1月25日9時30分
一月二十五日の午前九時半。オレは浮上する意識に従って瞼を開いた。ベッドの上から薄明るい部屋の中をざっと見渡してみると、側に誰かがいる事に気付いた。
遮光カーテンの隙間からは外の明るい光が漏れ、ベッド脇に座っている人物の姿をシルエット状にしている。じっとその影を見ていると、オレが目覚めた事に気付いた影がゆっくりと動いてオレの頬に掌を当てた。大きくて熱い…そして優しい掌にそっと頬を撫でられ、前髪を掻き上げて額に触れられる。
「うん…良かった。熱も大分下がったみたいだな」
「城之内…?」
「おはよう海馬。よく眠ってたな。気分はどう?」
ニッコリと微笑まれながらそう尋ねられて、オレは改めて自分の体調を意識した。
喉は…まだ少し痛い。けれど頭痛はもう無いし、身体も昨夜よりずっと軽い気がする。呼吸も随分と楽になった。
「大分…楽だ」
「そうか。一応熱を計っておこうな」
そう言って城之内はサイドボードの上に置かれた体温計に手を伸ばした。電源スイッチを入れて、計測部分をオレの耳孔に差し込む。数秒後、ピピピッという電子音が聞こえ、城之内は体温計を手元に戻して浮き出た数字に目を通していた。
「三十七度五分。まだ微熱はあるけど、もう大丈夫そうだな」
ホッとしたように笑顔を浮かべ、城之内は体温計の電源を切ってサイドボードの上に元通り置いていた。「飯は? 何か食べられる?」という質問にコクリと頷いて答えると、城之内はその場を立ち上がって寝室から出て行ってしまった。そして隣室に置いてある内線を使い誰かと話をすると、また寝室に戻って来る。直接オレの側には戻らず、窓際に寄ると遮光カーテンを大きく開いて満足そうに笑っていた。
「今日も良い天気だな~。流石オレの誕生日!」
「眩しい…」
「そりゃずっと暗い部屋ん中で眠ってたんだから眩しいだろうよ。これくらいは我慢しろ」
「半分カーテン閉めてくれ…」
「嫌だね。後で空気の入れ換えもしなきゃなんないだろうし。だけど、それよりも前に着替えだな」
そう言って城之内は再び寝室を出て行った。部屋付きの浴室の方から暫くガタゴトと音が聞こえていたが、やがて手に洗面器を持ち、更に腕には何枚かのタオルを下げた状態で戻ってきた。洗面器から湯気が上がっているという事は、あの中身はお湯なのだろう。大股でこちらに近付いて来た城之内は洗面器をサイドボードの上に置くと、持って来たタオルを一枚洗面器の中に放り入れた。
訝しげにその行動を見ていると、オレの視線に気付いた城之内がこちらを向いてニヤリと笑う。そして「んじゃ、ちょっと失礼」と言い、掛け布団を掴むとそれをあっさり剥いでしまった。
「な、何をする! 寒い!!」
「暖房入ってんだから大丈夫。それよりも汗一杯かいて気持ち悪いだろ? 今拭いてやるからな」
「は………?」
城之内が放った言葉がよく分からなくてポカンとしてしまう。一瞬感じた寒さも忘れてじっとしていると、城之内の手が無遠慮に伸びてきた。そしてパジャマのボタンを一つずつ外していく。
「な…っ! 何をする…っ!!」
慌てて胸元を押さえると、今度は城之内が一瞬驚いたような顔をし、次の瞬間にプッと吹き出されてしまった。
「何にもしねーよ。ただ身体拭くだけだから」
「っ………!」
「信用してよ。汗に濡れた服着てると、また身体が冷えて具合悪くなるんだぜ? な?」
「そ…そういう意味で言ったのでは…」
「ん?」
「いや…何でもない」
まるで子供に言い聞かすような城之内の態度に、ほんの少しだけ悪い事をしたような気になってしまう。
別に城之内の事を信用していない訳では無いのだ。
去年の秋から恋人として付き合って来た約三ヶ月。城之内がオレに対して手を出そうとして来た事は、ただの一度も無かった。初めてそれらしい事があったのなんて、それこそこの間の喧嘩の時に無理矢理恋人らしいキスをされた…あの瞬間だけだ。
自慢じゃ無いがオレはその手の経験が皆無な為、そういう知識に関しては物凄く疎い。世間一般の恋人同士がどのような付き合い方をしているのか、全く分からないのだ。だがそんなオレでも同じ男として『男の欲求』というものがどういうものであるのかくらいは理解出来るし、愛し合う者同士が肌を重ね合う…所謂セックスをするのだという事くらいは知っている。
城之内がオレの事を『そういう目』で見ている事は知っていた。だからいつか突然襲われるかもしれないと、覚悟をしていたのも確かだ。
けれど城之内は、オレに対して一度もそういう風に無理強いしてくる事は無かった。それどころか、何よりもオレの気持ちを大切にしようとする心意気が、城之内の行動から窺い知る事が出来る。
だからそういう意味では、オレは城之内の事を心から信用していたのだ。微熱とは言え、まだ熱があるオレに城之内がそういう行為を強要してくるとは、微塵も思っていない。
オレが着替えを阻止したのは、そういう意味では無くて…。
「あっちを向いていろ…」
「へ? 何で?」
「着替えくらい…自分でも出来る…」
ただ…ちょっと…恥ずかしかったのだ…。
真っ直ぐ注がれる城之内の視線を受け止める事が出来ず、ふいっと横を向きながらそう言う。頬が熱くなっているのが自分でも分かるから、すぐ側で見ている城之内には真っ赤になったオレの顔が見えているのだろう。その証拠に、一拍後に城之内が大笑いを始めた。
「あはっ…あはははははっ!! お前いいなぁ…超可愛い!」
「笑う事は無いだろう…!!」
「いやいや、だってお前…。恥ずかしがるなんて、ホント今更なんだぜ? お前の意識が無い間、オレが何度身体を拭いてやったと思ってんのよ」
「な…何だと…っ!?」
「こんなにデカイ身体をしたお前の看病は、モクバには無理だったしな。身体を拭いたり着替えをさせたり、そういう事してたのはこのオレだったんだぜ?」
「な…な…っ」
「はい。そういう事ですので、大人しくしてて下さい」
余りの衝撃の事実に二の句が継げないオレを無視して、城之内は慣れた手付きでパジャマを剥いでしまった。ついでとばかりに下着も剥かれ、全裸でベッドの上に転がされる。
慌てて城之内に背中を向けると、背後でタオルの水気を絞る音と共にクスクスという笑い声が聞こえてきた。
失礼な態度に一言文句を言ってやりたかったが、何も身に纏っていないこの状況で振り向く勇気は無い。全身を硬くして身体を丸めていると、背中に温かなタオルが押し当てられたのを感じた。そのまま慣れた手付きで身体を拭かれていく。
「ほら、もっとリラックスしてろよ。気持ちいいだろ?」
「無理言うな…」
「何でだよ。身体拭いてるだけじゃん」
首筋から背中をゴシゴシと拭われ、タオルが離れる気配と共に再び背後で水音が聞こえた。水気を絞る音の後に、また温かいタオルを押し当てられる。今度は首筋から肩の辺りを拭われて、腕を持ち上げられて手首から脇の下までしっかりと拭かれてしまった。
今城之内がしているのは、ただの病人の看病だ。それは分かっているのだが、どうにも恥ずかしくて仕方が無い。なるべく城之内の視線から避けるように、顔を逸らして目を強く瞑る。
そんなオレの態度に城之内はクスクスと笑っていたが、ふいに笑い止んで、オレの背中に熱い掌をぴたりと押し付けた。そして背骨に添ってそろそろと撫でられる。
「浮いてるな…」
「………?」
「大分…痩せちまったなぁ…」
浮いた背骨や肋を優しく撫でられ、深い溜息と共にそう言われた。
「全然食べて無いから仕方無いんだろうけどさ…。ちょっと可哀想なくらい痩せちゃったよな」
「あぁ、そう言えばずっと意識が無かったらしいからな」
「他人事みたいに言うなよ。お前の事なんだぞ」
「分かっている。ちなみにオレが意識を失っている間は、栄養補給は一体どうしていたのだ?」
「点滴だよ。あのお医者さんがずっと点滴しててくれた。肘の内側見てみ。痕がある筈だから」
そう言われて自分の腕の内側を見てみると、点滴の痕があるのを確認する事が出来た。その内のいくつかは内出血して青痣になってしまっている。点滴痕をじっと見ていると、その腕を掴まれて温かいタオルで拭われていった。肘の内側を拭く時は、痛みを感じないように力を抜いているのが分かる。
腕を綺麗にした後はコロリと仰向けに転がされて、今度は胸から腹にかけて拭われていく。ここまで来れば流石のオレも恥ずかしいという気持ちは薄れ、逆に城之内に全てを任せるべく深く息を吐き出して身体の力を抜いた。
オレが漸く諦めたのを感じたのだろう。城之内もどこか安心したかのように見えた。粗方上半身を綺麗にすると洗面器の中でタオルを濯ぎ、今度は太股から爪先にかけて拭っていく。内股を拭われている時は流石に恥ずかしいと思ったが、敢えて自分の感情に気付かないふりをした。
城之内もオレが恥ずかしがっている事を察している為、敢えてその事を揶揄したりはしない。それがとても有り難かった。
ふぅ…と軽く嘆息すると、それに気付いた城之内が「気持ちいいだろ?」と訊いて来る。それに素直にコクリと頷けば、城之内はニコリと笑って…それ以上は何も言わなかった。
「これで良し…と。もう少ししたら食事が来る予定だからな」
全ての清拭を終え、更に用意してあった新しい下着とパジャマに着替えさせて貰った後、城之内は掛け布団をオレに掛けながら満面の笑顔でそう言った。
「さっき内線で連絡していたのはその為だったのか」
「うん、そうだよ。海馬の目が覚めたから、一時間くらい後に何か食べやすいもの持って来てって頼んでおいたんだ。オレが食べさせてやるからなー」
「いい。自分で食べる」
「またまた、そんなつれない事を」
「自分で食べられると言っているのだ!」
少し大きな声でそう言い放つと、城之内はひょいっと肩を竦めて苦笑していた。「そんなに怒らなくたっていいじゃんか。目を覚ますと途端にこれなんだから…」とブツクサ言う城之内に、また罪悪感が募る。
別に…怒った訳では無いのだ。ただ、物を食べさせて貰うという行為が…恥ずかしいと感じただけだった。
「………」
「………」
それから暫くは、無言の時間が続いた。窓の方に目を向けると、レース地のカーテンがヒラヒラと揺れている。先程城之内が、部屋の空気を入れ換える為に窓を少しだけ開けたのだ。部屋を通り抜ける冬の風は確かに冷たかったが、頭がスッと冷えて心地良いと感じた。
チラリと城之内の方を覗き見てみると、奴も気持ち良さそうにして揺れるカーテンを見詰めている。こちらの動きに気付いた様子は無かったので、そっと手を伸ばして膝の上に置かれたままだった城之内の手を握った。
「海馬…?」
「城之内…。せっかくの誕生日を台無しにしてしまって…本当に済まなかった」
手を握られる感触に振り返った城之内の顔を見詰めながら、オレは静かにその名を呼ぶ。そして思ったままを素直に口に出した。
オレの言葉に城之内は何の返答も返さない。不安な時間が流れていくだけ。ただじっと見詰め返してくる琥珀の視線に耐えかねて、けれど視線を反らす事はせずにギュッと熱い掌を強く握る。
すると城之内は次の瞬間に破顔して、フルフルと首を横に振った。
「何で? 台無しになんてなってないじゃないか。ちょっと早かったし無理矢理だったけど恋人としてのキスはこの間貰ったし、二十五日もこうして一緒に過ごしているだろ?」
「だが…。お前が求めていたのはこんな誕生日じゃ無かった筈だ」
「まぁ確かにオレが想像していたものとは違ったけどな。でもこういうのも有りなんじゃないか? お前は大変だっただろうけど、オレは結構満足してるんだぜ。今も楽しいしな」
「楽しい…?」
「うん、楽しい。お前の側にいられるだけで楽しいんだよ。それだけで嬉しいって思うんだ」
側にいられるだけでいい。それだけで嬉しい。
そう思っているのは自分の方だと…口には出せなかったが強く思った。
城之内が居ないあの冷たい世界は、こんな些細な幸せさえも求める事が出来ない世界だった。もう二度と戻りたくないあの世界…。ただの夢だと城之内は言うが、オレはそうは思えなかった。
あの夢はきっと警告だったのだ。自分が城之内に対して何か後悔するような事をしでかした時に、あのような事になるという…警告。どんなに後悔しても、決して後戻り出来ない世界。城之内の居ない世界で生きていかねばならないという…残酷な世界。
あんな辛い後悔を…オレは二度としたくないと思った。
「今週末の…土曜日から日曜日にかけて、予定を空けて置くから泊まりに来い」
「え………?」
後悔はしたくない。だから勇気を出す。
待っているだけではダメなのだ。幸せになりたいと思ったならば…自分から手を伸ばさなければ。
「誕生日パーティーを…やり直す。だから…来て欲しい」
そう伝えて強く手を握ると、城之内はニッコリと笑って、そしてコクリと強く頷いてくれたのだった。