それは真っ黒い影だった。
人の心に巣くう悪意は一様に『影』と呼ばれていたが、オレはあそこまで漆黒に染まった影を見た事は無かった。禍々しいまでに真っ黒に染まった、闇そのもののような影。その影が、青白く輝く聖なる光を覆い隠そうとしている。
海馬がトドメを刺した宿主は、もう半ば地面に崩れ落ちていた。胸から背中にかけて貫かれたその光る一本の剣が、宿主の身体からジワジワと這い出ている黒い影によって浸食されていくのが見える。慌てて剣を戻そうとした海馬だったが、その剣はまるで殺した宿主の身体に縫い止められているかのようにしっかり絡み付いていて、引き抜く事が出来無かった。海馬は何とか剣を抜こうと必死だったが、その間にも影は確実に浸食を進めている。青白い光が漆黒の影に覆われ、やがてその影が剣を握っている白い手にまで届こうとしているのをオレは確認した。
「海馬…っ!!」
強く叫んで、海馬の元へ駆け出す。オレは本能で、この影が通常の影とは全く違う、酷く危険な影である事を感じ取っていた。
今までオレ達超能力者が退治してきた影は、取り憑いていた宿主が命を落とすのと同時に、宿主と共にその存在が消滅してしまう物ばかりだった。だから今回もこれで終わりだと…オレを含め応援に来ていた能力者は皆そう思って安心していたのだ。
だけどそうじゃなかった。コイツはそんな生っちょろい相手じゃなかった。コイツは…この影がここまで力を増幅させ大きく成長した理由は、自分の宿主を殺した相手に取り憑き直す事で行なわれていたんだ。
今回、標的にした宿主は海馬が自分でトドメを刺した。そしてその所為で、新たな危険が海馬に迫っていたのだ。
「ひっ…!!」
自らの能力によって具現化した剣に纏わり付く黒い影に、海馬が青い目を大きく見開いて小さく悲鳴を放つ。ここに来て、この影の異常性に海馬自身も気付いたらしい。慌てて能力を解いて剣を消すが、その影は既に海馬の右腕に纏わり付いていた。
「海馬ぁーっ!!」
何か他の良い方法を考えている暇なんて無かった。そんな事をしている間に、海馬はこの影の新たな宿主になってしまう。だからオレは、考えるよりも先に手を出した。そうする事しか出来無かった。
「城之内…っ!?」
影が纏わり付く海馬の右腕を強く掴む。そして自分の重力操作の能力を使い、影をオレの方に引き寄せた。海馬の腕を掴んでいるオレの左手から、その真っ黒い影は一気にオレの中に浸食してくる。皮膚からじわりと染み込んでくる生温かい影の感触が、物凄く気持ち悪い…。
「っ…うっ…!!」
影の浸食は、思った以上に早かった。流石にここまで成長した影だけはある。強い能力を持っているオレでさえ、自分の中を駆け巡るドス黒い悪意には何の抵抗も出来無かった。
急速に身体の自由が奪われて、オレは耐えきれずにその場に蹲る。オレの中に入った影は、オレの血管や神経を伝い一気に脳を支配し始めていた。目の前がぐらりと揺れる。視界がぶれる。頭が重い。何も…考えられなくなる。心が…心が黒く染まっていく。
「じ…城之内…っ!! 城之内っ!!」
必死の形相でオレの名を呼ぶ海馬。愛しい愛しい海馬の顔が、ボンヤリ霞んで…見えなくなった。
目が覚めたら、そこは自分の部屋だった。布団に寝かされていて、オレンジ色の常夜灯を灯す天井の電気がボンヤリと目に入ってくる。
襖を隔てた向こうは台所と間続きになっている居間だけど、そこからボソボソと話し声がするのに気付いて、オレは布団から起き上がった。何だか重たい身体をゆっくりと起き上がらせると、途端にズキリと頭が痛む。
「っ………!」
前頭葉から脳の中心に掛けてズキズキと疼く頭痛に、思わず自分の額に掌を当てた。風邪を引いた訳でも無いのに、こんなに頭が痛む事なんて…今まで一度も無かった事だ。もう一度布団に倒れ込みたいのを我慢して、オレはそれでも何とか立上がった。喉も渇いていたし、何より襖の向こうの話し声が気になって仕方無い。
壁に手を付いて襖に近づくと、やっと向こう側の話し声がハッキリと聞こえてきた。
「どうしてこっちの城之内君に、ちゃんと教えてあげなかったの…」
最初に耳に入って来たのは、漠良の声だった。どうして漠良がウチに居るんだ…? と考えて、昼間の事を思い出す。
そうか…。今ここにいる漠良は、オレの同級生の漠良では無いんだ。この漠良はオレより少し年上の…あの別世界から来た海馬と同じ世界の漠良なんだ。…とそこまで考えて、オレは昼間の事を思い出した。
児童公園の入り口で大人の漠良に出会い、少し話をしてオレはあの海馬を傷付けた犯人が『もう一人のオレ』だという事に気付いてショックを受けた。全身から力を無くして、買って来たアイスが入っていたビニール袋を地面に落として…。あぁ、そうだ。だから慌てて落ちた袋を拾おうとしたんだ。
足元に半分溶けかかったカップアイスが転がっている。しゃがんで慌ててそれを拾ってビニール袋の中に入れ、そして立上がろうとした。だけどその途端、耐え難い頭痛に襲われてオレはその場に倒れ込んだんだ。
『え…? 城之内君…!? ち、ちょっと…!?』
突然倒れ込んだオレに漠良が焦ったような声をあげて、慌てて近寄って来てオレの身体を支えてくれた。腕を掴む腕力が意外と逞しいな…なんてそんな事を思って、それを最後にオレは意識を失ってしまったんだ。
それから先はどうなったのか分からない。ただ今家に居るって事は、あの漠良がここまで連れて来てくれたんだろう。もしくは海馬に連絡して、迎えに来て貰ったのかもしれない。どっちにしろ、ちょっと情けない姿を晒してしまった事には変わらないらしかった。
自分の不甲斐なさに頭を抱えつつも、オレはボソボソと続けられている会話に耳を傾けた。
「そこまで事件の詳細を打ち明けてた癖に、どうして肝心の犯人について言わなかったのさ。ボク、彼が自分で気付くような事を言っちゃったじゃん」
「スマン…。いつか…折を見て話すつもりでいたのだ」
「折りっていつ? 城之内君を見付けた時とか?」
「いや、流石にそれは…。だがせめて、貴様が来るまでは…と」
「そんなの隠してどうするのさ。いつかは知れる事なのに」
「だが…! もう一人の自分がそんな大変な事になっている等と…そんな簡単に言える訳無かろう!」
「それはそうだけどね。でもよく考えてもみなよ。世界は違っても、あの城之内君なんだよ? そんな事でショック受けたりすると思う?」
「そ、それは…」
「むしろ今まで隠されてた事の方がショックだったと思うよー」
「っ………!」
漠良の言葉に、大人の海馬が呻いて黙り込む。
オレは海馬が好きだし、この海馬はオレの恋人では無いけれど、大概の場合は海馬の味方をする事にしている。だけど今度ばっかりは、オレも大人の漠良の意見に心底同意せざるを得なかった。
「海馬…。余りオレを見くびるなよ…」
襖をスラリと開いてそう言えば、居間の真ん中で立ち話をしていた海馬は驚いた表情で振り返って、オレの顔をじっと凝視した。
グラグラと目眩がして真っ直ぐ立てなかったから、入り口の柱に凭れ掛かって海馬を軽く睨み付けてやる。頭がガンガン痛んで呼吸も荒くなり、冷や汗もだらだら出て来た。それでもオレは、海馬から視線を外す事はしなかった。
「城之内君…? 大丈夫? 顔真っ青だよ」
大人の漠良がオレの状況を見て、物凄く心配そうな顔をして近付いて来る。
「大分辛そうだね…。ちょっとそこに座ってくれる?」
「………」
漠良に言われて、オレは柱を背にしたままズルズルとその場に座り込んだ。少し項垂れてふぅ…と深く息を吐き出すと、額に温かい掌の感触を感じる。顔を上げると、漠良が真剣な目をしてオレの事を覗き込んでいるのが目に入ってきた。
「身体の力抜いててね」
優しい声でそう言われて、オレは素直に身体の力を抜いた。その途端、目の前が優しいクリーム色の光りに包まれて、同時に額がポワッと温かくなったのに気付く。頭の中は相変わらずズキズキと痛かったけど、どうやらそれが漠良の治癒能力なんだろうなぁ…と感じていた。
「どう…? 痛み取れた?」
オレの額を掌で押さえながら、漠良はそうオレに質問してきた。だけどオレは、その問いに静かに首を横に振って応える。優しい熱が額から頭の中に入ってきて、それで少し楽になった気がしたけど、痛みは一向に治まる気配が無かった。
漠良は暫くオレに光を当てていたけど、やがてスッと身を引いて至極真剣な顔をしてオレを見詰めた。
「やっぱりこれ…。病気とか怪我とか、そう言うんじゃないね」
ズキズキと激しく痛む頭を抱えつつ、オレは目の前の漠良をそっと見上げる。
病気でも怪我でも無い…? それじゃこの頭痛は、一体何だというのだろう?
余りの痛みに言葉を放つのも億劫で目だけでそう問い掛けたら、いつの間にか近くに来ていた海馬が「城之内」とオレの名を呼んだ。そして漠良の隣に座り込んで、オレに視線を合わせてくる。青い瞳が真っ直ぐにオレの事を見詰めていた。
「海…馬…?」
「城之内…。全てを話そう…。その頭痛の事も、オレの恋人の城之内の事も…。全て…話すから…」
オレを見詰める海馬の目はどこまでも真剣で、オレに語りかける声も低くて静かで…。
だからオレは、この海馬が本気で話をしようとしている事に気付いた。
「うん…分かった…」
痛む頭を庇いつつ、ゆっくりと首を縦に振る。
「全部…何でも話…聞くから…。だからお前も…全てを話してくれ…」
「あぁ」
オレの言葉にしっかりと頷く海馬を見ながら、オレは先程まで見ていた夢を思い出した。そして数日前、海馬が放った一言も…。
『やはりオレ達は…オレと城之内は、共に幸せにはなれないのかもしれないな…』
海馬のその台詞が、どんな意味を含んだ言葉かなんて…。何も聞かなくても、オレはもう完璧に理解していたんだ。