*Lesson(完結) - レッスン開始! - Lesson1

「城之内…」

 名前を呼ばれて振り返った。部屋の入り口にバスローブを羽織った海馬が立ち尽くしていて、まだ濡れている髪を掻き上げながら、じっとオレの事を見詰めている。いつもは真っ直ぐにオレを射貫く青い瞳が、所在無さげに揺らめいているのが印象的だった。

「本当に良いのか…?」
「うん」

 海馬の質問に即答する。
 だって何を戸惑う事があるんだ? これから好きな奴を抱けるっていうのに。
 だけど海馬は困ったように目を伏せて、深い溜息を吐いた。何とも言えないその表情は、オレの事を気の毒がっているようにも、こうなった状況を後悔しているようにも、そして自分自身を責めているようにも見える。
 海馬がそんな気持ちになるのは仕方が無いし、オレも理由を知っているから特に何も言わない。でも、逃がすつもりも無いし、このままで済ますつもりも無かった。

「おいで…海馬」

 右手を差し出して名前を呼べば、海馬は大人しく近付いて来てオレの手に自分の掌を重ねて来た。その手をキュッと握ると、握り込んだ冷たい手がピクリと動く。そのままクイッと手を引き寄せて優しく抱き締めると、途端に身体が強ばりフルフルと首を横に振られた。

「オレは…本当に何も感じられないぞ」

 泣きそうに震えたその声にオレはただ「大丈夫だよ」とだけ応えて、水分を含んで湿った栗色の髪を何度も撫でた。
 海馬が安心するまで、何度も何度も…。



 オレが海馬から衝撃の事実を聞いたのは、一ヶ月前の事だった。たまたま学校に来ていた海馬をチャンスだとばかりに屋上に呼び出して、ずっと胸に抱いていた恋心を告白した。
 春の夕日に染まる放課後の屋上。驚かれたり罵倒されたりするのも覚悟の上だったんだけど、意外な事に海馬はただ黙ってオレの告白を聞いていた。驚いたり嫌がったりしてるような表情は見せていない。それどころか、むしろ頬が赤く染まっていたりする。夕日に照らされる色とはまた違う染まり方に、オレは心の中で密かにガッツポーズをしていた。

 思った以上に好感触じゃね?

 これなら上手くいけば、このまま恋人になれるかも…と少し浮かれた時だった。オレの告白を聞き終わった海馬がふぅ…と嘆息して、眉根を寄せて少し困ったような顔をしながらオレの事を見返した。
 あ、やっぱりダメか。断わられるんだなー…と諦めモードに入ったんだけど、海馬の口から出て来た言葉はオレの予想を遙かに超えていた。

「セックスは…出来無いぞ?」
「………はい?」

 好きとか嫌いとか、はいとかいいえとか、そんな答えを予想していたオレの頭にいきなり『セックス』という単語が入り込んできて、正直一瞬何を言われたのか理解出来なかった。
 セックス? セックスってあのセックスだよな? オレが海馬としたいって思ってる、あのセックスの事だよな…?

「え? あの…セックスって…? えぇぇっ!?」
「だからセックスだ。抱き合う事は出来無いと言っている」
「ちょっ…ちょっと待ってくれ! 何でいきなりセックス? てか、オレの告白はどうでもいいのか!?」
「告白…は…別にどうとでも…。オレもお前と同じ気持ちだったと言えば、理解出来るか?」

 同じ気持ちと言われた事に、ブンブンと激しく首を縦に振る。
 理解出来る。勿論理解出来るよ! 超出来る!! 要はお前もオレの事が好きだったって事だろ? それって両思いだったって事じゃん!!

「それじゃあ…」

 一気に明るい気持ちになって笑顔になったら、そんなオレの顔を見て海馬はまた悲しそうな顔をした。
 へ? 何で? せっかく両思いだっていうのに、何でそんな泣きそうな顔をしてるんだ?

「海馬…?」

 首を傾げて名前を呼べば、海馬は深い溜息を吐いて目を伏せた。そしてボソリと言葉を放つ。

「感じないのだ」
「…? 何を?」
「だから…感じないのだ」
「感じないって…」
「だから…その…。分かり易く言えば性感が無いのだ。何をしても気持ちいいとは感じられない」
「え………?」

 真っ赤な夕日に照らされて、俯き加減で重たい口調で話す海馬。その言葉には決して嘘は含まれて無くて、オレは自分の告白以上に凄まじい内容の話を聞いているんだという事に気が付いた。
 性感が無い。感じられない。それって…。

「更にオレはEDなのだ。つまり勃たない。性的に興奮する事も出来無いし、勃起もしないし射精も出来無い。した事も…無い」
「なっ…!? 射精した事無いって…!? それ…マジ?」
「嘘は言っていない。気が付いたらこうなっていた。身体には何の異常も見付からない事から、精神的なものの所為だろうとは医者に言われているがな」

 そこで一旦言葉を句切って、海馬は自分が何故こんな風になってしまったのかをオレに教えてくれた。
 海馬は海馬剛三郎の養子になってからすぐ、性的虐待を受けたのだそうだ。実際に犯された事は無かったらしいんだけど、見知らぬ中年や壮年の親父達の前で裸にされ、身体のあちこちを触られたり、手や口で相手の射精を手伝わされたりと、散々な事をされていたらしい。
 その時に海馬が心底思ったのは、大人の男というのは臭くて汚くて酷く醜い最低な生き物なんだっていう事だった。幼心に強烈なイメージで心に食い込んだその考えは、やがて成長していった海馬の身体にも影響を与え始める。
 背が伸び骨格もしっかりしてきて、大人の男として充分に育った筈なのに、性的な成長だけは一切進む事が無かった。

 何をしても性的に感じる事が出来無い。興奮しない。勃起しない。射精出来無い。

 本来だったら自分の身体の異常に悩み苦しんで、何とかしようと足掻くんだろう。もしオレが海馬と同じ立場になったりしたら、間違い無くそうすると思う。だけど海馬は、自分のその症状に対して何の不都合も感じていなかった。
 元々性体験に対してトラウマがある。セックスは汚くて醜いもので、決して綺麗なものでも神聖なものでも何でも無い。もし自分があの汚い親父共と同じような大人の男にならなくちゃいけないんだったら、むしろこのままでいた方が都合がいい。
 …海馬は、そう思ってしまったんだ。

「だからセックスは出来無い。オレもお前の事が好きだが、付き合うのは無理だろう。お前は『普通の男』だからな。そういうの無しとかは…考えられないだろう?」

 最後にそう言って、海馬は完全に俯いて黙り込んでしまった。日が暮れてきて冷たい風が吹き付ける。まるで海馬の心のような冷たさだって思った。そしてそんな冷たい風に吹かれていたオレは、衝撃の告白を聞いていた筈なのにショックを受けるどころか、その冷たさを温めたいと思っていた。
 ショックじゃないかと言われれば、そんな事は無い。確かにショックだったさ。でもそれで海馬への想いが変わる訳じゃあるまいし、感じられないなら『オレ』が感じるようにしてやればいいだけの話だと…そう思ったんだ。

「うん。考えられない。無理」

 海馬の言葉にハッキリと答えると、海馬はやっぱり…という様な顔をしてますます顔を俯けていく。だからオレはそんな海馬に、追い打ちを掛けるように言葉を放った。

「でもお前の事も好きだから。諦めきれないから、付き合ってくれ。勿論セックス込みで」
「だから城之内…っ。それは無理だと言って…っ」
「何が無理なの? 身体に異常は無いんだろ? だったら取り戻せばいいだけの話じゃん」
「取り戻せばって…お前…。そんなに簡単に言うけどな…」
「簡単じゃ無いよ。簡単だなんて思って無い」
「………?」
「でもオレはお前とセックスがしたい。お前が好きだからセックスがしたい。セックスは汚いもんでも醜いもんでも無いんだよ。好きな人同士が気持ちを確かめ合う…凄く大事で大切なものだ」

 オレが海馬の目を真っ直ぐに捕らえてそう言うと、それを目を丸くして聞いていた海馬は途端にクシャリと顔を歪ませて瞳を潤ませた。その表情で全てが分かる。海馬だって、本気でこのままでいいと思っていた訳じゃ無かったんだ。多分…ずっと苦しんでいたんだ。『普通』じゃない自分に悩んでいたんだ。
 ただ、幼い頃のトラウマがその苦しみを押さえ込んだ。このままでいいと思い込ませた。
 海馬にとって…それはどんなに辛い事だっただろう。

「頭では…分かっているのだ…。『普通のセックス』は…決して悪いものでは無い。健全な行為だと…分かっている。けれど、オレの記憶がそれを認めない。性交渉の事を考えると、汚くて醜いシーンしか出て来ないのだ…」

 白い頬にぽろりと涙が一筋伝っていく。海馬の苦悩が形に表れた瞬間だった。
 そっと手を伸ばして、その涙を指先で拭ってやる。温かい涙が皮膚から染み込んで血管に入り込み、深くオレの中を巡っていくように感じられた。

「小さいお前に手を出したおっさん達は…確かに汚くて醜い事をしていたんだろうさ。でもな海馬。それはセックスじゃ無い。一方的なそれは性的虐待とかレイプとか言うんであって、セックスじゃ無いんだ。オレがお前としたいのは…セックスなんだよ」
「分かっている…。だが…汚い…醜い…っ! 考えるだけで気持ちが悪くなる。吐き気がするんだ!」
「無理はしなくていい。お前はそのままでいていいんだ…海馬。だけどオレは…オレだけは…、特別にしてくれないかな?」
「何…だと…?」
「他の奴らには何も感じなくていいから。その代わり、好きだと思うオレに対してだけは感じてくれよ。閉じた心を…開いてくれ」
「お前に…だけは…?」
「そう、オレにだけ」
「………」
「だから付き合って? オレも焦らないから。ゆっくり感じるようになればいいさ」
「だ…だが…」
「絶対無理矢理セックスしたりなんてしない。約束する」
「だが…それでもオレは…自信が無い。このままではきっと一生治らないような気がするのだ…」
「だったら少しずつ慣らしていけばいい。何だって最初から上手くいく筈無いんだからな。そうだ、レッスンしようぜ海馬」
「レッスン…?」
「うん。一緒にレッスンしよう? お前がちゃんと感じる事が出来るようになるまで、少しずつ慣らしていこう。オレも一緒に頑張るから。な? いいだろ?」

 海馬の細い両肩を掴んで、顔を覗き込んでそう提案する。必死なオレの声に海馬は暫くパチパチと瞬きを繰り返して、そしてやがてほんのり顔を赤くしながらコクリと頷いて了承した。



 それが今から一ヶ月前の事。
 この一ヶ月は、昼休みに一緒にお昼を食べたり、たまに一緒に帰ったり、手を繋いでみたり、キスをしてみたりして、反応を確かめつつ様子を探っていた。本当はディープキスくらいまではやっておきたかったんだけど、流石にまだ触れ合わせるだけのキスで精一杯だった。
 唇を押し付けても海馬は何も反応しない。ただピクリと小さく肩を震わせて、いつも泣きそうに顔を歪めていた。まるで何も感じられない自分を責めているかのように…。
 その度にオレは海馬の頭を優しく撫でて、「大丈夫。海馬は何も悪く無いよ。大丈夫だから…」と声を掛ける。海馬はオレの肩口に顔を埋めて、いつも黙ってじっと何かに耐えているようだった。
 そしてある日…というか今日の昼間の事なんだけど、この状況に我慢出来無くなった海馬がオレにこう言ってきた。

「城之内…。そろそろレッスンを…始めてみないか?」
「え………?」

 真っ直ぐにオレを見詰める青い瞳。その目に浮かぶのは強い決心とオレに対する真摯な気持ちだけで、決して自暴自棄になった訳じゃ無いって事がよく分かる。

「だけどお前…いいの…か?」
「あぁ。構わない」
「無理しなくていいんだぜ…。オレだってそんなに焦ってる訳じゃ無いし、お前の事が好きだからまだ暫くは待っていられる。もう少し時間が経ってからでも…」
「待つだけ無意味だ。それにこういう事はさっさと始めてしまった方が良いだろう。時間が経てば経つ程、取り返しの付かない事になる」
「だけど…」
「オレが良いと言っているのだ、城之内! やるのかやらないのか…さっさと決めろ!!」

 海馬のその強い言葉に、コイツがどれ程悩んで…そしてどれだけの覚悟をして決意を固め、レッスンを受ける事を決めたのか…、痛い程に伝わって来た。だからこそオレは、この想いを無視しちゃダメだと思った。
 海馬の決意をちゃんと受け止めてあげなくちゃいけないんだって…オレも強く覚悟する。

「分かった。じゃあ…今日の夜にお前んとこの邸に行ってもいいか?」
「あぁ」

 オレの問い掛けに、海馬はしっかりと視線を合わせながら頷いた。



 そしてオレ達は今…海馬の寝室にいる。
 シャワーを浴びてきた海馬をベッドの縁に座らせて、ゆっくりと押し倒していった。緊張でカチコチに固まった身体をゆっくり撫で擦りながら、オレは優しく笑いかけながら耳元で囁く。

「大丈夫…。最初から全部したりしないから。今日はちょっと触るだけだからな?」

 オレの言葉に海馬は力無く頷き、そして目を閉じてそっと身体の力を抜いていった。