夜の十一時を越えるくらいの時間になって漸く全ての話が終わり、大人の漠良は「取り敢えず一旦帰るね」と言って部屋を出て行った。多分こっちの漠良のところに帰ったのだろう。
その後残された三人で軽い食事を摂り、順番に風呂に入った後は休む事になった。と言っても、オレの家には客用布団が一組分しか無い。どうしよっかな…と悩んでたら、大人の海馬がフワリと微笑んで「オレはいい」と言い出した。
「毛布は一枚余っているか?」
「あぁ…。それくらいならあるけど」
「ならそれでいい。どっちみちオレは余り深く眠るつもりは無い。いつ城之内の襲撃があるか分からんからな…」
「………海馬…」
「オレはここにいる。お前達は寝室でゆっくり休むがいい。今日はあんな事があって、精神的にも疲れているだろう? 今夜はもう眠った方がいい」
そう言って、海馬はオレから受け取った毛布を羽織って居間の畳の上に座り込んだ。そして壁に背を預けて目を瞑る。
一見静かに眠っているように見えても、その神経が常に外に向いている事はオレ達にも感じられた。そんな大人の海馬に何か言いたそうな恋人の海馬に目配せして、オレ達はそのまま寝室に戻って襖を閉めた。
海馬がもう一人の自分を心配する気持ちも分かる。オレだって心配だ。オレ達も確かに疲れているけど、実際にもう一人のオレと戦った海馬はもっと疲れているだろう。例えそれがほんの一瞬の接触であっても…。
別の世界から来た海馬と影に取り憑かれたもう一人のオレが剣を交えた時間は、本当に一瞬の出来事だった。でもその一瞬の間に、二人は本気で命の遣り合いをしていた。少しでも力を抜いたら、ほんのちょっとでも視線を外したら、間違い無く相手に殺されていたに違い無い。まさに緊迫した状況。そういう意味では、神経を磨り減らしたのはアイツであって、オレ達では無い。
でもオレは、安易に大人の海馬に「お前の方こそゆっくり寝ろよ」なんて言う事は出来無かった。だってそれがアイツの責任の取り方であり決意だったから。そして、あの海馬じゃないと対応出来ない事も知っていたからだ。
もしもう一度大人のオレの襲撃があった場合、頼りになるのはあの超能力者の海馬ただ一人だけだ。一般人であるオレ達に、SS+レベルの超能力者に立ち向かう術は無い。だからこそ、ここは大人の海馬に頑張って貰わないといけないんだ。
寝室に入り、これまで大人の海馬が使っていた客用布団に海馬が潜り込んだのを確認して、オレは部屋の電気を消した。ただ、いつ何が起こってもいいように暗闇にしない事にする。オレンジ色の常夜灯だけを残して、オレは自分の布団に横になった。
狭い四畳半が、仄かなオレンジ色の光で照らされている。オレも海馬も起きてはいたけど、会話をする事は無かった。二人揃って暫く黙ったまま、別々の方向を向いて考え事をする。やがて十分くらい経った頃だろうか。海馬がゴソリと動いて、身体をこちらに向けるように寝返りを打った。そして青い瞳をすっと開いて「城之内」とオレの名を呼ぶ。
「何だ? 眠れないのか?」
顔を海馬の方に傾けてそう答えてやれば、海馬はコクリと頷く。
「そっちに…行ってもいいか?」
「うん…って、うえぇっ!?」
「駄目なのか?」
「だ、駄目っていうか…! 隣にもう一人のお前がいるのに、お前一体…!?」
「………は?」
「あ…いや、分かって無いならいいです…」
キョトンとしている海馬の顔を見て、どうやら誘いを掛けてきている訳では無いという事を知る。半分ガッカリし、半分安心しながらオレは自分の掛布を捲って手招きをした。
その合図に海馬はゴソゴソと客用布団を抜け出して、素直にオレの布団に入ってくる。そしてピッタリとオレにくっ付いて来た。密着してる海馬の身体から熱が直に伝わってきて、妙にドキドキする。洗いたての髪からシャンプーの良い香りが漂って来て、その匂いに夢中になった。
自分が使っている安いシャンプーの筈なのに、海馬の髪から漂ってくるその香りはいつもと全く違うように感じられて、不思議な気分になる。
しっとりとした栗色の髪の毛を優しく撫でながら、海馬に気付かれないように髪の毛にキスを落とした。その途端、胸が温かい気持ちで一杯になる。オレは本当にコイツの事が好きなんだと言う事を、切に感じていた。
「………海馬?」
そのまま海馬の頭を撫でたり、背中を擦ったりしていると、不意にオレの背に海馬の細い腕が回されて強く抱きつかれる。突然の行動に少し面喰らって呼びかけても、海馬からの返事は無い。だけど、オレを抱き締めている腕がほんの少しだけ震えているのを感じ取って、海馬の行動の理由を何となく悟った。
注意深く感じていないと、全く分からない程の震え。だけど確実に感じるその震えは、間違い無く海馬が恐怖を感じているんだって事をオレに教えていた。
「………怖い?」
試しに小さな声で問い掛けてみれば、少し時間を置いてから海馬がオレの胸元でコクリと頷いたのを感じる。無理も無い事だと、オレは海馬の身体をしっかりと抱き締めた。
大人のオレの襲撃後、海馬は実に気丈に振る舞っていた。今まで考えもしなかった不思議な現象に多少驚いたり訝しんだりしてはいても、恐怖を感じているようには全く見えなかった。それどころか、大人の海馬が考え出した作戦の内容を読み取り、得意げにそれを披露してみせたりしていた。
あの作戦会議の後、この海馬も例の協力要請には快く承諾している。だから誰も気付けなかったんだ。海馬が本当は…恐怖を覚えていた事を。
「オレも怖いよ…海馬」
海馬の震えに全く気付かないように、だけどその震えを止めるように恋人の身体を強く強く抱き締める。
怖いのはオレも同じだ。自分の事よりも何よりも、お前に被害が及ぶ事が何より怖い。だから出来れば巻き込みたくなかった。オレの協力だけで済むなら、それで終わらせたかったのに…。
「いくらアイツ等が大丈夫だって言っても、やっぱり怖いもんは怖いよな。悪意の固まりである影に取り憑かれるなんて…考えただけでもゾッとする」
「城之内…」
「それにオレは、お前にそんな恐ろしい目に合わせるのも嫌だ…っ。オレが怖いのは…何よりお前を失う事なんだよ…海馬」
「………それはオレも同じだ…」
「海馬…?」
「お前の事が…好き…だからな。だからオレもお前を失うのは嫌だ…」
「かい…ば…」
好き…と、オレの腕に抱かれながら海馬はハッキリとそう言った。その言葉が嬉しくて嬉しくて、オレはついギュウギュウと海馬を強く抱き締めてしまう。海馬は「苦しい」と文句を言っていたけれど、それでも抵抗するような事はしなかった。
「好きだよ…! オレも好きだ…!」
「あぁ…」
「だからやっぱりさ…幸せになろうよ。城之内克也と海馬瀬人は幸せにならなくちゃならない」
「城之内…?」
オレの言葉に不思議そうに首を傾げた海馬に、オレはこの間の事を話して聞かせた。
この間海馬がオレの家に訪ねて来た時、そこには大人の海馬がいた事。そしてオレ達の会話を全て聞いていた事。それでもオレ達を信じて、黙って口を挟まないでいてくれた事。そしてあの後、自棄になったオレを落ち着かせてくれた事…。
「あの時な…。アイツ…変な事言ってたんだ」
「変な事?」
「やっぱり自分ともう一人のオレは、幸せになれないんだな…みたいな事をちょっとな…」
「………それは…」
「うん。今ならオレにもよく分かるよ。あの時のアイツは、影に取り憑かれたオレの事で絶望していたんだ。そして多分…もう一人のオレを殺す気でいたんだろうな。相打ちを狙うとかそういう話は、後から出て来たんだろう」
「あぁ…そうなんだろうな。恋人でもあり師でもある相方が、自分の所為で影に取り憑かれてしまった。だからこそ、自分が全ての責任を負って片を付けなければならないと考えていたのだろう…」
「お前はアイツの考えが理解出来ていそうだな」
「そうだな。もう一人の自分だけあって、奴の考えている事は手に取るように分かるぞ」
「そうか。でもオレには理解出来ない。何で生きて幸せになろうとしないんだろう…。絶対もう一人のオレだって、そう考えてるに違い無いのに」
「城之内…」
「アイツ…あの大人のオレは、きっと今も頑張っていると思う。影に意識を抑えつけられながらも、それでも何とか身体を取り戻そうと足掻いているに決まってる。絶対に生きて海馬と幸せになりたいって、思ってるに違い無いから…!」
「………っ!」
「だってそうじゃなかったら、海馬の姿を見て影の意識がぶれるなんて事有り得ない。アレは海馬と幸せに生きたいっていう、大人のオレの叫びだよ…!」
そうだ、オレには分かる。海馬がもう一人の海馬の気持ちが理解出来るように、オレにはアイツの心が理解出来る。アイツは…大人のオレは、生きたがっている。絶対死んでもいいなんて思っていない。生きて海馬と幸せになりたいって思ってる。
その気持ちを…オレは守ってやりたいと思った。あの大人のオレと海馬を、今のオレ達のように幸せにしてやりたいと心からそう思う。
「なぁ…海馬。オレは誰も死なせたくないと思っている。オレもお前も、それにあっちの人達も誰も死なせたくないんだ」
「………あぁ」
「だから闘おうな。オレ達も頑張って闘おうな。どんなに怖くても…頑張ろうな。オレ…絶対に負けたくないんだ」
「勿論だ。オレもそう思っている」
あんな影なんかに絶対負けたりはしない。
そう二人で強く誓い合って、目を合わせてニッコリと笑い合った。隣の居間にはあの大人の海馬がいる。こんな狭い家の事だ。オレ達二人の会話は丸聞こえだろう。それでも構わない。いや、その方が都合が良い。
聞いたか? なぁ、ちゃんと聞いてたか…海馬。オレ達も闘うぜ。絶対に逃げたりしない。オレ達と…そしてお前達二人の幸せの為に、全力で闘ってやる。それがオレ達の決意だ。
夜が更けていく中、オレと恋人の海馬は強く抱き締め合ったまま一つの布団で眠り込む。眠りに落ちる前に、二人で頷き合って一度だけ…触れるだけのキスを交わした。それがオレと海馬の、決意の表明だった。
もっと深いキスだって、更にその先の行為だって、そりゃしたかったさ。でも今はしない。する必要が無い。海馬と結ばれるのは…全てが終わってからでいい。
オレもお前も…そして大人のアイツ等も全員生き残って、お互いに幸せになってからでいいんだ。
だってそれが、城之内克也と海馬瀬人の幸せなんだからな…!!