あの夏の日の君へ(完結) - 見守ってみる - 第二十五話

 結局その後、あっちのオレ達とのシンクロは完全に切れてしまったらしく、オレはあの続きを夢に見る事は無かった。それは多分海馬も同じだったんだろう。朝、廊下で顔を合わせた時、オレの様子を伺って至極分かり易く安心したような顔をしていたから。「興味ねーの?」なんて巫山戯て訊いてみたら、「他人の…そ、そういう物には全く興味無い!!」と顔を真っ赤にして反論された。他人のって事は、自分の事には興味あるって事なんだろうか? まぁ…厳密に言えばアイツ等は、ただの他人じゃ無いんだけどな。
 でも、確かにオレだって他人のセックスになんか興味は無い。オレが興味あるのは、この恋人の海馬の事だけだから。ただちょっと惜しいと思ってるだけだ。
 だってアイツ等って、違う世界のオレ達なんだぜ? しかもこっちのオレ達と違って、すっかり出来上がっているカップルだ。ほんの少しでも参考になるような事があるかもしれないじゃんな? でもまぁ…そんな事に頼っているんじゃ駄目なんだろうけどね。やっぱ自分達の幸せは、自分達で築かないとな。
 そんな訳で至極平和な朝を迎えたオレ達は、朝…というには大分遅い昼近くになってから団地の一室に帰って来た。昨日の一件で疲れているんだろうからゆっくり休ませてやりたいって気持ちもあったし、逆に昨夜の名残で朝からイチャイチャしてるところに鉢合わせしたくないって気持ちもあったから、何となくノロノロと足を進める。その気持ちは海馬にもあったらしく、オレがどんなにノンビリ歩いても一向に急かしてはこなかった。
 午前十一時ちょい前くらいに部屋の前に着いて、鍵を開けてドアを開ける。その途端、凄く美味しそうな匂いが部屋の中から溢れ出て来た。

「何だこれ…? 目玉焼き?」
「お、おかえりー! 遅かったな」

 頭にハテナマークを浮かべつつ靴を脱いだら、台所からフライ返しを持ったままの大人のオレがヒョイと顔を覗かせた。どうやら自分でご飯を作っているらしい。

「冷蔵庫の中のモン、勝手に使わせて貰っちゃったけど…。別に良いよな?」
「あぁ、そりゃ構わないけど…」
「お前等は? 飯食ったのか?」
「うん。オレ達はちゃんと食べて来たぜ」
「じゃあ悪いけど、ちょっと待っててくれるか? オレ達今さっき起きたところで、これから朝飯なんだ」

 嬉しそうにそう言いながら、大人のオレは鼻歌交じりで二つ目のベーコンエッグを作っていた。
 テーブルの上にはトーストとベーコンエッグ、インスタントのカップスープにトマトとレタスの簡単なサラダ、それにマグカップに熱い珈琲が注がれている。そのテーブルには、大人の海馬が既に席に着いていた。未だ寝惚けているのか、その珈琲をゆっくり飲みながらボンヤリしている。「おはよう」と声を掛けると海馬はこちらをチラリと見て、そして顔を赤くして「あぁ…おはよう」と呟いた。
 あれ? この反応って…もしかして…。

「なぁ、おい」

 出来上がったベーコンエッグを皿に移している大人のオレに、オレは近寄って耳打ちする。

「もしかしてアイツ…昨日ちょっとシンクロしてた事に気付いているのか?」
「あー…あぁ、それね。あの時やっぱりちょっとシンクロしてたのかー」
「やっぱりって…。お前もしかして、気付いて無かったのか?」
「いやー。まさかここまで繋がりやすいとは思ってなかったんだよ…。途中で海馬がその可能性に気付いてな、慌てて意識を遮断したんだけど…」
「ゴメン。前半ちょっと見えてた」
「だろうな。悪い悪い、迂闊だった」

 悪いなんて言いながらも、反省なんて全然していないに決まっている。大人のオレは実に面白そうにケラケラと笑っていた。
 うん、その気持ちは良く分かるよ。もし逆の立場になったとしても、オレだってそこまで深刻にはならない。だってどうせ自分達と同じような存在だって知ってる訳だしな。
 そうだよなー。迂闊だったよなー。なんて明るく喋っているオレ達の背後で、二人の海馬が顔を真っ赤にしながら黙って見つめ合ってたのを、オレは(というか、オレ達は)一生懸命気付かない振りをしていた。



 ご飯を食べ終わった後、随分と長く四人で雑談をしていた。大人のオレ達の体調は、こっちが心配していた程では無かったらしい。傷も失った血液もあの漠良に治療して貰って、後は気力が戻るのを待つだけだったんだそうだ。その気力も…まぁ、昨夜の内に取り戻したから無問題だって事らしいけど。

「使い過ぎた能力も、明日中には元に戻りそうだ。そうしたらオレ達は元の世界に戻る」

 自分の右手を凝視しながらそう呟いた大人の海馬に、オレは嫌でも反応せざるを得なかった。
 コイツ等が…元の世界に帰ってしまう。オレ達の前から居なくなってしまう。勿論それが当たり前の事なんだろうけどさ…。コイツ等の生きる世界はここでは無くて、こっちの世界に長居する事は出来無い。用事が済めば、早々に立ち去らなくてはいけないんだろう。それは分かっている。よく分かっているけど…。

「何か…寂しくなるな」

 そう呟いたオレを、他の三人がじっと凝視した。
 発言は覆さない。だってオレは本当にそう思っているから。寂しいって感じている事を寂しく無いなんて言う事は、オレには出来無い。それにオレは、この大人の海馬には沢山世話になったんだ。そんな事言おうものなら「世話になったのはこっちの方だ」と反論してくるのが目に見えてるから、絶対口に出して言ったりはしないけどな。
 でもな、本当に世話になったんだよ。この海馬のお陰で、オレは本当に大切な事に気付く事が出来たんだから…。
 付き合い始めたはいいものの、全く上手くいかなかったオレと海馬の関係。自分の気持ちに一杯一杯で、海馬の本当の気持ちに気付く事が出来無かった。見えない気持ちに苛ついて…キレて…、下手をすれば世界で一番大事な人をレイプしていたかもしれない。もしあのままレイプしていたら、もう二度とオレと海馬の関係が修復する事は無かっただろう。留まって本当に良かったと思う。そして、そんな苛立ったオレを慰めて辛抱強く落ち着かせてくれたのは、この大人の海馬だった。
 感謝しても仕切れないと…本心からそう思っている。

「………」
「………」
「………」
「………」

 オレの一言で、さっきまで楽しく話していたのが嘘のように、居間は静かになってしまっていた。全員俯き加減になって、何か話そうとしてもなかなか言葉が出て来ない状況に陥っている。
 どのくらいそうしていただろうか。ふと…大人の海馬がゴソリと動いて「城之内」と名前を呼んだ。その声にオレと大人のオレが同時に反応するけど、海馬はクスリと笑ってオレの方を指差して口を開く。

「そっちの城之内だ。少し二人で話をしよう」

 その言葉に呆気に取られ、パチパチと瞬きをして固まってしまった。だけど大人の海馬はそんなオレの反応に構わず、座っていた椅子から立上がる。そしてもう一人の自分…つまりオレの恋人の海馬の方に向かって微笑みかけた。

「ちょっとそこの公園まで行って来る。コイツを借りるが良いな?」
「か、借りるって…。貴様一体何を…」
「別に何もしないから、安心しろ。そうそう、お前もそっちの城之内に何か訊きたい事があるのではないか?」
「………な、何を…?」
「せっかくの機会だ。色々訊いておくがいい」

 何か急に焦ってしどろもどろになっているオレの海馬にクスクスと笑って、大人の海馬はオレの腕を引っ掴んだ。

「ほら、行くぞ」
「あ………。う、うん」

 そうハッキリ言われてしまえばオレとしても反論出来無くて、渋々立上がって玄関に向かう。一瞬振り返ったら、微妙に複雑な表情をして俯いている恋人の海馬と、そんな海馬の横で「心配するな」とにこやかに笑い、こっちに向かってヒラヒラ手を振っている大人のオレの姿が目に入ってきた。
 他の男だったら「心配するな」なんて言われても絶対安心出来無いけど、相手が相手だからなぁ…。生きる世界は違っても、アイツはオレと同じ人間だ。だから本当に困った事にはならないだろうと信じて、オレは先に玄関を出て待っていた大人の海馬の後を追った。



 外はもうすっかり夕方だった。怒濤の夏休みももう後半に入っていて、日が暮れるのも大分早くなっている。外はまだ蒸し暑さ全開で、座っていてもジワジワと汗が流れてくるけど、公園の木に住み着いているヒグラシの音色が夕暮れの風と共に涼しさを運んできていた。
 海馬はオレを連れて無言で公園までやって来て、初めてオレと出会って火傷を治療したベンチまでやって来た。そして片側に座りかけると、隣をポンポンと掌で叩く。

「ほら、ここに座れ」

 そう言われて、オレはコクリと頷いて隣に腰を下ろした。

「もう夕方だってのに、暑いなぁ…」
「そうだな」
「夕日が眩しい」
「そうだな」
「あ、何か冷たい物買ってこようか?」
「そう言えば少し喉が渇いたな。何か頼めるか?」
「うん、いいぜ! 買って来る。何でもいいよな?」
「あぁ」

 にこりと微笑まれてそんな事を言われたので、オレは一気に嬉しくなって慌てて立上がった。一応ジーンズのポケットに小銭が入っていた事は確認済みだったので、その金を出しつつ出口にある自動販売機へと向かう。少し悩んで、冷たい緑茶と烏龍茶のペットボトルを一本ずつ買った。それを持ってベンチまで戻って来て、もう一度海馬の隣に腰を下ろす。

「緑茶と烏龍茶。どっちがいい?」
「そうだな。緑茶にしようか」
「はい、じゃあこっち」

 言われた通りに緑茶のペットボトルを手渡して、自分は烏龍茶のボトルキャップを捻って開けた。口を付けると冷たい水分と共に、ほろ苦い烏龍茶の味が口内を充たす。
 公園は静かだった。まだ日が沈みきっていないのに、昼間遊んでいた子供達はもう家に帰ってしまったらしい。あちこちの家からカチャカチャと夕飯の支度をする音が微かに聞こえてきて、あとは夏の風が公園の木々の揺らすサワサワとした葉擦れの音しか聞こえない。遠くの方で烏の鳴き声が聞こえていたけど、あっという間に遠ざかっていった。

「静かだな…」
「うん…。昨夜、ここであんな騒ぎがあったなんて嘘みたいだな」
「ふふっ…。そうだな」
「何かもう、何年も前の事みたいだ。まだ一日しか経って無いんだよなぁ…」

 海馬の言葉に応えて、烏龍茶を二口三口飲む。冷たい飲み物を飲んで、食道から胃の中がスッと冷えて気持ち良かった。でも冷たいのは身体の中だけで、夏の夕日に照らされている身体の外側と、それから隣にいる海馬の事を気にしている頭はジワジワと暑いままだ。

「なぁ…海馬」
「何だ?」
「何でオレを誘ったの?」
「ん? そうだな…。もう明日には帰れそうだし、最後のデートでもしておくかと思ってな」
「最後の…デート?」
「あぁ。城之内…。最後にオレに訊いておきたい事とかは無いのか?」
「お前に…訊いておきたい…事?」
「そうだ。お前の恋人の海馬瀬人ではなく、このオレに対してだ」

 海馬の言葉を聞いて、途端に頭がカーッと熱くなった。
 訊きたい事…なんて、あるに決まってる!! 正直、恋人の海馬との仲は全然進んでいないんだ。勿論大事な事には気付いたし、そのお陰で以前程焦りは無いし、ていうか待てと言われたら余裕で待てるし、それどころかこの先超上手く付き合っていく自信もあるけど。
 でもだからと言って海馬を欲していないかと言われれば、それは嘘になる。
 だってだって、欲しいモンは欲しいんだよ!!

「なぁ…あの…さ」
「何だ?」
「凄く下世話な質問になるけど…いい?」
「分かっているからさっさとしろ」

 何かこのまま黙っている事も出来無くて、辿々しく切り出してみた。そうしたら海馬が「そんな事、とうにお見通しだ」なんて感じで促してくるから、オレは思いきって言葉を放ってみた。

「お前ってさ、ぶっちゃけオレを…。オレって言うか、お前の恋人のオレの事なんだけど…をさ、欲しいって思った事ある?」

 恐る恐る切り出してみた質問に、海馬はキョトンとした顔を見せた。そして次の瞬間、プッ…と吹き出す。

「わ、笑うなよ! オレは真剣なんだよ!!」
「クッ…ククク…! あぁ…悪い。まさか今更そんな質問をしてくるとは思わなかったから」
「い、今更って…」
「城之内、昨夜はあっちの城之内とシンクロしていたのだろう?」
「へ? ………あ、あぁ…。それはしてたけど…」

 昨夜のシンクロと言われて、あのヴィジョンが頭に浮かんで来て赤面してしまった。
 あぁ…うん。前半部分しか見られなかったけど、アレにはかなりドキドキさせられました。

「では、途中まで見ていたのだな?」
「見てたけど…。それが何?」
「何? では無いわ。アレを見ていて、オレがアイツを欲していないとでも思ったのか?」

 言われてハッとした。
 そう言われればそうだった。昨夜のアレは…この大人の海馬の方から仕掛けて来ていた。

「そ、そうでした…」

 思い出してますます顔が熱くなって、オレは片手を口元に当ててボソリと呟いた。大人の海馬はそんなオレを見て可笑しそうに笑い、ペットボトルから緑茶を一口飲んでふぅ…と深く嘆息した。そしてフワリと微笑んで、オレに向かって口を開く。

「だからな、城之内。お前の海馬瀬人も同じだと思う」
「………え?」
「アレを欲しいのだろう?」
「うっ………!」
「そしてお前は、まだ手に入れてはいない。違うか?」
「そ、それは………」
「急いだら駄目だぞ。急がれたりがっつかれたりしたら、まず間違い無く逃げる。無理矢理なんて以ての外だ」
「う…うん…」
「だが、じっくり説き伏せれば大丈夫だ。向こうだってお前を欲している筈だからな」
「それ…本当?」
「オレは嘘は吐かない」
「そっか…。そうなのか…」
「自信が無いのか?」
「ある訳無いじゃん。あの海馬だぜ?」
「お前は本当に馬鹿だな」
「あ? 何だって?」
「そう噛みつくな。もっと自信を持てという事だ」

 馬鹿だなって台詞に流石にカチンと来て眉根を寄せてギッと睨み付けたら、それでも大人の海馬は笑顔のままで…。如何にも余裕シャクシャクといった風に軽くあしらわれてしまった。
 それから暫くは、二人とも黙って沈みゆく夕日を眺めていた。公園中に響き渡るヒグラシの音色が夏の終わりを告げているようで、何だか物寂しくなってきてしまう。
 理由は分かっていた。この寂しいって感情は、夏が終わっていく所為だけじゃない。明日コイツと別れなければならないって知っているからだ。

「今頃アイツ等は…どんな話してるのかな?」
「多分、オレ達と同じような話をしているのだろう」
「そうかな」
「そうに決まっている」

 この感情を知られたくなくて、オレはペットボトルに残っていた烏龍茶をグイッと飲み干し、誤魔化すように顔を背けた。上手く誤魔化そうとしたけど、語尾はチョット鼻に詰まる声になってしまう。目の奥も急激に熱くなって来て、目の前がボンヤリと涙で滲む。情けないなぁ…と思ったけど、海馬はそれに対して何も言及する事は無かった。
 オレが泣いている事に、気付いて無い筈無いのにさ…。

「オレ達が元の世界に帰ったら…全ては元通りになる。世界が違えば勿論シンクロも起らなくなるから、お前達に芽生えた能力も消えるだろう」
「………うん」
「寂しがる事は無い。お前の側には、恋人のオレがいるだろう?」
「…うん」
「この先どのような結果を迎えたとしても、オレや城之内がそれを知る事はもう無いだろう。けれどオレ達は信じている。必ず…お前達が幸せになるとな」
「うん」
「だから頑張れ。きっと大丈夫だから」
「うん…っ! ありがとな…っ!! 本当に…ありがと…っ!!」

 我慢出来無くてついに泣き出してしまったオレを、海馬はそっと優しく抱き寄せてくれた。ふわりと良い香りがする細い身体を強く抱き締めて、オレはその肩口でボロボロと泣いていた。寂しいって感情はまだあるけど、悲しいって感情は一切無い。というより、嬉しいって気持ちで一杯だった。



 公園はいつの間にか、すっかり暗くなっていた。
 八月の夕日はとっくに西の地に沈み、ただじっとりと湿気を含んだ暑さだけを、オレ達に伝えていた。