あの夏の日の君へ(完結) - 見守ってみる - 第一話

 その日、オレは酷く苛ついた気分で夕方の街を歩いていた。梅雨も終わり漸く夏らしい爽やかな天気が続き、更に夏休みまであともう少しだっていう一年中で一番楽しい時期の筈なのに…。それなのにオレの気分は最低最悪のままだった。いや、オレだって最初から気分が悪かったという訳では無い。つい先頃まではいい気分だった。ところがそのいい気持ちを恋人…海馬が台無しにしてくれやがったのだ。
 今日は金曜日で、明日は土曜日。珍しくオレのバイトのシフトが入って無かった事もあり、放課後まで学校に残っていた海馬にその事を話してみたんだ。明日は一緒にどこかに出掛けるか、もしくはオレん家かお前の屋敷でずっと一緒にいないかって。ところが海馬の奴は、突然とんでも無い事を言い出しやがった。

「残念だが、明日からアメリカ出張だ。今日の夜には出発しなければならん」
「………え?」
「戻ってくるのは一ヶ月後だな」
「はい? 一ヶ月…?」

 寝耳に水とはまさにこの事で、オレはそんな事全然知らなかったから唖然としてしまった。海馬が自分の仕事に関してオレに何も言わない事は知っていたし慣れっこだったけど、いくら何でもこういう話くらいはちゃんと伝えて欲しいと思う…。
 こんな事を考えてしまうのは、果たしてオレが贅沢だからなのだろうか?

「ちょっ…! 出張って…オレ何も聞いてねーよ!」
「そうだろうな。オレも何も話していないからな」
「そんな事いつ決まったんだよ! 突然か?」
「突然な訳無かろう。もう数日も前から決まっていた事だ」
「数日前!? 数日って突然じゃねーかよ!!」
「そうか?」
「そうだよ! 出張が決まっちまったモンは仕方ねーけどさ、でもどうしてそれをオレに言わないんだ!!」
「言ってどうするのだ。オレの仕事に貴様が口を挟む事など出来無い癖に」
「オレ達って…恋人同士だろ!?」
「恋人だからと言って、オレの仕事とお前とは何も関係が無い」

 聞けば聞くほど海馬の口から出る言い分に、オレは腹が立って仕方が無かった。

 分かって無い! コイツは本当に分かって無い!!

 オレが言ってるのはそういう事じゃ無いんだよ。お前の仕事にオレが口を挟めないなんて、そんなの当たり前だろう? 仕事の事で何かを言いたい訳じゃ無いんだよ。オレが言いたいのは、オレ達は恋人同士なのにどうしてそういう大事な予定を教えてくれないのかって事だ。
 オレ達は赤の他人ではない。友人同士でも無い。そのくらいの関係だったら、オレも煩くは言わなかったさ。でも縁あってオレ達は恋人同士になった。…まぁそれも、ほんの数週間前の事だけど。でも恋人には違い無い。キスもセックスもまだしてなくても、オレ達は間違い無く恋人同士だ。恋人ならば時間の許す限り側にいたいと思うし、相手の顔を見ていたいと思う。他愛の無い事でも色んなお喋りを楽しみたいし、出来れば少しでもいいから相手の身体に触れてみたいと思う。嬉しい事も悲しい事も好きな相手と共有出来ればと…オレなんかは常にそんな風に考えているというのに。

 海馬はちっともその事を分かってくれなかった。



 オレが海馬に告白したのは、梅雨に入った直後くらいだった。じとじとした気持ちの悪い日が続いていたんだけど、その日は朝から爽やかに晴れていた。そんな日にたまたま海馬が学校に来たのを見て、オレは何だかとても良い気分になったんだ。今だったら海馬に告白して振られても、大したショックにはならないだろうと…そう思った。
 心に決めたら即実行がオレの信念だから、早速行動に移す事にする。昼休みに海馬を誰も居ない校舎の外れに呼び出して、オレはそれまでずっと抱えていた気持ちを告白した。
 告白したからと言って、別に海馬と恋人として付き合いと望んでいた訳では無い。男が男に告白されるなんて普通は気持ち悪いと思うし、二度と近寄りたく無いとも思うだろう。オレだって海馬を好きになるまでは、男に対してこんな気持ちになるなんて全然思わなかった。海馬を好きになったのも別にオレが同性愛者になった訳では無くて、海馬が『海馬瀬人』という一人の人間だから好きになっただけだ。もし今オレが他の男に告白でもされたら、きっと凄く気持ちが悪いと感じると思う。
 だから海馬に振られるのは、ある意味仕方の無い事だと思っていた。しかも同じ男に告白されるだけならまだしも、相手がこのオレだ。海馬が常日頃から「負け犬」やら「馬の骨」やら「凡骨」やら馬鹿にしている相手からの告白なんて、絶対受け入れられる筈が無い。そう思っていたから、オレ自身は至極気楽なものだった。
 振られてもいい。ただこの気持ちを知って欲しい。そしてオレ自身、海馬を想うこの気持ちから解き放たれて楽になりたい。
 そう思っていただけだったのに…。

「分かった」

 海馬は一言ハッキリそう言って、驚くオレの前で「では付き合うという事でいいのだな?」と確認してきたのだ。オレが驚きの余り固まっていると「付き合うのか、付き合わんのか、どっちだ。ハッキリしろ!」と逆に怒られたので、オレはその場で何回もコクコクと首を縦に振るハメになった。



 そういう事でオレと海馬は『恋人』としてお付き合いする事になったのだが、その後オレ達の間に何か新しい展開があったのかというと…特に何も無いというのが事実だった。
 キスも無し。セックスも無し。それどころが手も繋いだ事も無し。ただたまに…本当に時々一緒に帰ったり、お互いの家に遊びに行ったりはした。その時に海馬に襲いかからなかったオレの忍耐力は、自分で自分を褒めてあげたいと思っている。
 そりゃーキスだってセックスだってやりたいよ。でも、そういうのを無理矢理やるのは趣味じゃないんだ。海馬が自分で欲しがって…は無理だと思うから、少なくても嫌がられない程度にまで距離が縮まったらでいいと思っていた。それまではとにかく一緒にいる時間を増やして、どこかに出掛けたり出来ればいいな…と、そう考えていた。

 でも海馬は…たったそれだけのオレの望みも、全く理解出来無かったんだ。

 自分から「付き合うのか?」と問い掛けてきた癖に、海馬は恋人らしい事には全く興味を示さない。たまに一緒にいる時も酷く面倒臭そうにし、少しでも仕事の情報が入るとすぐにそっちの方に興味が行ってしまう。オレがその事に文句を言うと「オレにとっては、この仕事は幼い頃からの夢なのだ!」と怒鳴られて、強制的に会話を終了させられた。
 そりゃーオレだって、海馬のやっている仕事があいつにとってどんだけ大切な事なのか分かっているつもりだ。だから本当に仕事に忙しそうな時は邪魔しないし、そっと見守るだけにしている。
 だけど二人っきりでいる時くらい、仕事の事を忘れても罰は当たらないと思うんだ。そう思って愚痴を吐いても、海馬の心には全く届かない。それどころかオレは嫌な事に気付き始めていた。

 もしかしてコイツ…。仕事を口実にしてオレから離れたがってる?

 考えたくなくてもついそんな風に思ってしまうくらい、海馬の仕事への逃げは素早かった。
 最初は疑問だったその考えも、やがて時が経つにつれて確信へと変わっていく。二人きりでいる時に限って、海馬は自分から仕事を探しにいくのだ。持ち歩いている資料を見たり、パソコンや携帯でメールをチェックしたり、新しいアイデアをメモしたり…。オレ以外の奴が一緒に側にいる時(例えば弟のモクバとか、たまたま一緒に遊びに来ていた遊戯とか、磯野さんとか、メイドさんとか)は、決してそんな事をしない。海馬が無理して仕事を探すのは、決まってオレと二人きりの時だけだった。
 海馬のそんな行動は、オレの自信と幸せな気持ちを少しずつ削り取っていく。それでも何とか関係を修復したくて、オレはオレなりに努力していた。今度の土日のバイトの件だってそうだ。その日は海馬の仕事が無い事は、本人及びモクバや磯野さんからの情報で習得済みだった。だからオレはその日に一緒に出掛けたいと思って、無理してバイトのシフトを交代して貰ったんだ。
 それなのに結果は…見ての通りだった…。



 結局「飛行機に遅れるから、オレはもう行くぞ」と冷たく言い残して、海馬は学校まで迎えに来ていたリムジンに乗ってさっさと姿を消してしまいやがった。それを見送った後、オレは酷くムカついた気分で帰路についた。
 最初は物凄く頭に来ていただけのオレだったんだけど、歩いている内にその怒りが哀しみに変わっていくのを感じ取っていた。何だか真っ直ぐ帰る気もしなくて、当てもなくグルグルと遠回りをしてブラブラと歩く。そんな事をしていても家は確実に近付いて来て、気が付いたらオレは自分が住んでいる団地の目の前まで来ていた。
 そのまま帰れば良かったものの、何だか素直に家に帰るのも馬鹿らしくなってしまった。仕方が無いので少し戻って、団地の脇にある児童公園の中で一休みする事にする。

「はぁー…」

 溜息を吐きながら公園の入り口の自動販売機で冷たい炭酸飲料を買い、誰もいない公園に入り込んだ。日はもうすっかりと暮れ、辺りは真っ暗になっている。空を見上げるとそこは今まさに、群青色から漆黒の闇へと移り変わろうとしていた。
 最初はベンチに座ろうと思ったけど、無意識に目に付いたブランコに引き寄せられるように近付いて行った。子供用に作られているために大分窮屈に感じる板に無理矢理座ったら、両側から板を支えている鎖がガシャンッと鳴った。昼間の公園で聞くなら、きっととても楽しい音なんだろう。だけど誰もいない夜の公園で聞くその音は、酷く物悲しく聞こえる。それどころかジュースを飲む為にプルトップを引いたときのプシッという音でさえ、今のオレには悲しく聞こえた。

「もう…限界かな…」

 甘ったるいソーダ水を飲みながら、オレは夜空を見上げてボソリと呟いた。
 今だ藍色がかってはいるものの、空にはもう夏の星座がポツポツと輝き始めている。とても綺麗な星空…でも決して手の届かない星空。まるで海馬みたいだと思った。
 星は星らしく、ただ黙って遠くから眺めていれば良かったのだろうか? あんなに明るく輝いているのだからきっと暖かいのだろうと、勇気を振り絞って触れたそれは…酷く冷たい氷の星だった。オレがどんなに頑張っても、あの氷は溶ける様子を見せない。それどころかドンドン冷えて硬く固まっていく。

「こんなに…好きなのに…っ。どうしてダメなんだろうな…!!」

 本当に本当に悲しくなって、年甲斐もなく泣きたくなって来てしまった。じわりと溢れて来た涙で夜空の星がぼやけていく。スンッと鼻を啜りながら制服の袖口で涙を拭い、缶の中に残ったジュースを一気に飲んだ時だった。

 ドガガガガッ!! ガシーンッ!! バチバチバチッ!! ガサガサガサッ…ドサッ!!

 目の前で何かが爆発したみたいに夜空が明るく燃え上がり、それと同時に激しい音が辺りに響き渡った。突然の閃光にオレの目はチカチカと光を放電し、暫くの間は何も見る事が出来無い。慌てて両目を擦り、何度も瞬きを繰り返しながら辺りを見渡して見た。
 あんなに大きな音と光が出ていたというのに、公園はもういつもの静かな空間に戻っていた。近くで事故があったのかもと思って道路に出て見るも、そこも静かで誰もいない。一体今のは何だったんだ…と首を捻りつつ、最後に聞こえた音が妙に気になりだした。

「何か…落ちてきたよな…?」

 最後に聞こえたガサガサガサッ…ドサッ!! という音は、上空から何かが落ちてきて公園に生えている木や生け垣にぶつかり地面に落ちた音だ。
 何だかよく分からないまま、オレは自分の直感を信じてそれを捜してみる事にした。何故だかは分からないけど、その音を無視してはいけないと思ったんだ。
 先程の記憶を頼りに音がしていたと思われる方向へ歩いて行く。躑躅の生け垣を越え、金木犀が密集して生えている公園の裏側の方へ。真っ暗な中、鬱蒼と生える木の間を枝を避けながら奥へと進んでいくと、やがてオレの耳に「うぅっ…!」という何かの呻き声が聞こえて来た。
 最初は犬か野良猫だと思った。だけど側に近付いていくにつれて、その声が人間の声だという事が分かる。

「なぁ…。そこに誰かいるのか?」

 心臓がドキドキと高鳴る。沢山の興味と好奇心と…そしてほんの少しの恐怖感がオレの足を震えさせていた。だがその足は止まらない。確実に呻き声がする方向へと進んでいく。

「誰かいるなら返事してくれよ」

 問い掛けに応える声は無い。ただし呻き声はどんどん大きくなっていき、やがて大きな欅の木を抜けた先にオレは『それ』を見付けた。

「え………?」

 枯れ葉が積もった柔らかな土の上に、その人間は俯せで倒れていた。白くて長いコートのようなものを羽織っているが、それが暗い中でも酷く汚れているのが分かる。最初は土や泥の汚れだけかと思った。だけどその人に近付くにつれて、それだけじゃない事が分かる。
 そのコートは…あちこちが焼け焦げていた。そして土や泥の汚れに混ざって、所々に真っ赤な液体も付着している。それが何なのかなんて考えなくても分かった。

「それ…血…っ!? お、おい…アンタ大丈夫かよ!? どうした…!? 事故か…!? それとも誰かに襲われたのか…!?」

 倒れ伏したまま呻き声を上げるその人の側に駆け寄って、跪いて肩を揺さぶった。近くに来ればその人間が男だという事が分かる。何度も揺さぶったり背中を叩いたりしてるのに、その男は「うっ…!」と呻くだけで返事をしない。流石にこれは大事だと思って、オレは力を入れて俯せの身体を仰向けに引っ繰り返してみた。
 そしてその瞬間、オレは死ぬほど驚く事になった。

「なっ…!? か、海馬…っ!?」

 目に入ってきたその顔は、何故だか妙に大人びて見える『海馬瀬人』…その人だった。