんだ!!」
「ほう…。たかが駄犬が良く吠えるでは無いか。貴様にそんな繊細な神経があったとは、驚きだぞ」
「巫山戯るなよ!! お前はいつもいつもオレを無視して…何でも勝手に決めて…好き勝手放題にしやがっている癖に…!! こんな時ばっかりブチキレやがって! オレが他の奴と過ごしていたら、何か悪いってのか!?」
「認めたな…! やはり浮気しているのでは無いか!!」
「馬鹿言うな!! 浮気じゃねーよ!!」
「だから貴様は駄犬だと言うのだ! 誰か他の奴と一緒に過ごしている時点で、世間一般ではそれを浮気と言うのだ…!!」
「アイツはそんなんじゃない!! 浮気じゃねーって言ってるだろ!?」
そこまで来ると、オレ達はお互いにほぼ掴み合う勢いで言い争っていた。とにかくもう腹が立って腹が立って仕方が無くて…。オレは怒りの余り、目の前がカッと真っ赤になっていくのを感じる。
どうしてこんな下らない事で言い争わなければいけないんだ。オレ達は恋人同士の筈なのに。恋人って関係はもっと甘くて温かくて気持ちが良くて…ふわっとした幸せを感じるものだろう? そう…あの海馬が浮かべる笑顔のような…。
バシッ!!
もう一度脳裏に大人の海馬の笑顔を思い浮かべた時だった。左頬に熱い衝撃が走ったのに気付いて、オレは意識を現実に戻した。ゆっくりと視線を目の前に戻すと、赤くなった掌を胸の前でグッと握り締めている海馬と視線が合う。どうやらオレは海馬に平手打ちをされたらしい。ジンジンと痛む頬を掌で覆いつつ、オレはマジマジと海馬の顔を見詰めてみた。
いつもは透き通るような白さの肌は今は仄かに紅く上気していて、それだけ海馬が本気で怒っている事が分かる。そしてオレを強く睨み付ける青の瞳は、じんわりと涙ぐんで濡れていた。
泣いて…いる? あの海馬が?
「かい…ば…?」
「………の…顔…だと…!」
「………?」
「その顔だと…!! その誰かを思い浮かべるその顔が気に入らないと…言っている…!!」
最後の叫びで、青い瞳に溜っていた涙がポロリと零れ落ちる。その涙を見た瞬間…オレは自分の理性の糸が、プッツリと音を立てて切れるのを…感じていた。
「………っ!?」
怒りに震える細い腕を強く掴み、玄関先の廊下に引き摺り入れた。体勢を崩した海馬が驚いたような顔をするのを確認して、そのまま床の上に押し倒す。
「じ…城之内…っ!?」
焦ったような海馬の声。途端に抵抗し出す白い腕を掴んで、頭の上に固定する。それを片手で纏めて押さえ付けて、自由になった方の手でカッターシャツの襟元に指をかけた。
「や…やめ…っ!」
オレが何をしようとしているのか悟った海馬が、首を振って弱々しく抵抗を始める。だけどそんな願い、訊いてなんていられない。だってもう無理だ。オレの身体は怒りと焦りと欲望で、既に暴走状態だった。
真っ赤に熱した本能に従って、掴んだシャツの合わせを思いっきり引っ張る。途端にブチブチと千切れた小さなボタンはあらぬ方向に飛んで行って、あちこちの方角からパラパラという軽い音を起てたのを…オレはどこか遠くで聞いていた。