腰にバスタオルを一枚巻いただけの姿で、海馬は大人しく台所の椅子に座っていた。そんな海馬の姿にちょっとドキドキしながら、オレは戸棚に置いてあった救急箱を手に取る。テーブルの上で蓋を開けて、消毒液やいくつかの傷薬、それにガーゼや包帯などを取り出した。こういうのは全く自慢にならないと思うけど、小さい頃から親父の暴力を受けていたオレは、怪我の治療が得意なんだ。
「とりあえず一番酷いのからやっちまうか…。左腕出して」
そう言うと海馬は素直に火傷を負った左腕を差し出して来る。最初に見た時よりは幾分状態が良いように感じるけど、それでもやっぱり真っ赤になった腕は酷く痛そうに見えた。オレはその腕を手に取ると、なるべく海馬が痛がらないように丁寧に消毒を行ない、次いで火傷用の軟膏を塗り付けていく。薬を塗り付ける度にピクリと腕が動くので、視線を上げてそっと海馬の顔を見てみた。眉を顰めて歪む表情は、やっぱり痛みを感じている事をオレに伝えていた。
「何だ。やっぱりまだ痛むんじゃないか」
「当たり前だろう…」
薬を塗るオレの指の動きをじっと見詰めながら、海馬はそろそろと息を吐き出しながら小さくぼやく。
「それでも先程よりはずっとマシだがな…」
「さっきはすげー酷かったもんな。しかしこれ…よく我慢してたな。シャワー浴びる時も浸みただろ」
「まぁ…慣れているからな。これくらい平気だ」
軟膏を塗り終わった腕にガーゼを当て、丁寧に包帯を巻き付けながら問い掛けたら、海馬はホッと安心したように嘆息しながらそんな事を言った。
人の悪意が具現化した『影』という存在。海馬は日夜そんな得体の知れない物と闘い、その度に傷付いているのだろう。今回ほど酷い傷を負う事は無いにしても、無傷で仕事を終えられる事なんて無いんだと思う。
大変な仕事だよなぁ…なんて他人事みたいに考えて、そこでオレはちょっとした疑問を抱いた。
今、海馬の身体は傷だらけだ。でもそれは、今回の仕事で負った新しい傷ばかりだ。そういう危険な仕事をずっとしているなら、もっと古い傷痕が一杯あってもおかしくないのに…と不思議に思う。
現にオレの身体には、親父に暴力を振われた時の傷痕がいくつか残っている。殆どは綺麗に消えてしまったけど、たまに酷い怪我をした時の痕は、治りきらずに残ってしまっているのだ。
いくら超能力を使うとは言っても、コイツだって普通の人間の筈だ。全く傷が残らないなんて考えられないんだけどな…。
「あのさ…。普段はどうやって、こういう酷い傷を治してたんだ?」
左腕に包帯を巻き終わり、今は上腕部にある擦り傷に薬を塗りながらそう尋ねたら、海馬は「あぁ」と納得したように頷いた。
「そうか…。お前はヒーラーの存在も知らないから…」
「………? ヒーラー? さっきもそんな事言ってたけど、もしかしてそれも超能力の一種?」
「その通りだ。主にヒーラーと呼ばれている能力者達は、自分の持っている第一能力にヒーリング能力…つまり自分や他者の怪我や病気を治せる能力を持っているのだ」
海馬はそう言って右手を持ち上げ、さっき公園で見せてくれたように優しい青白い光を放ち始める。その手を包帯を巻かれた自分の左腕に翳すけど、見る見る内にその光は小さくなり、やがて蝋燭の火が消えるようにふっ…と掻き消えてしまった。
その様子を見届けると海馬は小さな声で「やはりな…」と呟いて、諦めた様に笑って口を開く。
「先程も言ったが、オレのヒーリング能力は後から人工的に付け足された物だ。その能力には限界があって、余り深い傷だと最後まで治しきる前に力が尽きてしまう。現に今日はもう使えないらしい」
「………そっか…」
「だがな。その者が元から持っている力は、そんなに早く枯渇したりしないのだ。ほら、こんな風に…」
そう言いながら海馬がもう一度右手を振ると、空中に青白くて強い光が散らばった。今のオレならもう分かる。コレはこの海馬の第一能力である、光の超能力だ。
明るい電気の下でも負けじとキラキラ煌めくその光に見惚れていたら、海馬が少し得意そうな顔をしながら笑っているのが目に入ってきた。
「慣れない内は使い過ぎれば頭が痛くなったりもするが、訓練すればほぼ無制限に使えるようになる。オレもこの光の能力と第二能力である雷に関しては、一日中使っていても多分何も感じる事は無い」
「へぇー。凄いんだなぁ…」
「こんな風に、第一能力でヒーリングを行なえる能力者がいるのだ。彼等はとても強いヒーリング能力を持っていて、どんなに酷い怪我を負ってもたちまち直してしまう。勿論その者が元から持っている能力だから、ほぼ無制限という折り紙付きだ」
「そういう人達が、怪我した仲間を治してくれる…って訳か?」
「あぁ、そうだ」
海馬がオレの問い掛けに、強く頷いて答えた。
そうか…。だから古い傷痕とかが一つも無いんだ…。
そんな話を聞くと、何の能力を持っていない、ただの普通の人間である自分が情けなくなってくるような気がする。勿論それはオレの所為では無いし、生きてる世界が違うから仕方無い事だとは思うんだけど、海馬のこの白くて綺麗な肌に無駄な傷痕を残す事が物凄く嫌だと感じたんだ。
「ゴメンな…。オレ、何にもしてやれなくて」
肩から鎖骨に掛けて傷付いている部分に薬を塗りながらそう言ったら、海馬は一瞬驚いた様な顔をして…そして右腕を持ち上げてポンポンと頭を撫でてきた。
「何を言う。こんなに助けて貰っているのに」
「でも…」
「元々の世界が違うのだ。それに本当に助かっているのだ。傷の手当ても、オレをここに泊めてくれる事も、全てありがたいと思っている」
「海馬…」
「それに元の世界に帰れば、こんな傷痕などヒーラーがあっという間に治してくれるわ。だから心配するな城之内」
「傷…治せるのか? それ本当か?」
「あぁ」
「よ…良かった…」
海馬の言葉に、オレは心底安心した。ホッと胸を撫で下ろしたら、海馬が顔を近付けて「本当にありがとう…城之内」と囁いてくる。ニッコリと綺麗な笑顔でそんな事を言われて、オレは一瞬で心臓が跳ね上がってしまった。顔が一気にカーッと熱くなるのを感じながらオレは何とか「う、うん…」とだけ答え、ドギマギしながら消毒液を手に取り、新しい傷の手当てに集中する事にした。
全ての傷の手当てが終わった後、オレは自室に駆け込んで必死に箪笥の中身を漁っていた。何せ違う世界から来たとは言え、相手はあの海馬だ。古くて汚らしい服なんて絶対に着せられない。オレが持っている数少ない服の中から選んだのは、買って来たばかりでまだ一度も身に着けてないボクサーパンツと、比較的新しくて綺麗なTシャツとハーフパンツだった。改めて自分の服のバリエーションの少なさにガックリしつつも、それを持って海馬の元に戻る。
「これ…。こんな物しか無くて悪いけど…」
素っ裸でいるよりマシだろうとその服を海馬に手渡すと、海馬は一瞬キョトンとした顔をして…次の瞬間にクスリと笑みを零した。
「あ…。やっぱ嫌だった?」
「いや、そんな事は無い。ありがとう城之内」
「で…でもなんか今…嫌がって無かった?」
「嫌がった訳では無い。服のチョイスが城之内と…、あぁ『オレの』城之内の事だが。アイツと全く同じだったからおかしくなってな」
服を手にしてクスクス笑い続ける海馬に、オレは「あぁ…そういう事ね」と少し微妙な気分になった。そういや『あちら』の二人も仲良く恋人同士なんだっけなぁ…とそんな風に考えて、オレはまたあの「羨ましいな」という気持ちが湧き上がって来るのに気付く。
世界が少し違うだけで、オレ達は同じ『城之内克也』と『海馬瀬人』である筈だ。それなのにどうしてこんなに違うんだろうな…と悲しくなる。片やラブラブ、片や冷え冷えだ。
着替えをする為に、服を片手に海馬が洗面所に移動するのを見届けて、オレは深く溜息を吐きながら遅くなった夕食作りに取り掛かった。
夕食は結局、キャベツや人参やもやしをたっぷり入れたインスタントラーメンになった。もっとまともな食事を作ってあげたかったんだけど、時間も大分遅くなっていたし、何よりオレの腹がもう限界だった。一応海馬に聞いてみたら「それで構わない」という返事も貰ったので、有り難くインスタントラーメンにする事にする。
そんな具沢山のラーメンを二人で啜りながら、オレはチラチラと海馬の姿を見ていた。心配していたオレの服は、思っていたよりも海馬に似合っている。それはこの海馬がこういう格好に慣れているからなのかなぁ…なんて思いながら、オレはちょっと微妙な気持ちになったりした。
粗方ラーメンも食べ終わって、グラスに入れた氷水をグイッと飲み干し、オレはまだゆっくりとラーメンを食べている海馬に話しかけてみる。
「あのさぁ…。ちょっといい?」
オレの言葉に海馬はチルルッと麺を吸い込みながら、コクリと無言で頷いた。
「さっき公園で話していた事…。お前、逃げた『影』を追って確実に殺すって…それが自分の使命だと言ってたけど…。それ本気か?」
「あぁ、そのつもりだが? 当たり前では無いか」
「それって…その『影』に取り憑かれた仲間を殺すって事か?」
「そうだな。そういう事になるな」
オレより大分遅れてラーメンを食べきった海馬も、コクリと冷たい水を飲みながら「何を当然の事を…」と言いたそうな表情でそう答える。その顔に浮かぶ意志の強さは本物だけど、オレはさっき聞いた話が少し…いや大分引っ掛かっていた。
「でもさ…」
聞きたくは無い。聞くと何か怖いような気がしたから。でもちゃんと聞かなくちゃダメなような気がして、思い切って聞いてみる事にした。
「お前言ってたじゃん…。その『影』は宿主を殺した相手に取り憑くって。それってさ…その仲間を殺しちまったら、今度はお前が取り憑かれるって事なんじゃねーの?」
「………」
「それじゃ…元の木阿弥っていうか…何の意味も無いんじゃねーのか?」
オレの言葉に、海馬は暫く考え込んでいるようだった。でも次の瞬間、グラスの中に入っていた水を一気に飲み干して、海馬は何かを決意したような顔をして言い放った。
「それでも…オレはやらなければならん」
「でも…そんな…」
「対策は考えている。上手く行けば何とかなる。少なくてもこちらの世界に被害を出すような事だけはしないから、安心しろ」
「そ…そんな事言ってるんじゃねーよ!!」
一気に感情が高ぶって、オレは椅子を蹴って立上がると両手で思いっきりテーブルを叩いた。バンッという大きな音がして、空のグラスが一瞬浮き上がってカタンと倒れる。本気でビックリしたように目を瞠っている海馬を見ながら、オレは怒っているのか悲しいのか情けないのか、良く分からない複雑な感情のまま震える声を出した。
「オレが心配なのは…お前の事なんだよ、海馬。そんな酷い怪我をしてまで、やらなくちゃいけない事なのか? だって本当は何人もの仲間と一緒にやらなくちゃいけない仕事だったんだろ? それが今はたった一人で…。しかも仲間を殺さなくちゃいけないなんて…」
「………」
「しかもその仲間…結構強い能力持ってそうじゃんか。だからお前もその能力で、そんな怪我を負ったんだろ?」
「………あぁ…そうだな」
「一人じゃ無理だ…。誰か…他の仲間が来るまで待ってるのも手だと思うぞ」
「そんなにグズグズしてはいられない!」
「でもお前…っ」
「あの『影』は、殺人狂だ!!」
「えっ…!?」
テーブルを挟んで睨み合っていたオレ達は、海馬の一言で一気に静まり返った。シンとした空気が、団地の小さな台所を支配する。
「あの『影』は…宿主を殺人狂にする。取り憑かれた者は殺人を犯す事で、快楽を感じるようになるのだ」
「なっ…」
「狡賢くて…とても巧妙な罠を張る汚い『影』だ。『影』は宿主を操り、次々と殺人を犯していく。その所為でオレ達の世界では何人もの犠牲者が出た。その上逃げるのも上手く、なかなか捕まえられなかったのだ」
「っ………」
「それをやっと退治できると思ったら…この有様だ。しかも取り憑かれた能力者はかなりの手練れ。そんな奴が超能力の存在しない『この世界』で暴れ回ってみろ。恐ろしい事になるぞ」
「あっ…!」
そうだ…そうだった。海馬の話にのめり込んでたから忘れ掛けてたけど、オレの住む世界はそんな超能力なんて何一つ無い世界だった。つまりそんな奴が暴れ回っても、こっちの世界ではそれを止められる人間なんて存在しないって事なんだ。
「そうか…。結局は…お前に頼るしか無いって事なのか…」
ガックリ項垂れて力無くそう呟いたら、テーブルの向こうから白い右手が伸びてきた。細くて少し冷たくて…消毒薬臭い掌で頬を包まれて、それに促されるように視線を上げる。目に入ってきた海馬の顔は、少し困ったように…だけど強い意志を宿して微笑んでいた。
「心配するな、城之内。対策は考えていると…言っただろう?」
「でも…そんな大怪我して…」
「大丈夫だ。明日になったらまたヒーリング能力が使えるようになるし、この家を拠点にして少しずつ探索していくから…」
「………」
「無理はしない。約束する。でもこれは…オレがやらなければならない事なのだ。それだけは分かってくれ…城之内」
強く響く海馬の言葉に、オレは黙って頷く事しか出来無かった。