あの夏の日の君へ(完結) - 見守ってみる - 第十六話

 公園の街灯に照らされて、その男は立っていた。
 荒れた金色の髪に闇夜に光る琥珀の瞳。今のオレよりずっとタッパがあるし、がっしりとした身体付きをしている。オレもそれなりに鍛えている方だと思ってたけど、大人だけあって向こうの方がもっとずっと逞しい事は簡単に見て取れた。
 そうだ…見間違える筈が無い。アイツは…アイツはまさしく、大人になったオレ自身だった。

「城之…内…?」

 オレに支えられて立っていた海馬が、信じられないような声を出す。そして目の前に立っている大人のオレと、すぐ隣で身体を支えているオレの顔を何度も交互に確認していた。

「城之内が…二人…? これは一体どういう事なのだ…?」
「………」
「城之内…?」
「ちゃんと説明してやりたいけど…今は無理だ」

 支えている海馬の肩をしっかりと抱き寄せる。その肩が細かく震えているのを感じ取って、海馬もオレと同じく恐怖を感じているのだという事が分かった。
 オレが恐怖を感じているのは、目の前にいるもう一人のオレの正体を知っているからだ。対して海馬はその事を全く知らない。それでも身体が震えているのは、本能が無意識に恐怖を感じているのだろう。多分、本人さえ知らない内に目覚めた超能力の所為で、相手の力量を身体全体で感じ取ってしまっているのかもしれない。

「海馬…? どうしたんだ? オレだよ…」

 全く身動きが出来なくなってしまったオレ達に対して、不敵に微笑んでいた大人のオレは暢気な声でそんな事を言ってきた。そしてジャリッ…と足底の砂を鳴らして、また一歩オレ達に近付く。

「っ………!!」

 その途端、とんでも無い威圧感を感じた。目には見えないけど、分厚い壁が迫ってくるようなイメージが脳裏に浮かぶ。
 危険だと思った。本能で感じる。この存在は、途轍もなく危険な物だ。

「海馬…」

 海馬の身体を自分の身体の後ろに下げながら、オレは恐怖で震える声で海馬の名を呼んだ。それに対する返事は無いが、海馬がオレの声に反応した気配を感じ、オレは前面と背後に交互に気を配りながら口を開く。

「携帯…持ってるだろ?」
「あ…あぁ…」
「それでオレん家に電話してくれ。メモリー入ってるよな?」
「お前の家…? 携帯では無くてか?」
「そうだ。オレん家の家電の方だ」
「だが…」
「誰が出ても出なくても構わないから、早く掛けてくれ…!」

 オレの言葉を受けて、背後の海馬は慌てたように携帯を取り出し、フリップを開いてカチカチと弄る。オレん家の家電の番号を呼び出す事に成功した海馬が携帯電話を耳に当てるのを感じ取りながら、それでもオレは目の前の男から全く目を離せずにいた。というより、目が離せなかった。少しでも目を離したら、その隙に二人揃って殺されてしまいそうな気がしてならない。

 それだけの恐怖が、そこにはあった。

 黙って立っているだけなのに、冷や汗がダラダラと流れてくる。背中も脇の下も、もう既にグッショリだ。
 もう一人のオレは、街灯の下でずっとニヤニヤ笑っている。闇夜でもハッキリ見える琥珀色の瞳が、信じられない程に濁っているのが確認出来た。あの大人のオレが、正気では無い事が一目で分かる。
 背後の海馬は何も言わない。ただ真っ青な顔をして携帯電話を耳に当てていた。多分誰も出ないんだろう。あの家には今二人の人間がいるけど、家主でもないのに勝手に電話に出たりする筈無いだろうからな。
 でもオレはそれに掛けていた。鳴り続ける呼び出し音に、あの二人が何かを感付いてくれればいいと…。
 そんなオレの思惑を嘲笑うかのように、目の前のオレはずっと厭らしい目付きでこっちを見ている。まるで「そんな事しても無駄なのに」とでも言いたげだ。クスクス笑いながらソイツはまた一歩近付いて来て、スッとこちらに手を差し出す。

「海馬…。オレ本当にずっと捜してたんだぜ? 今までどこにいたんだ…? こっちに来いよ」

 優しい口調。でもその言葉に何の感情も含まれていない事はすぐに分かる。ジャリッ…と砂を踏む音がまた聞こえて、オレは堪らず海馬の腕を引っ掴んで公園の反対側に走って逃げようとした。だけどその途端…。

「ぐっ………!?」

 急激に身体が重くなってその場に跪いてしまう。立上がろうとしても身体全体がまるで鉛になってしまったかのようにビクともしない。冷や汗をボタボタと垂れ流しながら、オレは頭の片隅で大人の海馬との会話を思い出していた。
 別世界から来たもう一人のオレの能力は、非公式を含めて五つ。一つ目は炎、二つ目は重力操作、三つ目は時空系能力、四つ目はヒーリング能力、そして非公式の五つ目がラック能力だった筈だ。今オレの身体が異常に重たくなっているのは、この二つ目の重力操作系能力に寄るものだろう…。
 まったく、厄介な超能力だ。愛しい人を連れて逃げ出す事も出来無いなんて…!

「城之内…っ!?」

 オレの異常に気が付いて、海馬が傍らに膝を付いて顔を覗き込んでくる。オレと同じように地面にへばりついていないところをみると、どうやら海馬にはこの能力は使われていないらしかった。

「海馬…っ。逃げ…ろ…っ!」
「城之内…っ。これは…一体…何が起こっているというのだ…!」
「質問は後にしろよ…! 狙われてるのはお前なんだ! 早く逃げろって…!!」
「だが…っ!!」

「逃げられないよ?」

 オレ達の会話に割り込んで来たその声に、ゾクリと背筋に悪寒が走る。
 一見優しく聞こえる猫なで声。だけどその声には悪意が詰まっていた。
 アレは…オレじゃない。オレの声だけど、オレじゃない。アレは、大人のオレの身体を操って喋っている『影』の声なんだ。

「ずっと…ずっと…本当にずっと捜していたんだよ…。海馬、お前を」

 その恐ろしい声に思わず振り返ってしまって、オレと海馬はもう一人のオレを凝視した。影に乗っ取られたオレは、両腕を左右に広げてニタリと笑っている。そしてその両手が何か明るい光に包まれた。
 それは炎だった。赤く激しい、紅蓮の炎だった。
 両手に炎を纏わり付かせ、やがてそれがゆっくりと形になっていく。そしていつのまにか、炎によって作り出された湾曲した形の双剣が、左右の手に握られていた。一般的にシミターと呼ばれるその刀は、あの大人の海馬が作り出した片手剣よりはずっと短い剣だ。長さ的には半分くらいしか無いだろう。でも片手でしっかり握られるサイズのそれは、あの長い剣よりずっと軽そうだし、何より機敏に振る事が出来そうだった。

 あぁ、そうだよな。『オレ』の性格なら、間違い無くそっちを選ぶよ。

 命の危機に瀕していると言うのに、何だか妙に納得してしまう。

「随分と捜したんだぜ…海馬。お前を殺す為にな」
「コイツはお前が捜している海馬とは違う…! 間違えるな…!」
「間違えているのはお前だろ? 一体オレが何の為に、こんな辺鄙な世界まで逃げて来たと思っているんだ」

 オレの言葉にもう一人のオレは、さぞ意外そうな顔をしてそう答えた。

「あの世界にいたら、地の果てまで逃げたとしてもオレはいずれ殺されてしまっただろう。だからこそ、コイツの身体を乗っ取れた時は本当にラッキーだと思ったんだ」
「っ………!」
「こんなに強い時空移動の能力なんて、早々お目に掛かれるものじゃないからなー。コイツの能力を使って、超能力者なんて厄介な奴らが一切いない世界に逃げて、あとはノンビリ平和に暮らそうと思ったのになぁ…。それなのに、逃げ切る直前に海馬が付いて来ちゃってさ…。本当にツイてねーよ」
「何がノンビリ平和にだよ…。どうせこっちの世界でも、好き勝手しようと思ってたんだろ…!」
「当たり前だろ? だってそれが『影』の本質なんだから」

 恐ろしい事を口にしながら、大人のオレ…いや『影』は全く表情を変えない。
 そう言えば海馬が言ってたっけ…。影は悪意の固まりだって。多分人間らしい思考とか、常識とか、感情とかは何一つ通用しないんだろう。
 どんなに鋭く睨み付けても、影は一向に引こうとはしない。それどころか、余裕な笑みをますます深めていくだけだった。

「あのな、ぶっちゃけこっちの世界のオレなんてどうでもいいの。オレがしなくちゃいけないのは、オレを追いかけて来た海馬を殺す事なんだからさ」
「だからさっきから言ってるだろ…! コイツはこっちの世界の海馬だよ! お前が捜している奴とは違うんだ…!!」
「お前こそさっきから何を言っているんだ。こっちの世界の海馬なら、何で能力を感じる事が出来るんだよ?」
「………なっ…」
「どんなに隠そうとしたって無駄だぜ? ほんの僅かだけど、能力の欠片が零れ落ちてる。強い超能力者であるこのオレの目に、それが見えないとでも思っているのかよ」
「だから…だから違うんだ…! それは誤解なんだよ…!!」

 多分影が感じている能力は、海馬が大人の海馬とシンクロしてしまった為に目覚めてしまった超能力に違い無い。
 ほんの少ししか目覚めていない能力が、より自体を悪い方向へと導いてしまったんだ。

「お前が何て言おうと、コイツは違うんだよ! それに良く見れば分かるだろ…!! 年齢が違うじゃねーか!!」
「年齢…? あぁ、人間の生きた年月の事か。悪いけどそんな物には興味が無いから分からないな。『オレ達』は人間を気配で見るし」
「え………?」
「とにかくさ、ソイツに生きてて貰っちゃ困るんだよ。だってさー、いつもだったらとっくに明け渡されてもいい筈の意識が、今もまだ抵抗を続けてるんだぜ?」

 右手に握っていたシミターを器用にクルクルと回しながら、大人のオレは意外な事を口にした。

「何かにつけて『海馬、海馬』って…煩いんだよ。ソイツの事を思い出しては、自分の意識をまだ確立してやがる。全力で押さえ付けておかないと、すぐに身体持って行かれそうになるしな」
「………」
「こんな意志の強い身体は、オレも初めてだ。…で、な? オレは気付いた訳よ。コイツの意識が強いのは、海馬がいるからなんだってな。だからオレは海馬を消す事にしたんだ。勿論オレとしても、自分を付け狙う海馬なんていない方が都合が良いから願ったり叶ったりって訳。分かる? オレの為にも、海馬は死ななくちゃいけないんだ」
「ふざ…け…んな…!」
「何と言われようとも、オレには何の関係も無いし。だからさ、今から海馬殺すから」

 クルクルと回していたシミターをパシッと掴み直して、影に取り憑かれたオレはゆっくりとこちらに歩いてくる。
 強大な力を持ったもう一人のオレ。ランクSS+の超能力者相手に、オレはどこまで立ち向かえるんだろう。超能力に目覚めたとは言っても、出せる炎はマッチの先くらいしか無いというのに…っ!!
 それでもオレは逃げようとは思わなかった。それどころか、この脅威に真っ向から立ち向かう気満々だった。

「海馬を…殺すだって…? 巫山戯るな…っ!!」

 グッと身体の中心に力を入れて、身体全体を覆う重力に精一杯抵抗する。そうすると、自分を覆う見えない何かにピシリとヒビが入ったような気がした。

「殺されて…堪るかよ…! コイツは…海馬は…オレの恋人だ!! オレが守るんだ!!」

 ビシビシビシッ…と、何かに亀裂が走る。そして…。

「オレの恋人に…海馬に近付くなぁーっ!!」

 腹の底から叫ぶと同時に、バリンと何かが破裂して、そして身体が急に軽くなった。目の前の大人のオレが驚愕の表情になり、一瞬だけ動きを止める。その隙を見逃さず、オレは奴に向かって走り出した。手を伸ばして、両手に握られていたシミターの刃を掴む。炎で出来たそれは掴んだ瞬間にジュウゥゥッ…と嫌な音を起てたけど、オレは全く痛みも熱さも感じなかった。まるで炎がオレを認めてくれたような…そんな感じがする。

「「城之内ーっ!!」」

 必死に大人の自分を睨み付けるオレの耳に、海馬の叫びが二重になって聞こえて来た。一つはオレの背後から。そしてもう一つは…。

「海馬…?」
「っ………!?」

「城之内―――――っ!!」

 呼ばれたのはオレか…それとも大人のオレの方なのか。
 それはハッキリとは分からなかったけど、見上げた夜空に青白い閃光が走ったのを見て、オレは至極安心したのだった。