あの夏の日の君へ(完結) - 見守ってみる - 第二十三話

 公園の砂地の上に、二人の大人が血を流して横たわっている。
 大人の海馬が作り出した青白い光の片手剣は、重なり合ったもう一人のオレと海馬の身体を真っ直ぐに貫いた。貫かれた瞬間、揃って苦しそうな呻き声を上げて二人は地面に倒れ込んだ。思わず駆け寄ろうとしたオレの肩を、隣に立っていた恋人の海馬がグッと掴んで引き留める。その余りの力の強さに振り返って見ると、目が合った海馬はただ静かに首を横に振るだけだった。

「大丈夫だ。急所は外れている」

 海馬は淡々とオレに告げたけど、その瞳はやっぱり心配そうだった。そりゃそうだよ。だってあんなに大量に血を流して、呻きながら地面に倒れ伏しているんだから…。
 大人の海馬の能力はもうとっくに切れているから、二人の身体を突き刺した光の剣はそこには無い。ただ突き刺された傷からはドクドクと血が流れていて、いくら急所を外しているからと言ってもこのまま放って置けば死んでしまうのは明らかだった。助けを求めるように漠良に視線を向ければ、漠良はコクリと一つ頷いてゆっくりとこっちに近付いて来る。

「危ないから、二人ともちょっと下がってて」

 そう言う漠良に頷いて、二人で少し後退る。
 漠良はトコトコとこちらに近付いて来て、倒れ伏す二人の前にしゃがみ込んだ。そしてじーっと大人のオレの事を見詰めている。その顔は真剣そのものだ。オレは漠良に関しては、いつも明るくニコニコ笑っているイメージしか無かったけど、そのイメージが間違いだった事を認めざるを得なかった。
 やがて漠良はふぅ…と大きく息を吐き、ニヤリ…と凄みのある笑みを口元に浮かべた。

「さて…。いつまでそこに隠れているつもりなの? 早くしないと宿主ごと死んでしまうよ?」

 漠良の呼びかけに、倒れたままだった大人のオレの身体がピクリと動いたのが見えた。身体中に蛇のように巻き付いた真っ黒な影が、ウゾゾ…と動いて一つに纏まっていく。それは『オレ』の身体の内からも湧き出てきて、あっという間に大きな黒い動く固まりとなった。影…というよりは、まるでコールタールの固まりのような物体の余りのおぞましさに、背筋にゾッ…と悪寒が走る。

「漸く出て来たね…。でもどうするつもりだい? 今までと同じように、城之内君を手に掛けた海馬君に取り憑くのかい?」

 大人のオレの身体から這い出てきて、地面でウゴウゴ動いている影に、漠良はクスクスと笑いながら話しかけた。一見楽しそうに見えるけど、目が全く笑って無い事に気付いてゾッとした。
 多分今の漠良は…あの影に対して本気で怒っているんだ。自分の大事な仲間達をこんな風に傷付けていった影に対して、これ以上ない位に怒っている。その怒りが少し離れた場所で見ているこっちにまで伝わって来て、オレはついソワソワしてしまった。
 ちなみに漠良の怒りに関しては、横に突っ立っている恋人の海馬もオレと同じように気付いているらしい。何だか微妙な顔付きで成り行きを見守っている。冷や汗を流してたまにゴクリ…と生唾を飲んでいるのは、決して出て来た影のおぞましさだけが原因じゃ無いんだろうな。
 ウネウネと、まるで何かのゲームに出てくるスライムのように動く影を睨み付けながら、漠良はさも面白そうに笑いながら口を開く。

「でもどうするの? 君の大事な宿主を手に掛けた海馬君もこんな調子だよ? この身体に乗り移ってどうするつもり? どっちにしろ死んじゃうと思うんだけど…ね」

 漠良の問い掛けに、影は何も答えない。いや、答えられないんだ。影のままの状態では言葉を放つ事が出来無いんだろう。喋る事も、自力で遠くに逃げる事も出来無い。あのスライムのような形状じゃ、逃げようとしたって大した移動力も無いだろうしな。
 だからこそあの影は、次に乗り移れる奴を捜している。普通に考えれば、目の前で自分を馬鹿にしている漠良に取り憑くのが一番早い筈だ。だけどあの影はそれが出来無い。『自分が乗り移っていた宿主を殺した相手に、新たに取り憑く』というルールに縛られて動けないんだ。
 今まであの影が乗り移っていたのは、あっちの世界の『城之内克也』。その城之内克也を殺したのは、同じ世界の『海馬瀬人』。だけどその海馬瀬人の身体も、城之内克也の身体と同じように傷付いて全く使い物にならなくなっている。でもあの影は『宿主を殺した相手に取り憑く』という自分のルールから逃れられない。だとしたら考えられる事は一つ…。次にその影が取る行動は、こっちの世界の…違う存在でありながら同じ存在でもある『海馬瀬人』に取り憑く事だけ。

「海馬っ!!」

 案の定、勢いをつけて飛び上がってきた黒い影は、オレの隣にいる海馬に向かって飛びかかってきた。
 作戦では、こっちの世界のオレか海馬に取り憑いた影を、すぐに漠良の能力を使って引き剥がして消滅させる筈だった。その作戦の意図はよく分かってたつもりだったけど…でもオレは嫌だった。ほんの少しでもこんな汚い影が、オレの海馬に巣くうのなんて冗談じゃ無いって思ったんだ。だから海馬の前に飛び出して、その身体を匿うように両手を広げて庇ったんだけど…。

「邪魔だ、どけ!」
「へ? ………ぬわっ!?」

 突然背後から首根っこを引っ掴まれて、オレは地面にブン投げられてしまった。
 地面に倒れ込む寸前、オレは身体を捻ってオレをブン投げた海馬の横顔を見た。その顔は…実に見事な笑顔だった…。楽しそうだなとか嬉しそうだなとか、そんな感想の前に、恐ろしいと心底感じるような…そんな笑顔だった。

「貴様…いい加減にしろよ…!!」

 腹の底から絞り出したようなドスの効いた声を出して、海馬は右手の拳に力を入れる。その掌は、発動した能力によって青白く光っている。漠良から能力を発露させて貰って、練習している海馬をずっと見てたけど…。あの光があんなにも激しく光っているのは見た事が無かった。
 つまりあの光の強さは…今海馬が感じている怒りそのものだって事なんだ。

「たかが影の癖に、一体どこまで人間を馬鹿にするつもりだ…! もうこれ以上オレも城之内も…それに他の誰かの事も…絶対に貴様の思い通りにはさせん!!」

 男らしい声で腹の底から大きく叫び、海馬は握り締めた右の拳を飛んで来た影に向かって振り下ろした。青白い光を纏った拳はそのままコールタールの固まりの中心を突き抜け、影はその黒い身体に風穴を開けられた。次の瞬間、影はパンッ! という軽い音と共に辺りに四散して、黒い粘着質な物体をボタボタと地面に散らしていく。その異様な光景をオレと漠良はただ呆然と眺め、海馬はフンッと鼻を鳴らし胸を張ってその場に突っ立っていた。その顔が妙に自慢げだったのは言うまでも無い…。



 結局その後、恋人の海馬に寄ってバラバラにされてしまった影が復活する事は…二度となかった。地面に落ちたコールタールの様な破片は、やがてしゅううぅ…と煙を吐いて消えてしまった。漠良に言わせれば、それが影の最後の姿らしい。
 影が完全に消えてしまったのを見届けて、漠良は急いで地面に倒れ伏している大人のオレと海馬の治療に当たった。初めて目の前で本格的な治癒能力を見たけど、その能力の凄まじいの何のって…。
 初めてこの公園で大人の海馬と出会った時、海馬が自分の傷を治癒能力で治すところはこの目で見ていた。確かにあの時も凄いって思ったさ。だけど漠良の治癒能力は、そんな物お話にならないという感じだった。
 光の剣で貫かれた傷に漠良が手を翳すと、そこから優しいクリーム色の光がパアッ…と溢れて来る。その光に触れた途端、酷い刺し傷がみるみる内に塞がっていったんだ。まるで逆再生の映像を見せられているようなスピードには、オレも恋人の海馬も本当にビックリした。
 漠良はもう一人のオレと大人の海馬の傷を順番に塞ぎ、そして更に二人の心臓の上に掌を置いて光を強くしていった。なんでも心臓に直接能力を送り込んで、血液を人工的に増やしてやっているんだそうだ。そりゃあんだけ出血すれば輸血も必要になるだろうけど、そんな事まで超能力で出来るんだと、感心を通り越して唖然としてしまう。

「この為にボクは余り余計な力は使わず、ずっと能力を温存してきたんだ。これが出来無ければ治癒能力者である意味が無いよ」

 漠良はそう言って、心配そうに事の成り行きを見守るオレ達に向かってニッコリと微笑んだ。その微笑みに、先程見たような恐ろしさは欠片も感じない。
 地面に横たわった大人のオレと海馬の顔色が良くなっていったのを見て、漠良は漸くその手を離す。そして側にあったベンチにドサリと座り込んだ。顔色は悪くないけど、汗を一杯に流して大分疲れてしまっているようだ。オレは公園の入り口にある自販機でペットボトルのミネラルウォーターを買い、ベンチでグッタリしている漠良にそれを差し出してやる。

「ありがと」

 ニコニコしながらお礼を言い、漠良はオレからペットボトルを受け取ってキャップを外し、飲み口に口を付けた。そして一気に水を飲んでしまう。
 直接戦闘には参加してないけど、他人の傷を癒すという事がどれだけの能力を消費するのか、嫌でも分かったような気がする。自分には…無理だ。多分海馬にも無理だと思う。これは漠良じゃないと出来無いんだなぁ…と改めて気付かされた。
 漠良はコクコクとペットボトルの水を飲みながら、ふぅ…と大きく息を吐き出した。そして未だ気を失ったまま地面に倒れている、大人のオレと海馬を見詰める。

「多分…もう少ししたら目が覚めるだろうから、そうしたら家に連れて行ってあげようね。いくら傷を治したと言っても、今日明日は動けないと思うから。良かったらこのままこっちの城之内君の家で休ませてあげて欲しいんだけど…いいかな?」
「そりゃ勿論構わねーぜ。乗りかかった船って奴だよ。こうなったら最後まで面倒みてやる」
「ゴメンね、ありがとう。二、三日経てば体力も能力も戻るだろうし、そうしたら元の世界に帰れるから。それまで辛抱してくれるかな」

 苦笑しながらそういう漠良に、オレは「勿論。気にしなくていいぜ」と軽く返答した。だけどほんのちょっとだけ、その言葉が心の奥底で引っ掛かっていた。
 二、三日。たった二、三日でコイツ等はもう元の世界に帰ってしまうって事なんだ。
 ある日突然現れて、オレの日常を引っかき回して…。だけどそのお陰でオレは大切な事に気付く事が出来て、海馬との仲をより深める事に成功した。今は海馬との付き合い方に何の不安も抱えていない。これから先も色んな事が起きるだろうけど、全部乗り越えていけるって信じられる。
 その自信をくれたのは、この別の世界から来た大人の海馬だ。コイツのお陰で、オレは愛する人との絆を取り戻す事が出来た。

「………」

 口には出さない。絶対出さない。
 だけど、やっぱり、ほんのちょっと…寂しいと思った。