一週間悩みに悩んだ週末。今週もまた、城之内が泊まりに来た。
夕食を終え、城之内が一人でテレビを見ている間にゆっくりと風呂に浸かりながら、オレはまだ迷っている自分の心と向き合っていた。
城之内にオレの欲望を示すという事は、オレが持っている性的技術を全てさらけ出さないといけないという事だ。もし本当にそんな事をすれば、城之内がどんなに幻滅する事だろう…。考えれば考える程、恐ろしくなる。
性的虐待を受けた幼い頃のあの日々に、汚い大人達に言われた言葉が脳裏に甦る。
『何て淫乱な子なんだ』
『本当にお前はやらしい子だね』
そんな酷い言葉を投げ付けられる度に悲しくて…悔しくて、耳を塞いで必死に首を振って否定し続けた。違う違う、自分はそうじゃないんだ。絶対に違うんだと…。
けれど大人達の言葉はしつこくてまるで催眠術のようで、いつの間にかオレは自らその言葉を受け入れ、そして事実として思い込むようになった。今考えるとオレがEDになってしまったのは、実際に性的虐待を受けたトラウマは勿論の事、自らを淫乱だと強く思い込んでいたその思考に問題があったのでは無いかと思う。
その下らない思考を粉々に打ち砕き、恋人としてオレのトラウマを癒してくれたのが…城之内だった。どこまでも優しく、辛抱強く、オレが回復するのを待ってくれた彼は、オレが完全に元に戻った時なんて嬉しさの余り泣いてくれた程だった。オレはその事については、本当に心から城之内に感謝をしている。だからこそオレは、そんな城之内に自分の真の姿を見られるのが怖くて堪らないのだった。
けれどもそれは…城之内も同じなんだという事に気付く。
城之内が必要以上にオレに優しく接するのは、城之内自身が再びオレのトラウマにならないように…と気を使っているからだ。
過去に性的虐待によってトラウマを持った恋人を持てば、男としてそれを気にするのは当然だと思う。ましてやオレはつい最近までそのトラウマによってEDであり、全く快感を感じる事が出来無かったのだ。それを治してくれたのは城之内だったが、だからこそ、再びそれがぶり返すのを一番怖がっているのも城之内だったのだ。
あの優しさは、もしオレが再びトラウマを起こしたらどうしよう…という恐れの裏返しだ。オレがもう二度と性的な事に関して恐れを抱かないように…トラウマを再発する事のないようにと、まさに壊れ物を扱うようにしか触れられないのだ。
その恐れは…多分オレが与えてしまったものだ。無意識だったとは言え、オレが城之内にその恐れを取り入れさせてしまった。だから城之内自身にその恐れを無くせとは言えない。いや、オレ自身が何とかしないとどうにもならない事なのだろう。
その事に…漸く気付いた。
「恐れているのはオレでは無くて、お前の方だったのだな…城之内」
ゆったりと湯船に浸かりながら、浴室で一人呟く。声は響いたが、湯気に揺らめいてすぐに消えてしまった。
独り言のように呟いたその言葉が城之内に届く事は無い。届けたいのなら、オレが自分で勇気を示すしか無いのだ。
「………」
静かな浴室の中で、オレは覚悟を決めていく。
あの頃の自分と面と向き合うのは、やはりまだ…少し辛い。けれどこれ以上逃げる訳にはいかなかった。
恋人である城之内は、自分のやるべき事をしっかりとやったのだ。残りの後始末はオレ自身の問題だ。自分で開けた箱は自分で閉じなければならない。それが一人の人間としてのケジメだからだ。
城之内に甘えるのはもう止める。オレは完全に覚悟を決めて、湯船の中から立上がった。
バスローブを羽織って部屋に戻ると、そこに城之内はいなかった。テレビは既に消されていて、代わりに寝室へ繋がる扉が開かれている。そっと近付いて覗き込むと、城之内はベッドに横になって何かの漫画雑誌を読んでいた。
「何を読んでいるのだ?」
タオルで髪を拭きながら近寄れば、城之内は雑誌を閉じて顔を見せる。そしてオレと目が合うと、ニッコリと嬉しそうに微笑んだ。
「ただの週刊誌。もう全部読み終わってたけど、暇潰しに読んでただけだ」
「そうか」
「お風呂、気持ち良かった?」
「あぁ」
「こっちおいで。いい匂いしてるな」
ヒラリヒラリと手招きされて、オレは素直に近寄ってベッド脇に腰掛ける。すると寝転がったままの城之内が近付いて来て、オレの腰にギュッと抱きついた。こういう仕草がたまに子供っぽくて可愛いと思う。
スリスリと頭を擦り寄せて来たので、手を伸ばして荒れた金髪を梳くと、城之内は「へへっ…」とまた嬉しそうに笑った。
「オレ、風呂上がりのお前が好きだよ。だって身体がちゃんと暖かいんだもん」
「失礼な。いつもは冷たいと言わんばかりではないか」
「実際冷たいじゃん。たまに心配になるんだよ。こんな冷たくてちゃんと生きてんのかなーって」
「それこそ失礼だな。オレは死人では無い」
「あはは、そんなに怒らないでよ。ただ単に嬉しいだけなんだから」
「………」
「愛してるよ。大好き」
腰をぐっと引っ張られるのを感じ、オレはそれに逆らわずにベッドに仰向けに寝転がった。城之内はそんなオレの上に乗りかかって、バスローブの紐を解いて合わせを開いてしまう。薄い胸に熱を持った掌が這わされるのを感じ、オレはふぅ…と溜息を吐いた。
「どうした? 溜息なんか吐いちゃって…。今日はやる気無い?」
オレの溜息に気付いた城之内が顔を上げてそう問い掛けてくるが、オレはそれに首を横に振って答える。
「違う。そうでは無いのだ」
「じゃあ…アレか? 身体の調子悪い? やっぱ今日は止めとくか?」
「それも違う。ただ少し…お前に話しておかなければならない事がある」
「………? オレに…話?」
キョトンとした表情で首を傾げる城之内を見詰めて、オレは胸の上に置かれたままだった熱い掌に自分の手を重ねてキュッ…と握り込んだ。
「城之内…。オレはお前に、感謝しているのだ」
じっと…琥珀色の瞳を見詰めたままそう話し出すと、城之内はほんの少し微笑みを浮かべて「ん? 突然何?」と言葉を放った。その言葉に反応はしないまま、オレは自分の話を続ける事にする。
「オレが過去のトラウマでEDになってしまい、感じる事が出来無くなっていたあの頃。お前はそれを懸命に…少しずつ治してくれたな。なかなか結果が出なくてオレが焦っていた時も、お前自身は焦りを見せずにいつでもオレを慰めてくれていた。それがどんなに心強かったか…。お陰で心も身体も元に戻る事が出来て、お前には本当に感謝しているのだ」
「あぁ、いやそれは…。オレはお前の事が好きだし、やっぱりほら…セックスしたかったからさ。褒められるような事は何一つしてないぜ」
「お前はそう言うが、オレとしては本当にありがたかったのだ。オレだって…好きな相手と気持ち良くなりたかった…から…」
「う、うん…。改めてそう言われると…何か照れるな」
顔を真っ赤にして「えへへ」と笑う城之内に、つられてオレも笑顔になる。けれど、オレの話はまだ終わってはいない。本題は…これからだ。
「けれど城之内…」
「ん?」
「お前はそこから先に進んでいないだろう?」
「………? え? 何が?」
「オレが感じるようになって…ちゃんとセックス出来るようになって。だけれども、そこまでで終わってしまっている。ここでゴールしてしまっていいのか? もっと先に、目指すべきものがあるのでは無いのか?」
「海馬…?」
「オレはそれが悔しくてならない。何故これで満足してしまっているのだ? 本当はもっと本気で愛し合いたい癖に…」
「ゴ、ゴメン…海馬。オレ…お前が何言ってるか分からな…」
「分からない筈が無いだろう。むしろお前はずっと考えていた筈だ。もっとオレを…滅茶苦茶に抱きたいと」
「………っ!?」
「思って無かったとは…言わせないぞ」
そう言って少し強い視線で睨み付けると、城之内は赤い顔から青い顔へと移り変わる。如何にも図星を指されたかのようにギクッと顔を硬直させ、先程まで優しげに細められていた琥珀色の瞳は不安げに揺らめき出した。
自分の中のやましい気持ちを見透かされた事に不安を感じ始めた城之内に、オレは安心させるように優しく微笑みかけてやる。そして腕を上げて、城之内の頬にピタリと掌を当てた。
大丈夫だ…城之内。オレは決してお前を責めている訳では無い。オレはただ…愛されるだけの自分が嫌になっただけなのだ。愛されるだけでは無く、自分でも愛したくなった。それだけなのだ。
「怖いか? オレが…」
「………え?」
「オレが再びトラウマを起こし、快感を感じなくなるのが…怖いか?」
「そ…それは…っ!」
「城之内?」
「………それは…。う…うん…」
オレの言葉に城之内は少し考え込み、けれどハッキリとそれを肯定した。
やはりな…と思いつつも、オレは言葉を続ける。核心に近付くにつれて、自分の心臓がドキドキと高鳴っていくのが良く分かった。
「怖がるな…城之内。本当に怖いのは、このオレなのだ」
「………海馬?」
怖い怖い怖い。真実を告げるのがこんなに怖いとは思わなかった。
けれど…ここで立ち止まってはいけないのだ。怖いのは城之内も同じ。いや、オレよりももっと怖いだろう。真実を知っているオレより、真実を知らない城之内の方が圧倒的に不利だ。だったら…オレの方から歩み寄らなければいけない。
勇気を示すのは…今だ!
「オレは…お前も知っての通り、過去に性的虐待を受けている。幸い最後まで犯される事は無かったが、それでも幼い子供には不釣り合いの技術を身に着けさせられてしまっている。オレはそれを…お前に知られるのが怖い」
「海馬…それは…!」
「分かっている。お前がそれをどう思っているか、よく知っている。それはオレの所為では無いと…汚い大人達がいけないんだと言いたいのだろう?」
オレの問い掛けに、城之内は真面目な顔をしてコクリと頷いた。琥珀色の瞳が真摯な光を発している。その光が…本当に嬉しかった。
城之内の気持ちが見える。城之内が…オレを心底愛している事が分かる。
それさえ分かればもう充分だ。もう何も怖く無い。何を言っても…きっと受け入れて貰えるだろうから。
コクリと生唾を飲んで、オレは次の言葉を吐き出した。
「オレは今でも、その時習った事をよく覚えている。一切やらなくなってしまったが、やれと言われれば出来る自信がある」
「い、いやそれは…! 無理してやる事じゃ…!」
「そうだな。無理してやる事では無いのかもしれない。実際オレも、あの頃はそれをするのが嫌で嫌で堪らなくて…やれと言われる度に逃げ出したくなった」
「うん…そうだよな」
「だけど今は、それをやりたいと思っている」
「分かるよ…うん…って、ええぇっ!?」
「やりたいのだ…城之内。お前を愛しているからこそ、お前にしたいと思っているのだ…」
「か、海馬…っ!?」
「お前が思っているより、オレはきっと…テクニックがある。もしかしたらそれをする事によって、お前は幻滅してしまうかもしれない…」
「………っ」
「それでもオレは…お前にしたいのだ」
「海馬…!!」
仰向けに寝転がっていた体勢を、肘を突いて上半身を起き上がらせる。そしてオレと向かい合う体勢になった城之内の背に腕を回して、ギュッ…と抱きついた。直接会わせた胸から、トクトクトク…と強い心臓の音が響いてくる。その音がオレの心臓の音なのか、それとも城之内の物なのか、もしくは二人分の心臓を合わせた音なのかは分からなかった。それだけ強くその音は鳴り響いていたから…。
「城之内…。オレはお前を愛したい。お前にもオレを愛して貰いたい。もう…表面を撫で回すような優しいだけのセックスはいらない。もっときちんと…愛し合いたいのだ。恋人同士として」
「海馬…お前…っ」
「受け入れて貰えるか? オレの愛撫を。例えお前の想像と違っていても…幻滅してしまっても…オレはお前に受け入れて欲しいと…そう思っているのだ」
真剣な顔をしてそう訴えかければ、城之内は少し戸惑ったような顔をしていた。けれど次の瞬間、キュッと唇を強く引き結んで…コクリと強く頷いてくれる。
「受け入れて貰えるか…だって? 愚問だな、海馬」
先程まで見せていた戸惑いの表情は完全にどこかに消え、代わりに強い意志を宿した顔で城之内は微笑む。そして大きくて暖かな手で、オレの頭をゆるりと撫でてきた。熱を持ったその掌が気持ち良くて、オレはついウットリとしてしまう。
「オレはお前を愛しているんだぜ? お前を愛したその時に、お前の全てを受け入れる覚悟はしてある。今更だぜ、そんなの」
「城之内…」
「正直…オレもちょっと限界を感じていたんだ。でもそれもお前の為だと思って我慢してたのは…認めるよ」
「やはりな」
「怖かったんだよ。お前の言う通り、オレの所為でお前が元に戻っちまうのが怖かった。でもオレが少し我慢すれば、お前が再びトラウマを起こす事も無いし、何よりこの先もずっとこうやって愛し合っていける。だからそれで充分だって思ってたんだけど…」
「馬鹿だな…。その結果、オレまで物足りなくしてどうする」
「も、物足りないって…お前…!」
「物足りなかったぞ? もっともっと激しくお前と抱き合いたいと…最近はずっとそう思っていた」
「なっ…なっなっなっ…!!」
「だから…オレにもさせてくれ…城之内」
城之内の目の前でバスローブをゆっくりと脱ぎ捨て、妖艶に微笑んでみせる。青冷めていた城之内の表情が再び真っ赤になって、喉仏が上下してゴクリと生唾を飲む音がこちらにまで聞こえて来た。
本当はまだ怖い。自分の持っている技術を見せつける事に戸惑いを感じる。けれどもオレは、踏み止まろうとする自分の心を叱咤して先へ進む事を選んだ。
大丈夫だ。城之内ならきっと大丈夫。彼ならオレの全てを受け入れてくれると…そう信じているから。
オレは恐怖と緊張で震える手を持ち上げて、そっと恋人の…城之内の身体に這わせていった…。