あの夏の日の君へ(完結) - 見守ってみる - 第十四話

 海馬が一体今どこにいるのか。
 その質問を受けてから、オレは自分の携帯が気になって仕方無かった。ズリズリと這い出すように布団から出て、学生鞄の中に入れっぱなしだった携帯電話を手に取る。フリップを開けて待ち受け画面を見てみても、そこには着信履歴もメールの報せも何も入っていない。
 でもまぁ、それは当然の事だ。だって海馬は今アメリカに行っている筈なんだから。オレの事なんか忘れて、あっちで仕事してる筈なんだから…!!

「海馬は今…アメリカに…いる筈だ。確か仕事が忙しくて…暫く帰って来られないって、そう言ってた…」

 そうだ。一ヶ月の長期出張。思ったより長くなりそうだからっていうんで、この間一時帰国してきたばっかりだった。だから今は、間違い無くアメリカにいる筈。なのに何故…こんなに心が落ち着かないんだろう。心臓がドキドキしてるんだろう…。

「そっか。それなら安心かなー。流石にあの城之内君でも、海渡ってアメリカにまでは行かないでしょ」
「あぁ…。そうだよな…」

 漠良の明るい言葉に返事をする。だけどオレの声は震えていた。
 何だろう…。何だかとても嫌な予感がする。さっきまで感じていた頭痛とはまた違う感じで頭が痛い。ガンガンと内側から扉を叩かれているような振動を感じる。安心出来無い。大丈夫だって思い込もうとしても、全然安心出来無い。
 手に持った携帯の画面をじっと見詰める。携帯電話はウンともスンとも言わない。言う訳が無い。そう…その筈だった。それなのに…。

「電話…っ?」

 じっと見詰めていた待ち受け画面が切り替わって、着信を告げるアニメーション画面と共に軽快な音楽が鳴り出す。その着メロは、オレが海馬の為に設定したメロディーだった。つまりこの電話は海馬からの電話という事であって…。
 暫し呆然とその画面を見た後、オレは震える指で通話ボタンを押した。そして携帯を耳に当てる。電話口から聞こえて来た声は、当たり前だけど海馬の声だった。

「もしもし…?」
『………城之内か?』
「うん…」

 海馬の、オレの名を呼ぶ声が震えている…。いつもの自信に満ちた声とは少し違うと思った。まるで何かを深く考え込んでいるように、その声は慎重だった。

「今…どこにいるの? アメリカ?」
『………日本だ』
「日本…!? お前アメリカに戻ったんじゃねーの!? いつ帰って来たんだよ…!!」
『…戻っては…いない。こっちに残って色々考えていた』

 ボソボソと呟かれる声。オレは海馬の、こんなに自信が無い声を聞いたのは初めてだと思った。それくらいに電話口から聞こえて来る海馬の声には覇気が無い。
 いつだって自信満々だった海馬。オレと恋人になっても態度は一切変わる事は無く、それどころかそれまでと全く変わらずにオレの事を馬鹿にしていた筈なのに…。今聞こえる海馬の声からは、そんな雰囲気は一切伝わって来なかった。

『城之内…』
「ん? 何…?」
『少し…話がしたいのだ』
「話?」
『この間の事を…きちんと謝りたいのだ。電話では無くて、直接会って話がしたい…』

 苦しそうな海馬の声。そしてその声を注意深く聞いていたオレは、ある事実に気付いていた。
 電話口の向こうから、車が車道を走り去る音が聞こえて来た。そしてサワサワという、木の枝が風に揺らぐ音も…。そう言えば海馬の声も余りハッキリとは聞こえない。部屋の中から電話を掛けて来ているんだったら、もっとクリアに聞こえて来る筈なのに。
 その事象でオレが分かった事。それは、海馬は今会社や海馬邸からでは無く、外からオレに電話を掛けて来ているという事だった。それも多分、すぐ近くから。
 急いで立上がって窓を開け表を覗き見るけど、そこに人影は無い。でもオレはほぼ確信に近い想いで、海馬がこの近くにいるという事を感じていた。焦れったい想いでキョロキョロと辺りを見渡していると、突然電話口から『っ………!』という呻き声が聞こえて来る。かなり辛そうなその声に、オレは「おいっ!」と声を掛けた。

「海馬!? どうした!?」
『………っ!!』
「海馬っ!!」
『何でも…無い…』
「何でも無い訳ないだろ? そんな辛そうな呻き声…」
『………』
「もしかして…お前、頭痛いんじゃねーか…?」
『っ………』
「そうなんだな? 頭痛いんだな!?」
『耳元で喚くな…。ただの偏頭痛だ。最近少し頻発気味だがな…』

 海馬の感じている頭痛がただの偏頭痛じゃない事くらい、今のオレには簡単に分かる。多分オレの予想が間違っていなければ、その頭痛はオレがさっきまで感じていた頭痛と同じ理由によるものだ。
 シンクロ…しているんだ。間違い無く、ここにいる別世界の海馬と。
 途端に背筋にゾクリとした寒気を感じた。嫌な予感がする…。途轍もなく嫌な予感が。海馬をこれ以上一人にさせられない。一秒でも早く合流しなければ…!!

「海馬。お前今…どこにいるんだ!?」

 こめかみから冷たい汗が流れ落ちてくる。それを袖口で拭いながら、オレは海馬に居場所を問い掛けた。ここで焦っても仕方が無いと思うけど、心臓がドキドキして居ても立っても居られない。海馬の口から答えが返って来るのを、今か今かと待ちわびた。

『…公園だ』

 やがて少し時間が経ってから、海馬の声で居場所が告げられた。
 海馬の言う公園がどこの公園かなんて、そんなの細かい情報が無くたってすぐに分かる。多分オレの家のすぐ側の…あの大人の海馬と初めて出会った児童公園だ。

「分かった! すぐ行くから!!」

 それ以上は何も聞かず、それだけを言って電話を切る。そして背後から心配そうにオレを見詰めていた大人の海馬と漠良に目を向けた。二人とも至極真剣な目をしてオレを見ている。
 この海馬と漠良が言いたい事も、今のオレにはすぐに分かった。そして多分、その予想は当たっているんだ。

「城之内」

 何かを言いたそうにしながらもなかなか口火を切れない漠良に対して、海馬はすぐに意志を固めたのがその表情で分かる。オレの名を強い声で呼び、目の前まで歩み寄ってきた。そして「すぐ側に来ているんだな?」と問いかけて来る。その問いに、オレはすぐに首を縦に振った。

「海馬が…日本にいたままだった。オレ、すぐに会いに行って来る」
「あぁ」
「オレがもう一人のオレから影響を受けているように、海馬にも影響が出てるって事が有り得るんだよな?」
「その通りだ」
「海馬…頭が痛いって言ってた…。偏頭痛だと言ってるけど、多分そうじゃないよな…」
「………確証は無いがな」
「もしそうだったら…オレはどうすればいい? どう説明してあげたらいいんだ?」
「その時はオレが協力するから安心するがいい」
「だけど…」
「お前も、そしてこっちの漠良も理解出来たんだ。『オレ』が理解出来ない筈は無いだろう?」

 海馬の言葉に、後ろでオレ達を見守っていた漠良がクスクスと笑いながら「そうだね」と言葉を発する。「そうだね」と言ってる割には、何か微妙な顔付きなのが気になるけど…。
 案の定漠良は、至極面白そうにしながら海馬の事を見上げて口を開いた。

「でも海馬君は非ィ科学的な事が大嫌いだからね。多分一筋縄ではいかないと思うよ」
「あのさぁ…。超能力を普通に使っている世界の人達に、そんな事言われたく無いんだけど…」
「こっちの世界では、超能力はもう科学的に証明されてるからいいの。それにボク達の世界にだって、科学で証明しきれない事は一杯あるんだよ。それに対しての海馬君の拒否っぷりを見てると、こっちの海馬君の反応も大体予想出来るもんね」

 いつもの調子でニコニコ笑いながらそんな事言ってるけど、漠良が目で見える程安心していないのはオレにも伝わって来た。
 多分本気で心配しているんだ。オレと海馬の事を。そしてこれから影響を受けるあろう、もう一人の自分の事を…。

「行っておいで、君の海馬君のところに。何かあったら助けに行ってあげるから。ね、海馬君」
「あぁ、勿論だ」

 オレより少し年上の、大人の二人がオレの事を優しく見詰めてくれていた。何も心配はいらない、だから勇気を持ってアイツに会いに行けと…そう無言で励ましてくれている。
 勿論行くさ! そんな事心配されなくても、海馬はオレにとって何より大事な恋人だ。どんなに無視されても馬鹿にされても、この気持ちだけは失う事は無かった。それはオレの真実の気持ちだから。海馬を好きだという…愛しているという本当の気持ちだったからだ。
 そうだ。オレは海馬の事がこんなに好きだったんだ。それなのに恋人になった安心感から、ただ好きだというこの純粋な気持ちを忘れてしまっていたんだ…。
 オレは一体今まで何を恐れていたんだろう。海馬の気持ちが見えなくなって、アイツの事が分からなくなって、不安で不安で仕方が無くて、オレに興味を見せないあの態度に苛ついていた。
 でもよく考えてみろ。アイツが…あの海馬が好きでも無い奴と付き合ったりすると思うか? 自らの口から「恋人」なんて言葉を吐くと思うか? 自分がいない間に浮気されたんじゃないかと疑ったりするか? ましてや好きでも無い男に押し倒されて大人しく全てを諦めるなんて…アイツに限って絶対有り得ない!
 そこまで考えて、オレは漸く悟った。

 あぁ…そうか。あの行動の端々が、海馬の本当の気持ちの現れだったんだな。

 駄目だな…。こういうところ、オレは本当に鈍いと思う。海馬の表面ばかり見ていて、奥に隠された気持ちに全く気付けなかった。
 不安に思っていたのはオレだけじゃなかったんだ。多分…いやきっと、海馬だって不安で仕方無かったに違い無い。
 素直に出せない気持ち。強がる海馬に苛つくオレ。離れる心。恋人なのに、お互い全く歩み寄る事が出来無かった。
 海馬が素直になれないなんて、そんなの最初から分かってたじゃないか。それを知ってて、それでもオレは海馬の事を好きになったんだろ。だったら、海馬にばっかり気持ちを求めるのは間違いなんじゃないか? 海馬の方から歩み寄るのが無理なんだとしたら、オレの方から歩み寄ればいいだけの話じゃ無いか。

「うん。行って来るよ」

 今まで溜まりに溜まりまくってた悩みは、一気に晴れていった。だからオレは海馬の元に行く。
 海馬をもっと好きになる為に。そして不安なんて感じなくていいんだという事を教えてあげる為に。



 玄関から飛び出して、オレは海馬の待つ児童公園へと全速力で走り出す。オレの胸の内は海馬に対する愛しい想いで一杯で、一秒でも早くこの気持ちを伝えてあげたくて堪らなかった。だからオレはつい忘れてしまっていたんだ…。
 悪意の固まりである強い影に乗っ取られた…もう一人のオレの存在を。