団地を飛び出して全速力で公園まで駆けていく。街灯に照らされてた児童公園の入り口を潜ると、そこはシンとして静かだった。
昼間は子供達で賑わっている公園も、夜はこんなにも静かだ。誰も遊んでいない遊具、風に揺れる木々の葉。走ってきた為にハァハァと荒い自分の呼吸音だけが耳に入ってくる。口の中に溜った唾液をゴクリと飲み込んで、オレは公園の中央に立ちグルリと周りを見渡して見た。ざっと見える範囲に見知った影はいない。だけどオレは確信していた。海馬は絶対この公園の中にいると…。
ふと思い立って、オレは大きな遊具で影になっている公園の反対側の方を覗き込んでみた。この公園の中では比較的集中して植木がされてある一角に、ベンチが一つある事を思い出したのだ。そのベンチはあの日…、あの大人の海馬と初めて出会った時に彼を介抱した場所でもあった。
ジャリジャリと公園の砂地を踏んで回り込んでみると、そこにはオレの予想通りに捜していた長身がベンチに腰掛けているのが見えた。海馬は携帯電話を片手に持ち、少し項垂れるようにしてベンチに座っている。
「海馬…っ!」
大きな声で名前を呼んで小走りで近付いて行くと、海馬がゆるりと顔を上げてオレを見た。そしてふっ…と小さく笑みを零す。街灯に照らされたその顔は、いつにも増して真っ青に見えた。
「城之内…」
目の前に立ったオレの名を呼ぶその声も震えている。具合が悪いのを我慢して、声を押し殺しているのがオレにもよく分かった。
「よく…ここにいると分かったな…。何も言っていなかったのに…」
「うん。何となくな」
「そうか…」
「それよりも大丈夫か? 頭痛いんだろ?」
「大丈夫だ…」
そう言いながらも海馬は、自らの額に掌を当てて険しい顔をしている。
多分本気で酷い頭痛を感じているんだろう。さっきまでその痛みを感じていたオレには、その辛さがよく分かる。
「なぁ…。頭痛くなり始めたのっていつからだ?」
海馬の隣に腰掛けて、手を伸ばしてそっと頭を撫でてやる。そんな事でこの痛みが取れるとは思ってないけど、それでも少しでも楽になるようにと願って…。
何度も何度も髪を梳いてやりながらそんな風に訪ねたら、海馬は目線だけでチロリとオレの事を見返した。青い瞳がユラユラと揺らめいて、何かを言いたそうにしている。だからオレは空気を読んで、ここは自分の口から答えを出してやる事にした。
「もしかして、この間オレと会った時からじゃないの?」
「………?」
「な、そうなんだろ?」
「何故…そんな事が分かる?」
海馬の答えに、オレはやっぱり…と内心で溜息を吐いた。
これは間違い無く、海馬はもう一人の海馬とシンクロしてしまっているんだ。さっきまでのオレと同じ。目覚める筈の無い能力が急に目覚めて成長しようとしている。こっちの世界では超能力とかそういう便利な物は一切無いから、自分達の脳もそういう不自然な強い力に耐えられるように出来ていない。だから脳がパニックを起こして、強い頭痛を発してしまっているんだ。
「うん、ちょっと…ね。話せば長いんだけどさ」
「………」
海馬は非科学的な物が大嫌いだ。その海馬に、超能力だとか、違う世界の自分達だとか、悪意の固まりの影だとか、そんな事を上手に教えてあげられる自信はオレには無い。さてどうしようかなー…と悩んだ時だった。隣から突然白い手が伸びてきて、膝の上に置いていたオレの片手をギュッと掴んだ。力の入るその指を見て、顔を上げてその手の持ち主を見返す。
海馬は…至極真剣な目付きでオレの事を見詰めていた。
「城之内…」
「海馬…?」
酷い頭痛で辛そうに顔をしかめながらも、海馬は低い声でオレの名前をハッキリと呼んだ。
「この間は…済まなかった…。あんな…あんな酷い事を言うつもりは無かったのだ…」
「い、いや、あれは…! あれはお前が悪い訳じゃないよ…。それよりもオレの方が酷い事してんじゃん。あの時はゴメンな? あんな事をするつもりなんて、本当に無かったんだ」
オレの言葉に海馬がフルフルと首を横に振る。頭痛を我慢している所為なんだろう…。こめかみや首筋から流れる冷や汗が量を増して、白い肌を濡らしていた。
「実はあの日の数日前…、オレは部下からある報告を受けていた」
「報告?」
「オレに良く似た人物が、貴様の家に出入りしていると…な…」
「………っ!?」
海馬の言葉に本気で驚いた。
オレは大人の海馬の行動については、一切関知していない。だからアイツがどういう風に行動して、どんな風に家に帰って来ているかなんて事は全然知らなかったんだ。勿論あの海馬は、一応周りに気を使って目立たないように行動していたに違い無い。それでも全てを隠しきるのは無理だったんだろうな。
だって現にほら…見られてるし。
でも何で見られちゃったんだろう…? まさか…浮気調査とかされてたんじゃないよな!?
有り得ない予感に一人で焦っていたら、海馬がオレの表情からオレが今何を考えているのか読み取ったらしい。重ねていた手をもう一度強く握り締めて来て、フルリと首を横に振った。
「オレの部下がそれを見たのは、全くの偶然だった…。たまたまこの近くに知り合いが住んでいて、休日にその人を訪ねた帰りに目撃したらしい」
「偶然…?」
「お前の家に入って行く人物が、余りにオレにそっくりで驚いたらしい。その頃オレは既にアメリカに行っていたから、ではあれは誰なんだ…という事になってな」
「あぁ…なるほどね…」
「その報告を受けたのは日本に帰って来てからだったのだが…」
「それが気になったんだな」
「………」
「だからオレの家に直接確かめに来たんだな」
「………そうだ。勿論その前から訪ねるつもりではいたのだが…」
海馬が額に手を当てながら、真っ青な顔をして頷いた。
あぁ…そうか、そうだったのか。それならあの時の海馬が、妙に苛々していたのが分かるような気がする。
気持ちの離れた恋人。自分とそっくりの人間がオレの家に出入りしているという事実。それなのに何も言わないオレ。そして大人の海馬と見間違った目線に気付いて…。
『貴様…。今誰か他の奴とオレを間違えただろう』
『今一体誰を思い描いた? オレがアメリカに行っている間に…いつ新しい恋人を作ったのだ!?』
『だから貴様は駄犬だと言うのだ! 誰か他の奴と一緒に過ごしている時点で、世間一般じゃそれを浮気と言うのだ…!!』
あの日の海馬の叫びが脳裏に甦ってくる。あの時はオレも苛々してて、海馬の本当の気持ちに気付けなかった。だけど今なら分かるんだ。アイツがどんなに悲しい気持ちで…そしてどんなに気持ちを焦らせてあんな事を言ったのか。
今まで見えなかった海馬の本当に気持ちが、今はこんなにハッキリと見える。
不安だったんだ。海馬もオレと同じくらい、不安に思っていたんだ…。
「ゴメンな…」
心からそう謝って、オレはそっと海馬の身体を抱き寄せた。その細い身体をオレの腕の中にスッポリ治めてしまっても、海馬は全く抵抗しようとはしない。それどころか、オレの肩口にポフッと顔を埋めてきた。その途端、フワリと何とも言えない良い香りがオレの鼻孔を擽る。その匂いと直に感じる体温が愛しくて、オレは栗色の髪の毛を何度も何度も優しく撫でた。
「海馬…ゴメン。不安にさせてゴメン」
「城之内…」
「でも、お前にそっくりな奴がオレの家にいる事は本当だ。それにも深い訳があるんだけど…」
「っ………」
「でも本当に浮気とかそういうんじゃ無いから…。だから安心してくれないか。色んな理由があるんだよ。お前にそっくりな奴がいる事も、お前が今感じている酷い頭痛の事も…」
「理由…?」
「うん。でもそれをオレの口から上手く言う自信が無い。やっぱり本人達から訊いた方が良いと思う」
「本人達…?」
「だから海馬、これから一緒にオレん家に来ないか? そうすれば全部分かるから」
「全部…分かるのか?」
「うん、分かる」
「本当か…?」
「本当だ」
海馬の質問に、オレはハッキリと頷いて答えた。揺らぐ海馬の青い瞳を真っ直ぐに見返せば、それだけでオレがどれだけ真剣なのかが海馬にちゃんと伝わったらしい。海馬は何度か瞬きをして、そして意志を決めたように瞳の光を強くする。そしてコクリと一つ頷いて「分かった」と答えた。
「よし。じゃあ行こう」
具合が悪い所為で上手く身体に力が入らない海馬を支えて、オレはベンチから立上がった。
家に帰ったら早速もう一人の海馬と、それから同じ世界から来た漠良に会わせてあげよう。そしてアイツ等の口から、今何が起こっているのか、どうしてこんな事になったのか、これから何をしなくてはいけないのか、そういう事を全てちゃんと話して貰おう。
いくら非科学的な事が大嫌いな海馬でも、実際に超能力を目の前で見せつけられれば、それを信じて貰えるに違い無い。
大丈夫。きっと分かって貰える筈。そして全ての話が終わったら、オレ達はきっと今まで以上に強く分かり合える筈だ。そうに違い無い。そういう自信がある。
そしたらオレはもっとずっと…今まで以上に海馬の事を好きになるに違い無い。それはどんなに幸せな事だろう。
それは幸せな予感だった。とても幸せで確信的な予感だった。
だから二人で公園の出口に向かって行った時、そこにまるでオレ達を待ち受けるように突っ立っていた人影に、ただ呆然とするしか無かった。
街灯の下に佇んでいた人影は、ジャリッ…と砂地を踏んで一歩だけオレ達の側に近付く。そしてクックック…と至極嬉しそうに笑い出して…口を開いた。
「あぁ…海馬…。やっと見付けた…」
今まで感じていた幸せな予感を全て粉々に打ち砕くような…恐ろしい声が辺りに響く。
その声には覚えがあった。大人になった所為か、オレの知っている声よりは幾分低いような気がするけど、でもよく知っていた。知り過ぎる程知っていた。
だってその声は…。
「待ってたんだぜ…お前に会えるのを…。オレはずっと待っていたんだ…」
その声は…オレ自身の声だったんだから。