結界を守る役目の漠良を取り敢えず公園の入り口に残して、オレと海馬、そして別の世界から来た大人の海馬の三人はゆっくりと公園内へ入っていった。夜の公園はシンとしていて静かで、オレ達以外の生き物の気配が何も感じられない。いつもは公園の木をねぐらにしている小鳥たちの存在も感じられない。
だけどオレ達は気付いていた。何も感じられないように思えて、たった一つだけ…強烈な気配がそこにあるのを。
試しにオレのすぐ隣にいる恋人の海馬に目線を送ると、海馬も目線を合わせてコクリと一つ頷いていた。何も言わなくても分かる。アイツが…大人のオレが間違い無くここにいるんだ。
ジャリジャリと公園の砂地を踏んで歩いていると、突然前を歩いていた大人の海馬がピタリと止まった。その背中が妙に緊張したのが目に見えて分かって、オレは海馬が『オレ』を見付けた事を全身で感じ取る。海馬の視線を先を辿るように前を見据えて、そしてそこに居た存在に釘付けになった。
「な、何だ…あれ…」
もう一人のオレは、確かにそこにいた。
公園の中心に建っている時計台に寄り掛かって、半ば項垂れるようにして立っている。恐ろしい雰囲気と強大な能力に対する恐れは以前と変わらず肌に痛いくらいに感じるが、だがこの間会った時とは少し感じ方が違った。それもその筈だ。その姿が…異様だったからだ。隣でそれに気付いた恋人の海馬も、ゴクリと喉を鳴らしたのがハッキリと聞こえて来た。
もう一人のオレは…全身を影に覆われていた。身体の隅々から湧き出して来た影が、まるで無数の蛇のようにその身体に巻き付いている。ウネウネと動き回る影に大人のオレは苦しそうに項垂れ、片手で額を覆いながらゼェゼェと苦しそうな呼吸を繰り返していた。夜の公園はとても薄暗かったけど、街灯の灯りでその顔色が酷く悪い事も分かる。冷や汗をボタボタと地面に垂らしながら、もう一人のオレはキッ…とオレ達に視線を向けた。
「よぉ…。やっと…来たな…海馬…」
心なしか、声にも覇気がない。息はどこまでも荒く、今にも倒れてしまいそうだ。
「待ってたぜ…海馬。あぁ…クソッ…! 早く…早くお前等を殺さないと…」
「城之内…」
「早く…殺さないと…オレが保たない…! 何だってコイツは…こんなに出て来ようとするんだ…っ! しつけーんだよ…!!」
「そうか…城之内。お前も闘っているのだな…」
「お前等が目の前にいるだけで…意識が浮上して来やがる…! 何でコイツは大人しくしてねーんだ…!!」
「今…助けてやるからな…城之内」
時計台に寄り掛かってガクガク震える身体を何とか立たせている、もう一人のオレ。全く会話が成り立っていない、別の世界から来た二人のオレ達の話を聞いて、オレと恋人の海馬は漸く合点がいった。
アレは…あの大人のオレが苦しんでいるのは、押し込められたもう一人のオレの本当の意識が、自分の身体を取り戻そうと抵抗しているからなんだ。その為潜り込んだ影は押し返され、まるで蛇のようになって身体から漏れ出ている。何とか身体の中に戻ろうとしても、それを阻害されて戻る事も出来ず、ただ身体の外側に纏わり付いているだけなんだ。
あの悪意の固まりである影が『海馬瀬人』という存在を消そうと躍起になっている理由が、身に染みて分かった。
駄目なんだ。きっと駄目なんだろう。どんなに強大な力で相手の意識を封じようとしたって、目の前に海馬が立っているだけで駄目なんだ。
だって城之内克也は海馬瀬人を愛しているから。何があろうと、どんな事が起きようと、海馬を愛して止まないから。海馬がいるだけで、それだけで闘う力と勇気が湧いてくるから。
だから駄目なんだろう。海馬が生きているだけで、あの影は完全に『城之内克也』を支配する事は出来無い。きっと永久に出来無いに違い無い。
それがオレにはよく理解出来た。もし自分があっちの立場だったら、きっと同じように必死に抵抗するに決まってるから。だって海馬が目の前に居て、何もしないでぼーっと助けを待つだけなんて…そんな情けない事は絶対出来無いし、ましてや操られた自分の身体で海馬の事を傷付けるなんて事…何があっても許せる筈が無い。
でもアイツは乗っ取られた直後、自分の意志に反して海馬を酷く傷付けてしまった。その事がどんなにアイツの心をズタボロにしただろう。SS+レベルという強大な能力者であるプライドと、そして愛する人を自らの力で傷付けてしまったという後悔と、それを抑止する事が出来無かった悔しさと情けなさと…。
大人のオレの気持ちが、直接オレに流れ込んで来るようだった。それくらい、オレはアイツの気持ちが理解出来た。
「馬鹿だな、あの影は…。オレ達を殺そうとする行為そのものが、余計に城之内の心に火を付けた事に気付いていないのか」
フラフラしている大人のオレをじっと見詰めながら、恋人の海馬がボソリと口に出した。その言葉にオレは無言で頷く。
そうだ。あの影はいつまでもしつこく抵抗を続ける大人のオレの意識を完全に押し込める為に、その原因となっている海馬瀬人という存在を消そうとした。だけどそれが逆に、力を失いかけていた城之内克也の意識に火を付けてしまったんだ。もう二度と海馬を傷付けたくないという気持ちが、ここまでしっかりと伝わってくる。
「殺す…! 絶対殺す…!! この身体はオレのものだ…!!」
蹌踉めきながら、大人のオレは身体全体に紅蓮の炎を点した。両手に炎で出来たシミターを作り出しギュッと握り込む。ゼェハァしながら構えを取るもう一人のオレの前に、大人の海馬は無言でゆっくりと近付いていった。そして自分も同じように青白い光を放ち、右手に光で出来た細長い片手剣を作り出して掴んだ。
「今…楽にしてやるぞ、城之内」
「ほざけ………っ!!」
静かな声で淡々と話しかけた海馬に大人のオレは激高して、地面を蹴って高く飛び上がった。一瞬の出来事に面喰らったけど、隣にいる海馬が「上だ!!」と叫んだのを聞いて慌てて視線を上げる。夏の星座が輝いている夜空に、真っ赤な炎に全身を包まれたもう一人のオレがそこにいた。
「海馬ぁ―――――――――――っ!!」
大声で叫んで、右手に持っていたシミターを大人の海馬に向かって振り下ろした。それを冷静に見据えた海馬は、ぐっと腰を下ろして片手剣を振り仰ぐ。そして上空から叩き付けられたシミターの刃を光の刃で受けきった。
「ぐっ………!!」
「こっ…のっ…! 死ね…っ!!」
飛び上がった勢いがある分だけ、海馬の方が少し押されている。ズザザッ…と二メートルほど身体が後ろに押されたけど、それでも海馬は倒れる事なく何とか踏ん張る事に成功した。
勢いを受けきった海馬が、逆に力を込めて相手の身体を押し返す。そして空中で中途半端な姿勢のままだった相手が蹌踉めいたのを見過ごさず、長い足を振りかざして強烈な後ろ回し蹴りを放った。蹴りは見事に『オレ』の腹に決まり、その身体はまた空中へと飛ばされる。大人のオレは慌てて重力操作の能力を使い、空中でフワリと一回転をすると時計台の上に足を下ろした。だけどやっぱり蹴られた腹が痛かったらしくて、片手で鳩尾を押さえながらガクリと片膝を着く。
「っ………うっ…!」
苦しそうな呻き声を上げて、ハァハァいいながら海馬を睨み付けている大人のオレ。そんなもう一人の自分を見ながら、オレも息苦しくなってきた。
………何て言うか、蹴られたのはオレじゃ無いんだけど…。何故だか自分が蹴られたような気がして、オレも何となく自分の腹を押さえてしまった。別に痛くも何とも無いんだけどさ。隣でチラリとオレを見遣った、恋人の海馬の目付きが微妙で居たたまれなかった…。
「闘っているのはアイツ等であって、オレ達では無いぞ」
「わ…分かってるよ…」
「だったら黙って見守ってやるのだな」
「それも分かってるけど…さ。それにしたってあの蹴り…強烈過ぎるだろ。アイツ本当に大人のオレを救いたいと思っているのか?」
「思っているのだろう? だからあの蹴りだったのだろうが」
「だからあの蹴りだったって、意味が分からないんだけど…。つーかあの本気蹴りじゃ、助ける前にむしろ死ぬ可能性もあるんじゃね?」
「大袈裟だな。あのくらいでは死にはしない。ちゃんと急所は外している」
「マジでっ!?」
「オレが言うのだから間違い無い」
目の前では相変わらず激しい闘いが続いていた。夏の夜空に青白い光と真っ赤な炎が飛び散る様は、いっそ幻想的ですらあったけど…オレはなかなか集中する事が出来無かった。
だって何か今…滅茶苦茶怖い事を聞いたような気がする…。アレが急所外ししてる蹴りなんだったら、コイツが本気になった場合の蹴りってどんなんだろうな?
隣の海馬はしっかりと腕組みをして、真剣な表情で二人の闘いを見守っている。その横顔をチラチラと見ながら、オレは密かに冷や汗を垂らしていた。
今もそうだけど…。ていうか、今まさに目の前で繰り広げられているから嫌でも分かるんだけど…。オレは絶対にコイツを本気で怒らせるような事はするまいと、深く心に誓った。だってそれ程までに、目の前で繰り広げられている闘いは凄まじかった。これが相手を『救う』為の闘いだなんて、知ってても信じられないくらいだ。どう見たって真剣勝負の殺し合いにしか見えない。
「これ…どっちかが死ぬんじゃねーか…?」
ついつい心配になってそんな弱気な事を言ったら、黙って闘いを見守っていた海馬がじろりとオレの事を睨んだ。そして「お前は信じていないのか?」と小さな声で問いかけて来る。
「信じて…?」
「そうだ。アイツ等の事をだ」
「………」
「ちゃんと言っていただろう。生きて皆で幸せになると。そう覚悟を決めていただろうが」
「うん。それは…そうだけど…」
「ならば余計な心配などせずに、黙って信じて見守っていれば良い」
「………。そう…だな。うん、そうだ」
「………」
「ゴメン。オレちょっとビビッてた」
「分かればいい」
淡々と語る海馬は、全く動じていなさそうに見えた。腕組みをしたまま、キツイ眼差しで上空を睨み付けている。実際はオレと同じようにビビっていたのかもしれないし、不安に思っているのかもしれない。でも海馬はそれを少しも表に出そうとせず、ただ黙って成り行きを見守っている。それが海馬なりの、アイツ等への信頼なんだなぁ…と思ったら、信じ切れていなかった自分を恥ずかしく思った。
「大丈夫。きっと大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように呟いて、もう一度夜空を見上げた時だった。ふいに空中で闘っていた大人のオレと目が合った。
ドクンッ…と心臓が大きく跳ね上がって、頭が急激に熱くなる。まるで見えない何かに警告を貰ったかのようだった。
「そこ…か…!!」
「えっ………?」
「そこにも居たか!! 海馬ぁーーーっ!!」
正面から切りつけて来た大人の海馬を横目で睨み付け、青白い光の剣先を炎を纏わり付かせた左手のシミターで軽くなぎ払い、もう一人のオレは空中を蹴ってこっちに飛んで来た。
ほんの一瞬の出来事。だけどオレはその一瞬で、『オレ』が何をしようとしているのかを悟った。案の定、大人のオレは右手のシミターを握り締めて、オレの隣に立っている海馬に向かって振り下ろそうとしている。
「なっ………!?」
「や、止めろ城之内!!」
二人の海馬が同時に叫ぶ。オレは叫ぶ事すら出来無かった。だって言葉を放つ余裕なんてこれっぽっちも無かったから。そんな悠長な事してる暇があるんなら、一歩でも動いた方がいいに決まってる。
オレは一瞬で海馬の前に立ち塞がって、振り下ろされた炎の剣を両手で受け止めた。
「「城之内っ!!」」
前面と背後から、同時に名前を叫ばれる。
本当だったら熱くて痛い感覚がオレを襲う筈。だけどそんな感覚を感じる事は一切無かった。何故ならオレは…。
「な、何…っ!?」
「なぁ…おい、こんな事しても無駄だぜ…?」
「何だと…っ!?」
「お前がこっちに逃げて来たお陰で、どうやら能力がシンクロしちまったらしくてなぁ…。お前程じゃ無いけど、オレにも使えるようになったんだよ…」
「な…んっ…!?」
「お陰で痛くも痒くも無いぜ? お前を倒す事は出来無くても、こうして足止めする事くらいなら余裕で出来るんだからな…。全く…超能力様々ってところか?」
今オレは、目覚めたばかりの自分の超能力を発動していた。掌全体に炎を灯らせ、その掌で紅蓮のシミターを受け止めた。
確かに重い衝撃はあった。だけど炎で焼かれて火傷をする事も、それに切られて血を流す事も無かった。オレの掌を覆った炎が、大人のオレが作り出した炎を上手く中和していたからだ。それはオレ達が同じ『城之内克也』だという証明でもあった。例え違う世界に生まれ、今までを生きて来たとしても、オレ達は『城之内克也』にしかなり得ないって事なんだ。
「『お前』は『オレ』にはなれない…」
不良時代に鍛えたドスの効いた低い声で言葉を放つ。
「どんなに必死になったって、『オレ』は『オレ』でしか無い。他の誰かが成り代わる事なんて、出来やしないんだ。なぁ…そうだろ? もう一人の『オレ』?」
ニヤッと笑ってそう言ってやれば、目の前の『オレ』は酷く驚いて顔を引き攣らせた。だけど次の瞬間、汗まみれの顔で口元を歪ませて、ニヤリと微笑む。そして苦しい息の下から「あぁ、その通りだ」と自信有りげに呟いた。それはこの身体の持ち主である本当の『城之内克也』が出て来た瞬間でもあった。
「悪いな…。全然関係の無いお前達に…手伝われてしまったな…」
大人のオレの身体を覆う影は、いつの間にか凄い事になっていた。身体の表面を殆ど覆うかのようにうねる影に、まだ完全に自由を取り戻した訳じゃ無い事が知れる。大人のオレはヨロヨロと数歩後ろに下がると、重たい身体を何とか踏ん張って振り返った。そして背後で真っ直ぐに立ち尽くしている大人の海馬に向かって手を伸ばす。
「海馬…悪い。戻って来るの…ちょっと遅れちまったな…」
「何がちょっとだ。大分遅いぞ」
「ははは…そうだな。相変わらず…厳しい奴だなぁ…」
「………」
「どうすればいいのか…分かっているな?」
「………あぁ」
「ちゃんと…出来るな?」
「勿論だ」
もう一人のオレは海馬の言葉を聞いて、ふぅっ…と安心したように微笑みその場にガクリと膝を着いた。その様子を大人の海馬は黙って見詰め、そして右手に青白く光る片手剣を携えたままゆっくりと近付いて来た。そして『オレ』の前にしゃがみ込み、そっとその身体を抱き締める。恋人を労る優しい手付きに、それを見ていたオレは何だか泣きたくなって来てしまった。
大人のオレは海馬の腕の中で、すっかり安心したように目を閉じている。海馬は広い背中を二度三度撫でて、そしてその場所に光の剣の切っ先を当てた。
少し離れた所で、漠良が真剣な顔をして見守っているのが目に入って来る。だからオレは何も心配しなかった。青白い光の剣が、大人のオレと海馬の二人分の身体を真っ直ぐに貫いても、希望を失わずにいる事が出来たんだ。