海馬が初めて射精してくれたあの記念すべき日から二週間。アイツはまた仕事が忙しくなってしまって、レッスンどころか連絡も付かなくなってしまっている。でもまぁ、今回ばかりはこちらからコンタクトを取る訳にもいかなくて、オレはサッパリ連絡が来ない携帯を持て余しながら下校していた。
だって前回のレッスンの時にオレ…余計な事言っちゃったもんなぁ…。
『とりあえずオナニー出来るようになったらオレに教えてな』
なーんて余裕こいて言ってみたけど、本当は余裕なんてもう殆ど残って無い。
だってそりゃそうだろう。あんなに綺麗で可愛いオレの海馬が、顔を真っ赤にしてブルブル震えながら射精する様なんて…最高に決まってるだろ? 何にでも「こうだ!」と決めたらすぐ行動に移すオレが、あの場で海馬を押し倒さなかったのが奇跡のようだ。自分でもよく我慢したなぁと感心する。
まぁ…そんだけオレが海馬に本気惚れしてるって事なんだけどな。
ヤりたい気持ちは勿論満々にある。だけどそれ以上に、アイツをちゃんと喜ばしてあげたいし、悲しい顔や辛い顔させるなんて以ての外だと思っているから。だからオレは自分がどんなに辛くても、我慢出来るんだと思う。
…とそこまで考えて、オレは漸く自分が「辛い」と感じている事に気が付いた。
「あー…そっかー。そうだよなぁ…」
海馬と付き合い始めて約二ヶ月半。レッスンを初めてからだと約一ヶ月半。オレもそろそろ我慢の限界だったらしい。油断をすると海馬を思いやる気持ちより、ただ海馬とセックスしたい! という気持ちの方が先立ってきて凄く困る。
無理強いはしたくない。絶対にしたくない。海馬を悲しませるくらいなら、セックスなんてしない方が良いくらいだ。オレは本当に心からそう思っている自信がある。ただそういう真心と、男の生理現象はまた違うというか何というか…。
「困ったなぁ…」
今度海馬と会った時、ちゃんとまともでいられるかどうか自信が無い。有無を言わさず押し倒しちゃったりしたらどうしよう…。それで怖がられてトラウマが復活して、今までのレッスンが全部パーになっちゃったらどうしよう…。そんな事ばかりが頭を占める。
会いたいのに会えない。会えないのに会いたい。どうにもならないジレンマばかりが募って行く。
「どうしよう…。もういっそこっちから押しかけるか…? ただ連絡を待ってるだけで変な妄想に取り憑かれるより、ずっといいかもしれないな…」
そう思って一度メールしようと携帯のフリップを開いた時だった。手の中の携帯がブルブル震えてメールの着信を知らせる。慌てて確認すると、それは今まさにオレから連絡しようとしていた海馬からのメールだった。
『漸く仕事が一区切り付いた。今夜は泊まりに来られるか?』
凄く簡潔なメールだったけど、それがレッスンの事を言っているのなんてすぐに分かったから、オレは慌てて返信メールを打つ。
『行く! バイト終わったらすぐに行く!』
『そうか。何時頃になりそうだ?』
『いつも通り22時頃かな。あ、夕飯は食ってから行くから、何も用意しなくていいぜ』
『分かった。待っている』
短いメールのやりとりをして、オレは満足して携帯のフリップを閉じた。
良かった…。これで何とかなりそうだ。流石に「もうオナニーした?」なんて質問は出来無かったけど、それはまた今度でいいかと考え直した。あんまりしつこく言っても、嫌がられるだけで終わりそうだしな。
とりあえず今日は久しぶりに海馬に会えて、あの白い身体に触れるだけで幸せだと感じていた。微妙に落ち込みかけていた気持ちも急上昇して、この分ならバイトは元気ハツラツでやれそうだ…と考えて、ふと足を止めてしまう。
「あ、いっけね。今日シフトの変更があってバイト休みだった…」
何だか物凄く勿体無い事をした気になった。バイトが無いと分かってたなら、今すぐにでも会いに行ったのに。だけど今から急に顔を出すのも迷惑なような気がして、オレは諦めて一旦帰る事にした。どうせ夕飯は食っていくって連絡したし、食事をしてから出発しても全然構わないだろう。むしろその方が自分の気持ちを落ち着けられるような気がして、オレは苦笑した。
本当に…参ったな。アイツはどれだけオレを振り回せば気が済むんだろうか。
簡単に夕飯を済ませてオレが海馬邸の前に立った時、時刻はまだ二十時を回ったばかりだった。とは言っても来てしまったものは仕方無いので、そのままインターホンを押して中に入れて貰う。
オレが来る事はもう既に海馬から通達があったようで、メイドさんはオレの顔を見るなり「瀬人様はもうお部屋にいらっしゃいますよ」なんて教えてくれてニッコリ笑っていた。凄く今更だと思うんだけど、この人達は一体どこまでオレ等の関係を知っているんだろう?
…多分、もう全部知っているんだろうとは思うけど。
とりあえずメイドさんに「ありがとうございます」と微笑み返して、オレは真っ直ぐ海馬の私室へと向かって行った。一応部屋のドアはノックするけど、返事を待たずに中に入ってしまう。その度にいつも海馬に怒鳴られるけど、本気で怒られている訳じゃ無いから、この癖は治りそうにも無かった。
「あれ?」
今日もそんな怒鳴り声を覚悟していたというのに、何故か部屋の中はシンとしている。キョロキョロと見渡して見ても海馬の姿は見当たらない。念の為寝室もチェックしてみたけど、真っ暗な部屋には誰もいなかった。
「おかしいな? 部屋にいるって言ってたのに…」
もしかしたら、今だけちょっと出ているのかもしれない。そう思い直して、オレは踵を返してトイレに向かう事にした。別にトイレと言っても一発抜いておこうとかそういう話じゃ無くて、今は純粋にトイレとして使おうとしてるってだけなんだけどな。別にトイレを使う事に対して言い訳するのもオカシイけど、いつもこのトイレで抜いてるから、ついつい言い訳したくなっちまうんだ。
何か情けないなぁ…オレって。とか思いながらトイレのドアを開けようとして…、ガチッと盛大に引っ掛かったそれに首を傾げた。よくよく見ると鍵穴がいつもの青色じゃなくて赤色…つまり「中に誰かが入っていますよ」というマークになっている。
「んん? あれれ?」
意味が分からなくてついガチャガチャとドアを引っ張っていると、暫くして中からドンッ!! と扉を思いっきり叩く音が聞こえた。次いで「やめろ! ドアが壊れる!!」という海馬の怒鳴り声も響いてきて、オレは漸く合点がいく。
そっか、そうだよな。ここ海馬の部屋だもんな。このトイレに入るとすれば、海馬だけだもんな。
開かずのトイレの謎が解明して、オレは慌てて中にいる海馬に謝った。
「ゴメンゴメン。中に誰もいないと思ったんだ」
「馬鹿め! 鍵穴を見れば分かるだろう!」
「うん、そうだけど…。お前がトイレに籠もってるなんて珍しいから、ついその可能性を排除しちゃった」
「しちゃった…では無いわ、馬鹿者めが! 大体何でこんなに来るのが早いのだ…っ。まだ八時台だろうに」
「あ、そうそう。実は今日バイト休みだったの忘れてたんだよ。だからさっさと飯食って来ちまった。…迷惑だった?」
「………。い…いや…それは…」
「とりあえずさー海馬。早く出てくれない? オレ結構溜まっちゃってるんだよね」
「なっ………!?」
「漏れそうなんだけど」
「ふ、巫山戯るな!! 我慢しろ!!」
「まだかかるんなら風呂場でしてきていい?」
「やめろ!! この大馬鹿者が!!」
トイレのドアの向こうから慌てたような声が響いてきて、中で海馬がガサゴソと動く気配が伝わって来た。ガラガラと物凄い勢いでトイレットペーパーを引き出す音と、シューッとスプレーか何かを巻く音、次いでシュッとズボンを履く音とカチャカチャとベルトを嵌める音が聞こえたと思ったら、ジャーッと水洗トイレが流れる音と共にカチャリとドアが開けられた。
トイレの中から現れた海馬は、何か顔を真っ赤にして眉根を寄せて、微妙な表情でオレの事を睨んでいる。
「あ、ゴメン。もしかして大だった?」
「………違う」
「え? でも結構時間掛かって…」
「いいから早くしてこい!」
大きな声で怒鳴られて、オレは肩を竦めて「はいはい」と言いながらトイレに入って行った。なんだよ…あんなに怒る事は無いじゃないか。確かにちょっと急がせちゃったかもしれないけど…。
そう思いながら出すモン出してスッキリして、水洗レバーをクイッと捻る。ジャーッと渦を巻いて流れていく水を確認してトイレから出ると、洗面所では海馬がまだ手を洗っていた。手を石鹸の泡だらけにして、指先まで丁寧に洗っている。
「………おい」
あんまりしつこくゴシゴシとやっているから、つい声を掛けてしまった。
「いつまで洗ってんだよ。オレも手洗いたいんだけどな」
「う…煩いっ!」
オレの問い掛けに海馬は何故か大声で反論をする。鏡越しに覗き見ると、海馬の白い顔は赤く上気したままだった。
手に付いた泡を水で綺麗に洗い流して漸く洗面台から退いた海馬に苦笑し、オレは自分の手を洗い出した。手洗いをしながら、自分のすぐ隣でタオルで丁寧に手を拭いている海馬を横目で見る。
その何ともやりきれなさそうな…微妙に罪悪感を感じているような…そんな複雑な顔を見て、オレはいきなり閃いてしまった。
「お…おまっ…。まさか…っ?」
ジャージャーと流れ続ける水道の蛇口を閉めるのも忘れたまま、じっと海馬の顔を凝視する。そして半分呆れながら口を開いた。
「オレがトイレで抜いてるからって、お前までトイレで抜かなくてもいいんだぜ?」
「っ………!!」
そう言った途端、海馬は真っ赤な顔を更に赤くして狼狽えていた。
あ、どうしよう。当たりだった。つーかドンピシャだった。半分はカマかけのつもりで言ったのに…。
大でも無いのにトイレに籠もっている時間の長さ。トイレットペーパーの激しい引き出し方。いつでも上品な芳香剤の良い香りがしている海馬邸のトイレの中で、しつこいくらいに噴霧された消臭スプレー。
それら全てが語るのは、海馬がトイレの中でしていた事をオレに隠し通そうとしていたという事だった。
「お前…ほんと馬鹿だなぁ…。馬鹿過ぎて可愛いくらいだわ」
後で怒られるからちゃんと水道の蛇口は締めて、手もちゃんとタオルで拭いて、綺麗になった手でそっと海馬を抱き締めた。真っ赤に上気した顔のまま、海馬は俯いてオレのされるがままになっている。
「オレが今までトイレで抜いてたのはな、お前にオレの欲望を見せたくなかったからだ。お前がオレの姿を見て怖がったり、トラウマを思い出したりしない為に…。でも海馬、お前までそんな事しなくていいんだぜ? ソファーとかベッドとか…そういうところでやればいい」
「っ………。い、嫌だ…」
「嫌? 何で?」
「証拠が…残る…」
「証拠って…お前なぁ…。確かにトイレだとすぐに流せるし、洗面所もあるから手もすぐ洗えるけどな。でも普通はこんなところでやったりしないんだぜ?」
「だ…だが…っ!」
しつこく言い訳しようとしている海馬に苦笑して、オレは腕の中の細い身体をギュッと強く抱き締めた。
馬鹿な海馬。可愛い海馬。この存在が愛しくて愛しくて、気が変になりそうだ。
「でも嬉しいよ、海馬。ちゃんとオレが出した『宿題』、やってくれたんだなぁ…」
「………そ、それは…っ。だって貴様が…それが普通だと言ったのではないか…」
「うん、普通だよ。よく頑張ったなぁ…海馬。偉かったぞ」
今やオレの身体にキュッとしがみついている海馬に嬉しくなりながら、オレは肩口に埋められている栗色の髪の毛を掌で優しく撫でた。サラリと零れる髪質が気持ち良い。
暫くそうやって抱き締め合って、暫くしてオレ達は身体を離した。そして俯き加減の海馬の顔を覗き込んで、オレはなるべく真面目な顔をして口を開く。
「今日、セックス…してみる?」
オレの問い掛けに海馬は瞠目して固まり、でも暫くしてからコクリとしっかり頷いてくれたのだった。