恋人の海馬が大人のオレに取り憑いていた影を、その拳一つで見事に粉砕してくれてから数十分後。漠良の治療を受けた大人のオレと海馬は、無事に目を覚まして生還する事に成功した。海馬が瞑っていた目を薄く開いて、心配そうに見守っていたオレ達の事を見返した瞬間…。オレは心底安心して、はぁー…と大きく息を吐き出した。多分隣で同じように見守っていた海馬や漠良も同じ気持ちだったんだろう。オレ程では無いけど、ふぅ…と小さく嘆息していた。
最初に目を覚ましたのは、大人の海馬の方だった。その数分後に大人のオレも目を覚まし、オレ達の事を見た途端にしきりに謝っていた。二人ともまだ顔色が悪く、上半身を起き上がらしても微妙に身体をぐらつかせている状態で…。でも、だからと言っていつまでも公園の地面に横たわらせておく訳にはいかず、三人で協力しつつ二人の身体を抱えてオレの家に戻ってきた。
すぐに布団に横にならせてやろうと思ったら、二人して声を合わせて「風呂」と言う。血液や砂や泥で汚れた身体で布団に寝たくは無いんだと言われ、慌てて風呂の準備をしてやった。その間にも、タオルだ着替えだと色々と用意をしてやる。奥のオレの部屋に布団を敷いてやり、新しいタオルや着替えを洗面所に持って行ってやった。後は風呂が沸くのを待つだけ…という段階になって、その他の準備を手伝ってくれていた恋人の海馬がオレの腕を掴んで引き寄せてきた。そして耳元に口を寄せて「城之内」と名前を呼んでくる。
「な、何?」
その声がいつにも増して真面目だったので、オレは思わずどもってしまった。振り返ったら海馬の顔が異常に近くにあって、それにもドキドキしながら何とか平静を保とうと必死になる。その甲斐あってか大分落ち着いて来たオレを見て、海馬は真面目な表情を崩さずに口を開いた。
「城之内、奴らの事はもう放っておこう」
「………は?」
一瞬言われた意味が分からなくて、首を捻る。
放っておくって…、放っておくってお前…。こんな状態の奴らを放り出しておく訳にはいかないじゃないか!
そう思ったのが顔に出てしまっていたのだろう。海馬はオレの顔を凝視して「そうじゃない」と静かに首を横に振った。
「見捨てる意味で『放っておこう』と言ったのでは無い。アイツ等の為に必要だと思ったから『放っておこう』と言ったのだ」
「………? どういう意味だ…?」
「分からないのか? 貴様も鈍い奴だな。あの二人は恋人同士でありながら、片や相手を庇い自分が影に取り憑かれ、片やそれを自分の責任だと痛感して愛する相手を殺そうとしていたんだぞ」
「あ………」
「本来ならば、もう一人のオレがあっちのお前を自らの手で殺し、更にその後に自害して事態が終了していた筈だ。ゲームで言うならバッドエンドというところだろう。ところが何の奇跡かは知らんが、上手い事ハッピーエンドになった」
「………」
「全員が生き残り、そしてあの城之内も影から解放された。あの二人は今…感慨深い気持ちで一杯に違い無い」
「でも…それを感じさせようとはしてないよな。むしろ自分達の気持ちを隠してる」
「そうだ。どうしてそうしているか…分かるか?」
「オレ達がいるから…だよな」
「あぁ。そこまで言えば分かるだろう。今オレ達は…」
「邪魔者だな」
海馬の言いたい事がよく分かって、オレは苦笑を浮かべながら溜息を吐くしか無かった。
そうだ。そう言われれば確かにそうだ。あの二人はありとあらゆる苦難を乗り越えて、漸くハッピーエンドに辿り着けたんだ。上手く隠しているようだけど、本当だったら一分一秒でも早く…そして少しでも長く二人きりになりたいだろう。二人きりになって…相手を確かめ合いたいだろう。そんな気持ちが嫌と言う程分かってしまった。
だってもしアイツ等の立場がオレ達だったら…きっと同じように考えるだろうから。「お前等邪魔だ」って言ってしまうのは簡単だけど、アイツ等は違う世界からこっちの世界に来て居候してるも同然だからな。そんな事も言える筈も無いし。
「あ、思い出した。そういや布団も足りなかったわ」
わざとらしく声に出してそう言ったら、目の前にいた海馬がニヤリと微笑んだ。
いや、布団が足りないのは本当なんだ。オレ用の布団と客用の布団の二組しか無い。もう一つ布団はあるにはあるんだけど、流石に親父用の布団に誰かを寝かす訳にもいかないしな。
「あの布団にアイツ等を寝かすとして…、じゃあオレ達はどうすればいいんだ?」
「そんなもの。貴様がオレの屋敷に泊りに来ればいいのだ」
「あ、そっか…って、えええぇっ!?」
「何をそんなに驚いているのだ? オレ達は恋人同士だろう? 恋人が相手の家に泊まりに来て、何もおかしい事などある訳無いではないか」
「そ、それはそうなんだけど…。それって…っ!?」
「………?」
「あ、いや…何でも無いです…」
あーうん、そうですよね…。海馬がそんな事を踏まえて、オレを泊まりに誘う訳無いですよね…。逆にそういう事を何も気にしていないんだろうから、こうして平気で泊まりに来いなんて言ってるんだし。
まだ付き合い初めだから仕方無いか…。こっちはもうちょっと本腰入れて、じっくり育てて行けばいいよな。別に焦ってないし。うん、大丈夫。
「分かった。じゃあそうするか」
オレがそう言うと、海馬は凄く納得したような顔で「あぁ」と答えつつ頷いた。
畳みや絨毯の部屋を汚したくないのか、大人のオレ達は揃って台所にいた。ダイニングテーブルの椅子に座りながら、オレが最初に渡した濡れタオルで身体のあちこちを拭いている。その様を見つつ、オレは奴らにツカツカと近寄って言葉を放った。
「オレ達、これからちょっと外出てくるから。明日の朝まで戻らないからごゆっくり」
そう言った途端、案の定二人がギョッとした表情でオレの顔を見返してきた。
「そ、それはどういう意味だ…?」
「ん? あぁ、ちょっと海馬ん家に泊って来ようかと思ってな」
濡れタオルをギュッと握り締めたまま問い掛けて来た大人の海馬に、オレはなるべく平然を装ってそう答えた。ちらっと顔を見てやれば、何だか妙にオロオロした表情になっている。
何をそんなに気にしているんだか…。だって今更なのにな。もっと堂々としてればいいのに。
「風呂はもうすぐ沸くから、順番に入ればいいぜ。あ、別に一緒でもいいけど。狭いから気を付けろよ。タオルと着替えは洗面所に置いてあるから自由に使えばいい」
「ちょ、ちょっと待て…っ」
「布団はオレの部屋にもう敷いてあるからな。分かってると思うけど、オレ用の布団にはもう一人のオレ。海馬は客用の布団に寝てくれよな。別にどっちかの布団に一緒に寝てもいいけど」
「は? いや、あの、ちょっと待ってくれ…!」
「布団足んないんだから仕方無いだろ? お前等が海馬ん家に行く訳にはいかないじゃんか。お前等がこっちの家使うんなら、オレがあっち行くしか無いじゃんな」
「だがしかし…! ここはお前の家なのに…!」
「あぁ、そうだよ。ここはオレの家だ。だからオレがこの家をどういう風に使おうと、それはオレの勝手だ」
「………」
「オレがこの家を、お前等に好きに使えって言ってるんだから、お前等は遠慮しないでこの家を使えばいい」
「………城之内…」
「明日の朝には戻ってくるから、その間ゆっくりしろよ。能力使い過ぎて疲れてるんだろ? しかも死にかけてたし」
オレがそう言い聞かせると、大人の海馬は途端に大人しくなった。そして少し項垂れながら「済まない…」と声を出す。
別にそんな風に謝ったり気を使って欲しかった訳じゃ無いのにな。現に大人のオレは、オレの気持ちをしっかりと理解したらしく、ニコニコしながら「サンキューな。それじゃ遠慮せずゆっくりさせて貰う」って答えていた。
まぁ…確かに好き勝手に使えとは言ったけど、色んな物を汚されるのだけは勘弁だったので、オレは大人のオレの腕を引いてヒソヒソ声でこう忠告した。
「ヤるのは構わねぇけど…。余り布団汚すなよ。汚したらキッチリ洗ってもらうからな」
オレの言葉に大人のオレは一瞬キョトンとして、だけど次の瞬間滅茶苦茶いやらしい顔でニタリと微笑んだ。そして続けざまに耳に入って来た言葉に、オレは心底呆れる事になる。
「分かってるって。オレ、シーツとか洗うの超得意だし」
全然分かってねーじゃねーか。汚す事前提かよ。
でも文句を言う事は出来無かった。だってその顔が幸せ一杯だったから。
分かってるよ。本当はちゃんと分かって無いかもしれないけど、それでもオレには良く分かっているよ。お前等がどんなに必死の想いで、このハッピーエンドを勝ち取ったか…良く理解しているつもりだ。
だから好きにすればいい。今夜一晩、二人で愛を確かめ合えばいい。
「もし親父から電話が来るような事があったら、お前が適当に誤魔化しておけよ。多分そっちの親父と何も変わらないから」
「あぁ、分かってる」
「他に何か困った事があったら、オレの携帯に連絡してくれればいいから。携帯番号は…同じか?」
「多分同じだろ? 0X0の…」
「本当に同じだな。じゃーそれで頼むわ。後は頑張れ」
「頑張れって何をだよ。それを言うならお前等の方だって頑張れだろ?」
「いや、こっちは…」
「………?」
「な、何でも無い! 今はオレ達の事より自分達の事心配しろよな!」
まだ何もしておりません…なんて、とてもじゃないけど言えなかった。ちょっと情けないなとは思ったけど、以前のような焦りや不安は全く無い。これからゆっくり事を進めていけばいいって分かったからな。
そんな事を考えていたのが、どうやら大人のオレに伝わってしまったらしい。まぁ、隠そうとしても同一人物だから考えが読まれてしまうってのはあるんだろうけどさ。
大人のオレはじっとオレの顔を見詰めて、そして腕を伸ばして肩をぐっと掴んできた。大きな手だった。大きくて熱い手だった。今のオレも結構力があると自負しているけど、それ以上に力強い掌だった。
「悪いな…。何から何まで世話になっちまって…」
「いいよ。別に気にしなくて」
「だからオレはお前に礼をしたい。オレに何か出来る事は無いか?」
「………気持ちは嬉しいけど、何も無いぜ」
「………」
「だってこういうのって、自分の力でどうにかするもんだろ?」
「まぁな。それはそうだけど」
「アンタだって自分の力で、あの海馬を手に入れたんだろ? だったらオレもそうするまでだ」
「あはは。流石『オレ』だなぁ。ちょっと感心したわ」
「海馬にはウザがられるけどな」
「それはそうだ」
「でもそこが可愛かったりして」
「そうそう。お前もよく分かってんな」
二人で海馬の事を言い合ってクスクスと笑い合う。そんなオレ達を二人の海馬が訝しげに見詰めているのが印象的だった。
その夜、オレは団地の一室に大人のオレ達を残し、海馬の屋敷に招待された。
海馬がオレを連れてきたって事でモクバは大騒ぎし、滅茶苦茶質問攻めにあった。最初は怒っているのかと思ったけど、逆に「兄サマが友達を連れて来た!」って事で喜んでいる事が判明。結局夜遅くまでゲームに付き合わされる羽目になった。
………ゴメンな、モクバ。オレ『友達』じゃねーんだ…。まだ『友達』の域は抜けてねーけどな…。
それもいつか白状しなくちゃいけないなぁ…なんて思いつつ、通された客室で大人しく就寝した。やっぱりというか何て言うか、まだ同じ部屋には寝させてくれないらしい。広い部屋で一人寝なくちゃいけないのはちょっと寂しかったけど、一日の疲れがドッと出てあっという間に眠ってしまったので、そんな事考える暇も無かった。
ただ眠ってから暫くして、オレは奇妙な夢を見た。
『城之内…』
目の前に海馬の顔が見える。少し大人びたこの顔は、オレの恋人じゃ無くてあの大人の海馬の顔だ。
青い瞳を涙で潤ませて、じっとオレの事を見詰めている。背後に見える景色は、あの団地の狭いオレの自室だ。電気は消されていて、ほんのりオレンジ色に灯る常夜灯の灯りだけが部屋を照らしている。
『ゴメンな海馬。心配掛けた…』
海馬の呼び声にオレはそう答えて、スッと手を伸ばして白い頬を掌で包み込んだ。海馬はグスッと鼻を啜って、触れた掌に頬を擦り寄せる。風呂に入ってサッパリしたんだろう。まだほんのり濡れている栗色の髪の毛や、用意してやった着替えを着込んでいるのが目に入ってきた。
『あんな無茶をするから…こんな事になって…。オレにお前を殺させるつもりだったのか…』
『うん…ゴメンな。本当にゴメン。お前をこんなに苦しませるつもりじゃなかったんだ…。ただお前を助けてやりたかっただけなんだよ…。あんな薄汚い影に、お前が穢されるのが嫌でさ…』
『だからと言って、お前が犠牲になる必要は何処にも無かったのだ…! お陰でオレがどれだけ苦労したか…!!』
『悪かったって。もう二度とあんな無茶はしねえよ』
『………本当だな?』
『あぁ、本当だ』
『約束するか?』
『お前に誓うよ』
必死な顔でオレに縋る海馬に、オレはニッコリと優しく微笑んでそう言ってやった。そして頬に添えていた手を後頭部に移動し、洗いたてでしとやかな栗色の髪に手を差込み、その頭をそっと引き寄せた。海馬はその力に一切抵抗する事無く、端正な顔をオレにゆっくりと近付けていく。やがて目の前に一杯になった海馬の顔に泣きたくなるくらい感動したオレは、ほんのり開かれた桜色の唇に自分のそれを押し付けた。柔らかな感触を感じつつ、オレは頭の片隅で「あぁ…またシンクロしてやがる…」と冷静に考えていた。
多分この夢は、今実際にあの団地の一室で起っている出来事なんだろう。このシンクロが故意か無意識かは分からないけど、オレの意識と大人のオレの意識が繋がっている事は確かだった。
本当だったら速攻意識を切った方がいいんだろうけど、今の今までただの一般人をやって来たオレにはそのやり方が分からなかったし、ましてやコレを切るのは勿体無いなぁ…という気もしていたので、そのままにしておいた。まぁ…それも対して長くは続かなかったけどな。
数分後、同じように大人の海馬と意識がシンクロしていたらしい恋人の海馬が物凄い形相で客室に襲撃してきて、無理矢理意識を途切れさせてしまったから…。
その後? 勿論何も無いぜ? ただ顔を真っ赤にさせながら何かを喚いている海馬の事を見ていたら、オレ達もアイツ等と同じように結ばれるのも、そう遠く無い未来だと確信はしたけどな。