結局その後、オレと大人の海馬は日が沈んでも公園で色んな話をし続けていた。オレが不安に思っている事や自信の無い事を相談しても、海馬は笑ったり馬鹿にしたりはしなかった。一つ一つ確実に答えてくれて、その度に慰めたり元気付けたりするようにオレの背を優しく撫でてくれた。そしてオレをギュッと抱き締め、頬に軽いキスをくれる。「唇にはしてくれないの?」と巫山戯て訊いてみたら、「それはお前の『オレ』にして貰え」と微笑みと共に軽く返されてしまった。
この優しい笑みが、大人の海馬の本当の姿なんだと思う。
数日前、影に乗っ取られたもう一人のオレを救い出せるかどうか分からない時に、コイツが浮かべた寂しそうな笑顔を思い出した。
『やはりオレ達は…オレと城之内は、共に幸せにはなれないのかもしれないな…』
そう言って浮かべた笑顔は、諦めの笑顔だった。だけど今の海馬が浮かべている笑みは違う。心から幸せを感じ、安心して、恋人を信じている…そんな笑顔だ。
大人のオレ達の事に関しては、きっともう何も心配要らないんだろう。問題は…こっちのオレ達の方だ。
それから二日後、別れの日は唐突にやってきた。
その日は朝から良い天気で、オレ達は四人でノンビリと気楽に過ごしていた。オレは海馬んところの屋敷に泊っていて、団地の部屋は大人のオレ達に貸し出していた。昼近くなって合流して、四人でブランチを楽しむ。この日は二人のオレで共同しながら、特製ペペロンチーノを作って食べた。サラダとスープも作って、至極満足な出来だった。
ご飯の後はゲームをしたり雑談をしたりしながらゆっくりと過ごす。余りに心地良い時間だったので、オレはこのままずっとこんな日が続けばいいなぁ…なんて思っていた。だけどその夢は、実に儚い夢だった…。
「ゲートの準備が出来たよ。今日の夜には帰れるってさ」
夕方になって大人の漠良が団地に尋ねて来て、にこにこしながら報告してきた。その報せに四人で一斉に顔を見合わせ、それぞれが複雑な表情を浮かべる。
元の世界に戻れるという事は、アイツ等にとっては願ってもいない事だろう。ましてや死を覚悟してこの世界にやって来ていたのに、自分も相手も、そしてこの世界のオレ達も全員無事という嬉しい報告付きだ。喜ばない訳が無い。
でも大人のオレ達は、何だかちょっと寂しそうだった。
「残念だったなぁー。せっかく仲良くなったのに。………なぁ?」
大人のオレがそう言いながら、すぐ隣に座っていた海馬の頭を優しく撫でた。その行動に、思わず「あっ!」と声をあげる。
だって大人のオレが頭を撫でている相手は、自分の恋人の海馬じゃなくて、オレの恋人の海馬だったからだ。そんな事されれば絶対嫌がると思ってたのに、オレの海馬は少し俯き加減になって頬を朱く染めている。罵詈雑言は一切飛び出して来ず、満更でも無い表情で大人しく頭を撫でられていた。
その態度に余計にムカムカとした気持ちが湧いてきて、急いで側に近寄って恋人の海馬の身体を奪い取るように抱き締める。
「な、何しやがるんだよ!」
取り返した海馬をギュウギュウと抱き締めながらそう叫んだら、大人のオレは一瞬キョトンとした顔をして、そして次の瞬間に吹き出した。そして腹を抱えてゲラゲラと笑い出す。オレがどんなにキツク睨み付けても、大人のオレは笑うのを止めなかった。
「趣味が悪いぞ…城之内」
流石に居たたまれなくなったのか、大人の海馬が溜息混じりでそう苦言を呈した。その言葉で漸く笑いを治めて、大人のオレは滲んだ涙を指先で拭いながら「ゴメンゴメン」と謝ってくる。
「悪気は無いんだ。ただちょっと…若いなぁーと思ってさ」
「若い…?」
「そう、若い」
完全に笑いを治めて、それでも優しそうな笑みを浮かべたまま大人のオレは口を開く。
「オレにも覚えがあるけど、やる事なす事が全部若いんだよ。自分の気持ちに振り回されているようじゃ、恋人関係なんて上手くいきっこ無いよな。なぁ、海馬?」
穏やかな声でそう語りかけて、大人のオレは少し首を傾げてオレの腕の中に収まっている海馬を見詰める。その視線に誘われるように腕の中に目を向けて…オレはそこにいた海馬の表情に酷く驚いた。
海馬の顔は真っ赤になっていた。真っ赤になってプルプルと震えて、それでも黙ってオレの腕の中に収まっていた。照れと怒りと動揺と我慢が全て入り交じったかのような複雑な顔をしている。オレはそんな海馬を驚いた気持ちで見詰める事しか出来無かった。
「そいつは今な、自分の気持ちを我慢してるんだ」
「え………? 我慢?」
「そ。恥ずかしくて恥ずかしくて今にも逃げ出したい気持ちを、ぐっと我慢してそこにいる。相手の気持ちに素直になるのも、恋愛には大事だって事を学んだからな」
大人のオレの言葉に、腕の中の海馬は何も言わない。ただ顔を真っ赤に染めながら、オレの胸に擦り寄ってきた。胸元に押し付けるようにして顔を隠してしまったが、オレのシャツを掴む細い指が相変わらず小さく震えているのが分かる。
オレと大人の海馬が公園で人生相談をしていた時、この団地の一室では大人のオレと恋人の海馬が同じような話をしていたのだろう。そしてさっき大人のオレが言った事を、コイツは直接学んだに違い無い。
「好きなんだったら、ただ受け入れればいい。相手の気持ちも、そして自分の気持ちも…な。素直になるのはいい事だよ」
「素直…」
「だからお前も、もっと素直にソイツの事を信じてやりな。大体さーよく考えてみろよ。元々仲悪かった上に、男同士だぞ? お前を好きじゃなきゃ、恋人関係になんてならねーだろ?」
「そうか…。あぁ…そうだったのか」
その言葉を聞いて、オレは自分の胸がホワリと温かくなるのを感じた。
ギスギスした恋人関係を不安に思っていたのは、オレだけじゃ無かったんだなぁ…。海馬もオレの見えないところで、一杯悩んだんだろう。そしてその気持ちを、大人のオレに打ち明けたんだろう。オレの為に…オレと上手くやっていく為に、思い切って素直に話したに違い無い。
自分の気持ちを素直に打ち明ける事…。それがコイツに取ってどんなに難しい事か、オレはよく知っていた。何でもかんでも素直に言葉に出すオレと違って、海馬は色んな事を内面に溜め込みやすい。それを素直に吐き出すには、どれだけの勇気が必要だったんだろうな。
「ありがと…海馬」
そんな気持ちを想像して、オレは心から嬉しくなって感謝した。抱き締めた身体を優しく擦って、栗色の頭を何度も撫でた。
海馬は相変わらず何も言わない。だけどオレの言葉に、一つだけコクリと頷いてくれた。
夜も更けて、オレ達はあの公園に集合していた。漠良が言っていた帰る為のゲートって奴が、この公園に作られたらしい。
見た目には特に何も変わった事が無いように見える公園だけど、丁度公園の中央にある時計台の辺りの空間が微妙に歪んでいるのが目に見えた。漠良曰く、それが違う世界を繋ぐゲートらしい。
「オレが夢で見たのは、もっと真っ黒い穴だったぞ」
そう問い掛ければ、大人のオレが「ゲートが開けば黒い穴になる」と教えてくれた。つまりアレは、まだ閉じている状態らしい。
「オレはまぁ…帰ろうと思えば一人で帰れるけどさ。でもオレの能力は基本お一人様用だし、こっちに来た時のように誰かが無理に割って入ったりすると、それだけでかなりの体力と能力を消耗するんだ。誰…とは敢えて言わないけどさ」
大人のオレの言葉にもう一人の海馬がジロリと睨んで来るけど、『オレ』は全く構わずに口を開く。
「だから普段はそれ専門の能力者が、何人か協力してゲートを作る。その方が安全だし、遙かに効率が良い。まぁこんな…別世界にまで繋がる大掛かりなゲートなんて、普段は全く作らないけどな。機関総出の大仕事だ」
それだけ今回は異様な事態だったんだなっていう事を、言葉裏に隠して大人のオレは教えてくれた。
確かに大変な事態だったんだろう。さっきちょっと大人の海馬が教えてくれたけど、機関と呼ばれている組織の人間が殆ど動いているらしい。まぁ…そうだろうな。何せ期待のエースが影に乗っ取られて、その弟子が自らの命もろとも処分しなくちゃいけないって事態になりかかってたんだからな。
じっとゲートを見詰めている大人の海馬の横顔を、オレは静かに眺めていた。その顔には、特に何の表情も浮かんでいない。クールそのものだ。
だけどオレは知っているんだ。アイツもオレと同じように、寂しがっている事を。
「ゲートが開いたよ」
やがて漠良の明るい声と共に、目の前に大きな黒い穴が開く。覗き込んでみても、その中には一片の光すら見えない。まるでブラックホールのようだ。でも超能力者であるコイツ等には、自分の帰る道がちゃんと見えているらしい。流石だと思う。付け焼き刃の能力者じゃそんな道筋なんて、これっぽっちも見えなかった。
ポッカリ開いたゲートの入り口に立ち、大人のオレ達は暫く黙ってその中を見ていた。やがて大人のオレが振り返って、にこりと笑う。
「海馬」
微笑みを浮かべたまま、手のヒラヒラと動かしてオレの恋人の海馬を呼んだ。その呼び声に、それまで黙って事を見詰めていた海馬が素直に近付いて行く。そして大人のオレは近付いて来た海馬に腕を伸ばして、キュッ…とその細い身体を抱き締めた。
本当だったらムカムカする筈の光景だ。でも何故か…そんな感情はこれっぽっちも感じられなかった。
大人のオレは海馬の耳元で、何かをボソボソと呟いている。海馬はその度にコクン…コクン…と頷いていた。目元がどんどん真っ赤になっていく。多分泣くのを堪えているんだ。
そんな海馬を心配しながらも何となく呆然と二人を眺めていたら、いつの間にか近くに寄って来ていた大人の海馬の存在に気が付いた。オレの事を穏やかな笑みで見下ろす大人の海馬に視線を返して、オレもその細い身体をそっと抱き寄せる。
「………ありがとう」
「それはこちらの台詞だ。本当に世話になったな…。ありがとう、城之内」
何も言う事が出来無くて、ただ一言だけそう言った。オレの言葉に海馬はクスリと微笑んで、オレの背中をポンポンと叩いてくれる。その手付きが余りにも優しくて、それだけでジワリと泣きたくなって来た。
「相談に乗ってくれて…ありがとな。オレ、海馬と幸せになるよ。約束する」
「あぁ。信じているぞ」
「愛してるのはこっちの海馬だけだけど…。オレ、お前の事大好きだ」
「オレも大好きだぞ、城之内」
「じゃあな…。元気で」
「お前も元気でな…」
最後に少し顔を離して、至近距離で美しい青い瞳をじっと見ながら「さよなら」と言った。その言葉に海馬も頷いて「さようなら」と返してくれる。泣きたいのを我慢して白い頬に唇を寄せ、一度だけ軽いキスを贈った。海馬は一瞬驚いた様な顔をして、でも次の瞬間にはクスクスと笑って口を開いた。
「唇にはしてくれないのか?」
「それはお前の『オレ』にして貰えよ」
昨夜の公園の会話を、立場を変えてそのままに言い合う。
もう…それだけで充分だった。
夏の夜の公園に、静けさが戻る。
別世界から来た大人のオレと海馬と漠良は、黒い穴に飲み込まれて消えてしまった。時計台の下の空間はすっかり元通りになり、今は何にも感じられない。試しに右手を持ち上げて見て炎を出そうと思ったけど、もうあの炎が現れる事は無かった。
「行っちゃったな…」
「そうだな」
サワサワと夏の風が揺らす葉擦れの音しかしない公園で、二人で呆然と突っ立ったままボソボソと会話した。
「なぁ…海馬」
「何だ?」
「今夜ちょっと…時間あるか?」
「あぁ、大丈夫だが」
「話したい事があるんだ」
「………。そうだな」
「今日…オレん家に泊ってかない?」
「構わんぞ」
ハッキリと答えを返した海馬は、黙ってオレを見詰めている。青く澄んだ美しい瞳が、真っ直ぐにオレの視線を射貫いていた。
そんな海馬にオレもコクリと頷いて、右手をスッと差し出した。海馬は迷い無くその手を取って、ギュッと力を込めて握ってくれる。
「帰ろうか」
「あぁ」
オレの言葉に海馬は力強く頷いて、そして二人で団地までの道をゆっくりと歩んでいった。
で、その後何をしたかって言うと…。ぶっちゃけ、何っていうかナニをしたんだけどさ。
本当はもっとちゃんと相手の意志を確かめてから事に及ぶつもりだった。とは言っても、別にオレが海馬に無理強いした訳じゃないぜ? 何て言うか「愛しているからお前が欲しい!」とか「お前が好きだから、セックスがしたい!」とかちゃんと言葉にして伝えるつもりだったんだ。
それを覚悟しながら海馬の手を握り締めて団地まで帰って来たんだけど…。家に帰り着いて、ドアを閉めて、薄明るい玄関の灯りの下で相手の顔をじっと見つめ合って…。気が付いたら互いに互いを抱き寄せて、熱烈なキスをしてた。んで急いで靴脱いで家に上がり込んで、オレの部屋まで縺れ合いながら辿り着いて、帰ったらすぐ寝られるようにと敷きっぱなしにしてあった布団の上に倒れ込んで…。後はご想像通りって感じです。
何て言うのかな。何かアイツ等がいなくなって、一気に気持ちが盛り上がったというか…そんな感じだった。正直無我夢中過ぎて、最中にどんな事してたのかって事を良く覚えていないんだけど、後日海馬にその事を聞いてみたら「オレもだ」という答えが返って来たので、余り深く気にしない事にした。どっちもどっちって奴だよな。
恋人としての海馬との関係が明らかに変わったのは、この日からだった。セックスはそんなに頻繁じゃないけど、これ以降も何度かしてる。勿論最初の時みたいじゃなくて、ちゃんと余裕を持ってやってるけどな。
そんな事をしている間に季節はあっという間に移り変わって、気が付いたら秋真っ盛りになっていた。あの公園の木々もすっかり紅葉して、冷たい風に赤や黄色の葉を散らし始めている。
オレはあの日以来、何の用事も無い癖にたまにあの公園に足を運ぶのが習慣となっていた。何の変哲もない公園だけど、ここに来ればあの夏の日の不思議な体験が色鮮やかに甦って来る。
怒りも、哀しみも、恐怖も、そして何より大事な人に対する愛しさも喜びも、全てあの夏の日に味わった。それは間違い無くオレの…そして海馬のかけがいの無い宝物となっている。感謝してもしきれないくらいだ。
「寒くなってきたなぁ…」
「………そうだな」
今日も学校帰りに二人で公園に立ち寄って、時計台の下で二人黙って辺りを見渡した。
時間的にはまだ夕方だけど、秋の日が落ちるのは早い。吹き付ける北風に、元気な子供達も遊ぶのを止めて家に帰ってしまったようだ。ブルリと身震いして、オレは公園の入り口にある自動販売機で温かい缶コーヒーを二つ買った。そして、海馬と二人であのベンチに座って一口ずつゆっくりと飲んでいく。コーヒーを飲みながらも、繋いだ手は決して離さないままだった。
「もうすっかり秋だなぁ…。桜の葉も全部落ちちゃいそうだ」
「そんな事を言っている間に、すぐ冬が来るぞ」
「今年の冬は寒いってな。覚悟しねえと…」
「寒い冬であればある程、春が来た時は温かいのだろうな」
「そうだなぁ。そしてすぐに夏がやってくるんだろうな」
「そうだな」
「来年の夏が、今から楽しみだな」
「あぁ」
秋が終わって冬が来て、春を迎えたら夏が待っている。
夏が来たら、オレ達は鮮明に思い出すのだろう。丁度一年前の…あの不思議な夏の日々。恋人なのにすれ違っていたオレと海馬の心を、再び一つにしてくれたちょっと変わった超能力者達の事を。
「アイツ等元気にやってんのかなぁ…」
「元気にしているに決まっているだろう」
「何でそんなに自信満々なんだよ」
「オレ達が元気だからに決まっているだろう?」
「………あ、そっか」
「そうだ」
「なら心配いらねえな」
「あぁ」
「寒くなってきたから、そろそろ帰る?」
「そうだな。そろそろ帰ろう。早く帰って、何か温かい物が飲みたい」
「カフェオレでも煎れる?」
「たまにはココアがいい」
「そっか。じゃあココアにしよう」
ニッコリ笑いながらそんな軽口を言い合って、オレ達は吹き付ける北風に負けないようにそっと肩を寄せ合った。
あの夏の日の君に伝えたい事がある。
何も心配しなくていいよ…と。君が呆れるくらいに、オレ達は幸せ一杯だよと伝えたい。
その言葉が届く事は無いけれど、この気持ちはきっとアイツ等に届いてくれると信じている。信じていると言うよりは…確信しているんだ。オレも海馬も、この気持ちがアイツ等に届くと知っているから。
腕の中にある恋人の温もりに泣きたくなるくらいの幸せを感じながら、オレはふと…そんな事を思っていた。